偽聖女の妹に婚約破棄させられた令嬢ですが、王太子の罠と本物の奇跡で全てを返します
朝の鐘が三度鳴ると、王城の庭に淡い霧が降りる。白薔薇の垣根を濡らすその霧は、秋が近いことを告げていた。
私の名はレティシア・オルドレイ。辺境を治める伯爵家の長女にして、王太子アレクシス殿下の許嫁だった――過去形で語るのは、今夜この婚約が解かれると知っているからだ。知っているのに、まだ胸に手を当てれば、そこには約束の温度が残っている。ひどく、意地の悪い温度だ。
王都はこの一年、瘴気に悩まされている。病は広がらないのに、感情が荒れる。街角で些細な口論が殴り合いに、笑い声が罵声に変わる。井戸は枯れず、穀倉は満ちているのに、誰も満たされない。神殿は「聖女の顕現」を告げ、王家は守護の儀を連ねた。
そして夏の終わり、聖女は現れた――私の妹、マルグリットとして。
母違いの妹は、蜂蜜色の瞳を持つ。幼い頃から人の心を和ませ、部屋に入れば空気が柔らぐ子だった。聖女の徴が彼女に降りたと聞いた夜、私は自室で膝を抱えた。喜びは確かに胸の表面にあったが、その下に沈む鈍い波を、私はどう言葉にすればいいのか分からなかった。
彼女は神殿で祝福を受け、王都の広場で初の祈りを捧げた。金の光が噴水の上に降り、子どもたちの笑い声が高くなる。人々は泣き、手を取り合い、たとえ一日でも穏やかさが戻るならと、誰もがその光を信じた。私も、信じたかった。
ただ――光の周縁に、冷たい影を見た気がしたのだ。晴れた日に土間に差す光の中に舞う埃のような、小さな濁り。祈りのあと、妹はいつも酷く疲れ、誰かの肩を借りて馬車に乗った。彼女の横を通りすぎる時、私は一度、かすかな寒気を覚えた。誰かが、どこかから、温度を借りてきている。
口にすれば嫉妬と笑われる。それが嫌で、私は沈黙した。
秋季奉納舞踏会。王都の上流はこの夜のために生きている。水晶のシャンデリアが星座のように連なり、赤い絨毯を踏むごとに香の煙がほどける。私は紺青のドレスをまとい、辺境の家の娘にふさわしく飾りは控えた。胸には銀の百合。祖母から受け継いだ家の印だ。
王太子は氷の名を持つ男だと、都では囁かれる。アレクシス。冷静で、遅い。決して急がず、言葉は必要な分しか話さない。私たちの婚約は政治の産物だったが、彼は私を尊重し、私は彼の遅さを信じた。遅さは愚鈍ではない。考えるための間だ。
だからこそ、壇上で彼が私の名を呼び、婚約破棄を宣言したとき、私は一歩だけ遅れて心が落ちた。
「レティシア・オルドレイ。王国は聖女を守らねばならぬ。君との婚約を、ここに解く」
ざわめきは波のように天蓋へ打ち、また落ちてきた。私は一礼し、王太子の目を見た。彼の瞳は凪いでいる。怒りも悲しみも、何もない。私は唇に微かな笑みを浮かべ、答えた。
「御意のままに」
背後で、誰かが小さく息を呑んだ。妹だ。白いドレスの裾を握りしめ、涙を溜めた瞳で殿下を見上げる。
「殿下……国のための御決断を、ありがとうございます。姉さまは、聖女の務めを……」
何を言うのかは、分かっていた。私は下がり、マルグリットの言葉を遮らない。会場には神殿の高官、王宮の侍従長、各家の当主。王国の目と耳がすべて揃っている。この場での言葉は、国の形を変える。
神官長が手を広げた。「聖女の奇跡をご覧あれ」
金の光がふわりと会場を満たす。ため息が広がる。その裏で、私は自分の手首の内側に残る小さな痕を撫でた。三日前の夜、神殿の最奥で押された熱の跡。祖母の置き土産のような古語の祈りとともに、私の皮膚に刻まれた薄い花弁の形。私はあのとき、神殿長老に言われている。「今は伏せなさい。祈りの器は、露出すれば割れる」
