番外編 女中の胸中
番外編 女中の胸中
――あの時、何もなければよかったのに。
女中はずっと胸の奥でそう繰り返していた。
主人に仕えて長い年月。口数の少ない彼ではあったが、その背を見て働くことに誇りを覚えていた。
だが生活は楽ではなかった。給金も決して多くはなく、時折訪れる古物商から耳打ちされる言葉に、心を揺さぶられた。
「こっそり品を回せば、あんたの取り分も増えるぜ」
最初は無視した。けれど、重ねられる誘いは、じわじわと日々の不満を突き崩していった。
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あの時、納戸に主人と古物商が居合わせた。
怒鳴り合う声が聞こえ、呼ばれて駆けつけたとき――古物商の目は鋭く、恐ろしい光を宿していた。
そして、自分の手には清掃用具の小瓶があった。
ほんのひと匙。それを混ぜるだけで、すべてが終わる。
背筋に冷たい汗が流れた。
(いけない……でも……もう後戻りできない)
主人が崩れ落ちた瞬間、胸の奥で何かが壊れた。
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それからは恐怖と焦燥の連続だった。
外の雪に赤い幻影が浮かんだとき、思わず心臓が止まりそうになった。
(まさか……本当に呪いが……?)
けれどそれは幻影であり、仕組まれたものだった。
自分自身がその“幻”を作り出す一部だったと気づいたとき、全身が凍りついた。
探偵が冷静に真実を指摘していくたび、逃げ場は削られていった。
古物商は大声でかき消そうとしたが、私にはもう耐えられなかった。
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そして――探偵が小箱を示したとき。
“いつもありがとう”と刻まれた、主人の言葉。
その瞬間、世界が崩れた。
(私は……裏切った。あの方の心を……)
涙は止められず、声は嗚咽に変わった。
すべては欲と不安の果て。
自分を信じてくれた人の想いを、踏みにじってしまった。
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――嗚呼。もし、もう一度やり直せるなら。
そんな願いは許されないと分かっている。
だからせめて、この涙だけは偽りなく、主人への悔恨を示すものとなればと願う。
女中は顔を覆い、ただ泣き続けた。
吹雪の音に混じり、その嗚咽は長く長く響いていた。
(番外編、終わり)
メイド探偵という新しいシリーズ、ご覧いただき、ありがとうございました! 後日、メイキング編を投稿させて頂きます(^^)