長老の目は濃い灰色をしていた。「偽りは偽りのままでは終わらぬ。誰かが手を掛けている。こちらも手を掛ける。……王太子殿下が、君にお願いをするだろう。痛むが、耐えられるか」
私は頷いた。王国に必要な痛みと、個人に許される痛みは違う。それでも、いくつかは重なる。
その夜私は、初めて王太子に触れられた。舞踏会が散じ、人がいなくなった回廊で、彼は静かに言った。
「――信じてくれ」
それだけだった。手は、私の手首に。印の上に。指先が、印の形を確かめるように触れた。胸の奥で何かが整う。私は彼の目を見て、首を縦に振った。
「ええ」
婚約破棄は、流言の形で都に広がった。翌朝には下町の酒場でも語られ、昼には市場の娘がため息を吐いた。姉は捨てられ、妹は聖女として王太子の隣に座るだろう――噂はそう結ぶ。母は満足げに扇を振り、妹は瞳を伏せて涙ぐんだ。涙は人を信じさせる。信じたいものだけを。
私は自邸に戻り、来客と書状を断った。机の引き出しに仕舞われた祖母の手記を取り出し、紙の手触りを確かめる。古い言葉で綴られたそれは、井戸の歌、土の祈り、そして「転祈」について記していた。
祈りは流体だ。器から器へ移される。欠けた器から漏れた祈りは、周囲の温度を奪って形を保つ――祖母の字でそうあった。私はそこで手を止めた。温度を奪う。あの寒気。妹の祈りのあとに漂う、微かな凍え。
誰かが「転祈」をした。祈りの流れを、私から妹へ。印は私に刻まれたが、力の一時的な通り道は、妹の方へ作られている。ならば、妹は本当に奇跡を起こせる。だから皆が信じる。だからこそ、危うい。流れを乱す祈りは、どこかで歪む。
王城では「秋の大祷」の準備が進んだ。年に一度、地下水脈の節を鎮める儀式だ。瘴気がもっとも集まりやすい日に、聖女が「降ろしの祈り」を捧げる。私は招待客として列席することになった。婚約破棄の身で、最前列に。
大祷の朝、都は不思議な静けさに包まれた。風が止み、鳥が鳴かない。王城の大広間の床は磨かれ、中央には古い石の円環が露出している。地の脈が通る場所。そこへ妹が白衣で現れる。美しい。誰もが息を呑む。その横に王太子。彼は私を一瞬だけ見た。遅い波が、胸の内側を撫でていく。
神官長が祈りの文句を唱え、マルグリットが両手を掲げる。淡い金の光が降りた。会場が温まる。……はずだった。
私は寒気を覚えた。空気の層が入れ替わるように、薄い冷気が客席から舞台へと吸い寄せられていく。女官が小さく身震いし、少年が母の袖を握りしめる。妹の頬が青ざめる。光は確かにあるのに、それは暖かさを剥ぎ取りながら輝いている。欠けた器が、周囲から満ちるものを奪って自分だけを保っている。
王太子が一歩、前へ出た。神官長が焦った声で祈りを急ぐ。私は静かに席を立ち、石の円環の縁に立った。祖母の手記は言う――転祈は戻せる。元の器が、自ら呼べば。
私は手首の印に指を置き、息を吸う。声は要らない。言葉は祈りそのものではない。ただ、祈りの形を整える枠だ。私は祖母が幼い私の掌に描いた丸を思い出す。井戸の縁。井戸の歌。――私は、私の名前で、呼ぶ。
空気が震えた。私の足元の石が、低く喉を鳴らす。妹の光の縁がきしむ。王太子が視線だけで神殿騎士に合図した。彼らは客席の周囲に散り、扉を閉める。逃げ道を塞ぐためではない。風の流れを作らないためだ。
妹の光が一瞬、揺らいで――はらり、はらりと剥がれ落ちた。薄い金箔が剥離するように、光の表皮が床に落ち、石に吸われる。会場の寒気が和らぐ。代わりに、石の円環の中心が薄く光った。深い井戸の底に差し込む月光のような、冷たくない光だ。
神官長の顔色が変わる。妹は震え、私を見た。蜂蜜色の瞳が問いを投げる。「どうして」。私はかぶりを振る。「返して」と言いたかったが、声にはならない。祈りを返すのは、奪った者ではなく、奪われた道そのものが選ぶ。
床下から、呻きが上がった。瘴気だ。石の目地から黒い霧の指が伸び、妹の足首に絡む。王太子が剣を抜いた。騎士たちも動く。刃は霧を裂かない。だから、彼は剣を下ろし、私の手を取った。
「レティシア。君の名で」
印に彼の指が重なる。王家の血の温度が、印の下で膨らむ。王冠の紋様は、元来、祈りの器を守るためのものだ。祖母の手記にそうあった。王と器が呼吸を合わせれば、祈りは流れを取り戻す。
私は瞼を閉じ、ゆっくり呼吸した。吸う。吐く。吸う。吐く。私の息に、彼の息が重なる。二つの波が、重なって一つになる。印が熱を持ち、床の石が静かになる。妹の周囲の金色は完全に剥がれ落ち、彼女自身の体温が戻ってくる。彼女は息を吸い、目を見開いた。瘴気は、標的を失い、石の目地から噴き出し、天井の梁へ逃げようとする。
「帰りなさい」
私は低く言った。祈りは命令ではない。道案内だ。私は瘴気に道を示す。土へ戻る道、水へ溶ける道。黒い霧はふと立ち止まり、そして――溶けた。音もなく、床の石に吸われて消える。会場の空気が、やっと息を吐いた。
長い、長い沈黙のあと、拍手が波のように広がる。私は膝が笑いそうになるのをこらえ、王太子の手を握り直した。彼は私の指を強く握り返し、囁いた。
「――すまない」
「あとで、聞かせて」
「必ず」
儀式が終わるとすぐ、高級侍従長が合図し、神殿騎士たちが会場の四隅を固めた。招かれた貴族の何人かは不満げに眉を上げたが、王太子の低い声がすべてを鎮める。
「ここからは、王国の清掃だ」
侍従長が巻物を掲げる。そこには王城織物工房の図面、神殿から貸し出された聖具の目録、そして昨夜押収された薄い金糸の刺繍衣の裁縫図があった。刺繍衣の裾の裏、肉眼では読めないほど細い糸で、祈りの導線が縫い込まれていた。祈りを受け止める器――私――から、別の器――妹――へ流すための、転祈の陣。
神殿付属の秘匿工房に属する職人は、連行されていた。彼は震える声で名を挙げる。誰が依頼し、誰が支払い、誰が見て、誰が黙ったか。名は多く、私はめまいを覚えた。
侍従長は淡々と続ける。「転祈の陣は一時的にしか働かない。今日の大祷が終われば、祈りは本来の器に戻る。だからこそ、彼らは今日の儀の直前に第二の陣を重ねる必要があった。……王太子殿下の『婚約破棄』は、彼らにその油断を与え、動きを早めさせるための作戦だ」
視線が一斉に王太子に向く。彼は私を見た。氷と呼ばれた瞳に、今は熱がある。
「痛ませた。だが、君が痛むだけで終わらせないために、必要だった」
私の喉に、やっと言葉が戻る。「分かっています」
神官長は青ざめ、長老は重く目を閉じた。長老は私と王太子に向き直り、低く頭を下げる。
「――我らが聖堂は、あまりに安易に光を求めた。祈りは見せ物ではないのに。詫びても足りぬ。責は、まず我らが負う」
母が立ち上がった。扇が震えている。「待ってくださいまし! 私は、ただ、娘たちに良い縁を――」
「縫い子たちを神殿へ連れていったのはあなたですね、レディ・オルドレイ」
侍従長の声は冷ややかだった。「“よい縁”のために王国の祈りを歪めるとは、大した家政です」
母の頬が蒼白になり、妹が震える声で私を見る。「姉さま……私は……最初は、本当に人々を救いたかった。奇跡が出た日は嬉しくて――でも、すぐに寒くなって、怖くて、なのに、皆が喜ぶから、やめられなくなって……」
私は目を閉じた。彼女への怒りは、薄い紙のように私の中に重なっている。破れば粉になる。粉は風に乗って、人の目を傷つける。私はその紙を、棚の奥に押しやる。
「マルグリット。あなたは罪を犯した。赦しが来るかどうかは、祈りの先にしかない。でも、祈りは、あなたのものだわ。借り物ではなく」
長老が判決を読み上げる。母は社交界からの追放と、王都での奉仕十年。妹は神殿の辺境修道院へ送られ、祈りの基礎からやり直す。貴族籍は保留。彼らの背後に金を出した商会は没収。王城織物工房の責任者は解任。神官長は退任を申し出、受理された。
会場の片隅で誰かが囁いた。「ざまぁ」。その音は鋭く、すぐに消えた。私は振り返らない。ざまあ、と口に出すことは、私には似合わない。似合わないが――今日に限っては、心のどこかが小さく頷いた。
儀式の後、王太子は誰とも口をきかずに私を連れ、王城の小さな礼拝堂に入った。そこは石と木しかない部屋で、古い香の匂いが染みていた。扉が閉まり、静けさが落ちる。彼は膝をつき、私の手首の印に唇を寄せた。
「レティシア。何度でも謝る。君を冷たく扱うことでしか守れぬ場面があるのが、嫌になる」
私は首を振る。彼の髪に触れ、指でその冷たさを確かめる。冷たさは氷ではない。夜の水面の冷たさだ。深く、静かで、底に火を抱える冷たさ。
「怒ってはいるわ。腹立たしくて、喉が熱くなるくらい。でも同じくらい、あなたを誇りに思っているの」
「誇り?」
「ええ。遅い人は、ときに残酷に見える。でも遅い分だけ、最後まで見渡してくれる。今日、私が倒れなかったのは、あなたの遅さを信じていたから」
彼は笑った。ほんの少し、少年めいて。
「溺れている、私は。君の遅さに」
「私のは遅さじゃないわ、意地よ」
「なお悪い」
笑いが落ち着くと、彼は真顔に戻った。「この国は君の祈りを必要としている。聖女と呼ぶことが、君を削るなら、別の名で呼ぼう。王妃見習い、祈りの番人、好きなものを」
「“器持ち”で」
「器?」
「祈りの器を持ってるから。誰かの祈りが溢れたとき、こぼさず受ける器」
「いい名だ」
彼は私の額に軽く口づけた。唇が触れた場所が温かい。私は目を閉じ、ほんの少しだけその温度を借りた。
婚約は、同じ週のうちに正式に戻された。文書は淡々としていて感情は一滴も混じらないが、その乾いた紙の向こうに、幾人もの働く手の温度を感じた。王都はざわめき、下町の酒場では別の歌が歌われた。偽りの光は退き、王城の大祷は静かに成功した――そういう歌だ。
私は王宮と神殿を往来し、祈りの整理をはじめた。祈りは水のように流れる。道が分かれていても、行き先は同じだ。孤児院の隅で泣く子の祈りも、兵舎で眠れぬ夜を越えようとする若者の祈りも。私は器の縁を磨く。こぼれないように、濁らないように。
忙しさは骨に沁みたが、不思議と疲れは軽かった。机には毎朝、白い花が一本置かれる。王太子の字で短い紙片。「今日は北の風」「昼に甘いもの」。甘いものが本当に届く日は、半分より少し多い。約束を全部守る王は怖い。少しだけ破る王は、たぶん、人だ。
冬の始まり、修道院から手紙が届いた。粗い紙に、震える字で「雪が綺麗」とだけ書かれている。差出人は妹だった。庭の雪かきをしながら、祈りの言葉を覚え直しているという。返事に何を書けばいいのか、私は三日悩み、結局、「風邪を引かないように」とだけ書いて送った。
「優しいな」
王太子が呟く。私たちは王城の南塔の窓辺に座り、積もる雪を見ていた。
「優しさは復讐の完成形だと、祖母が言っていたわ」
「その祖母の手記、貸してくれ」
「だめ。家宝よ」
「では結婚後、家宝ごといただく」
「強奪はだめ」
「ならば、持参させる」
笑って、肩が触れた。触れた場所が、祈りより早く温かくなる。
冬至の婚儀の日は、青く晴れた。私のヴェールは薄く、王太子の礼装は濃い。王都の人々が花を投げ、鐘が清らかに鳴る。誓いの言葉は短い。
「愛し、守る」
「信じ、支える」
それで十分だ。儀の後、私たちは誰もいない小聖堂に逃げ込んだ。彼は私の手を取って額に押し当て、驚くほど子どもっぽい声で言った。
「一つ願いがある」
「なに?」
「今日から、君は私の寝台の半分を奪ってくれ」
「半分では足りないわ。三分の二」
「強欲だ」
「あなたの遅さの分、広くしておくの」
「ならば、残り三分の一で、私は毎晩、君を溺愛する」
「言葉の選び方がずるい」
「ずるい王でいい。君にだけは」
私は笑い、彼の胸に額を寄せた。心音が、遅く、深い。遅さは、安心の別名だ。私たちは遅く進む。けれど確かに。祈りはあせらず、器は割れず――。
春、王都の空気は柔らかくなり、人々の声から角が抜けた。瘴気が完全に消えたわけではないが、正しく道を与えられたものは、暴れない。市場の女主人は「今年は売り言葉が優しくてね」と笑い、兵舎の若者は「寝付きがよくなりました」と真顔で礼をした。
ある日、孤児院の新館落成式で、薄い霧がまた広場を包んだ。子どもたちが不安げに手を握る。私は裾をからげて前に出た。王太子がいつものように私の背に手を当てる。
「合図は?」
「私の呼吸」
「了解した」
呼吸を合わせる。吸う。吐く。吸う。吐く。霧は行き場を得て、花壇へ落ち、土に消えた。拍手が起き、子どもが私の裾にぶら下がる。王太子はその子の頭を撫で、私に囁いた。
「――やっぱり、私は君に溺れている」
「知ってる」
「嫉妬は?」
「何に?」
「国に」
「国はあなたの愛人じゃない。家族よ」
「ならば、妻は?」
「家族の中心」
「それは重い」
「だから、半分はあなたが持つの」
彼は笑い、私の指に口づけた。指先がくすぐったい。私はその笑いが好きだと思った。氷が、水になるときの音がする。
妹から二通目の手紙が届いた。今度は、もう少し、言葉が増えていた。畑の土の匂い、洗濯物の冷たさ、夜の鐘の寂しさ。祈りの言葉が難しくて、でも覚えられると嬉しい、と。
私も少し長く書いた。王都のパン屋の新しい菓子の話、庭のスズメがずる賢い話、王太子の寝癖がひどい話。最後に一行、「いつかまた、並んで雪を見る日が来る」と添えた。
返事は春の終わりに来た。墨が滲んで読みづらい字で、「ざまぁ、と心で言われたことを、いつか笑って語れるように、働きます」とあった。私は紙を胸に当て、長い息を吐いた。ざまぁは終わりの言葉ではない。始まりの言葉にもできる。
――偽聖女は、簡単には暴けない。人の善意と期待が絡み合えば、嘘は時に本物より強い。だから、私たちは時間をかけた。痛みを受け、証に手を入れ、祈りの流れを戻した。遅く、丁寧に。
その遅さの中で、私は王太子に溺れ、王太子は私に溺れた。溺愛という名の、永い奇跡の始まりだ。
今日も私は印に指を置き、静かに呼吸する。祈りは言葉ではない。呼吸だ。君と私が、国と人が、同じリズムで吸って吐くこと。器は割れないように、縁を磨き続けること。
鐘が三度鳴る。白薔薇の垣根が霧をまとい、朝が降りてくる。私は彼の寝台の三分の二を占領したまま、彼の肩に額を押し当てて囁く。
「起きて、遅い人」
「……もう少しだけ」
「だめ。国が待ってる」
「君は?」
「私は、あなたを待ってる」
「ならば、国より急ごう」
「だめ。遅くていい」
「なお悪い」
笑いが重なり、呼吸が重なる。遅さは、たしかな歩みの別名だ。私たちは遅く進む。祈りは満ち、器は満たされる。――そして、ときどき、甘いものも忘れずに。