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仲直り記念日

作者: IYA−I

 人の声がざわついていた。

 壁越しに響くそれは潮騒のようで、笑い声とすすり泣きが入り混じった不思議な響きだった。僕はどうにも落ち着かなくて、廊下の奥にある古びたトイレへと逃げ込んだ。


 狭い空間で一息ついたそのとき、ノックが響いた。コン、コン、と控えめに。

「入ってます」そう返したが、ノックはやまない。悪ガキがちょっかいをかけているのだろうか。耐えきれず、扉を開けた。


 ――ガチャ。


 こんな日でも元気な子供がいるものだ、と小言を用意しかけた僕は、言葉を失った。

 目の前には、一面に草原が広がっていた。

 風が吹き抜け、青草の匂いが鼻をくすぐる。まぶしい光に目を細めると、遠くに羊の群れが見えた。


 慌てて扉を閉める。息を呑む。ここは祖父の家のトイレのはずだ。

 便意も尿意もすっかり引っ込み、無意味に水を流す。腰を下ろしたとたん、再びコン、コンとノックが響いた。


 恐る恐る、今度はゆっくりと扉を開ける。

 広がっていたのは沖縄の海のような透きとおる青。

 波のうねりがトイレの床へと迫ってくるが、見えない壁に阻まれるように留まっている。心臓が早鐘を打つ。僕は思わず一歩踏み出した。


 ――ばしゃん。


「うおっ、あぶね!」


 足元は思ったより深く、左足は海にすっかり沈んだ。必死でドアノブと扉の淵をつかみ、なんとか体を支える。最悪な体勢だったが、ひとつだけ確信できた。

 ――これは幻じゃない。現実だ。

 足は濡れ、革靴の中で冷たい水がじわじわ広がる。


 飛び込んでしまおうかとも思ったが、扉が閉じればどうなるかわからない。リスクが高すぎる。大学でウエイトリフティング部にでも入っておけばよかった、と場違いな後悔が脳裏をかすめる。


 そのとき、足元に何かが触れた。柔らかく押し上げられ、僕の体はトイレの床へと戻された。海面をのぞき込むと、一頭のイルカが顔を出し、軽やかに跳ねて去っていった。


 扉を閉める。濡れたズボンと靴が気持ち悪い。

 再び、ノックの音。開けるしか選択肢はない。


 ――ガチャ。


 今度は蒸気に包まれた空間が現れた。

 霧の向こうから、人の話し声が聞こえる。銭湯だった。濡れて冷えた体にはありがたい。思い切って足を踏み入れる。


 だが、途端に周囲の視線が突き刺さる。

 服を着たまま、靴のまま湯場に立つ僕を、誰もが咎めるような目で見ていた。

「す、すいません……」

 誰に向けるでもなく、頭を下げる。服を脱ぎ、扉が閉まらないよう脱いだ服を隙間に挟んだ。


 体も頭も洗い、湯舟に浸かる。

 ふと思い出す。祖父と一緒に温泉へ行ったことはない。でも、家の狭い風呂に二人で入ったことならあった。

「狭いなぁ」そう言いながらも、笑い合って湯をかけ合った。――おじいちゃん。


 記憶に沈みこんでいると、声がした。

「ねえ、お父さん。ここに服があるよ」


 子供が、扉に挟んだ僕の服を引き抜こうとしていた。


 その瞬間、足を滑らせた。

 視界がぐるりと回転し、湯面に叩きつけられる。バシャッと水飛沫が弾け、湯気の中に音が響いた。


 慌てて起き上がると、扉の隙間に挟んでいたはずの服が消えている。すぐに子供の声がした。

「ねえ、お父さん、こんなところに服があったよ」


 ――やられた。

 扉は閉まり、跡形もなく消えていた。


 脱衣所で濡れた服を無理やり着込み、銭湯を出る。無賃で出るのも気が引けて、売店でアイスを一本買った。冷たさが喉をすべり落ち、頭にこもっていた熱が和らぐ。


 蝉の声が降り注いでいた。夏だ。

 そしてこの街には、見覚えがあった。


 ――お盆休みによく帰ってきた町だ。


 一度だけ、おじいちゃんと温泉に行ったことがある。そのとき変な客が派手に転んで、漫画みたいな滑り方をした。夜の食卓でその話をして、家族みんなで腹を抱えて笑った。


 蝉の声が、街の記憶と重なる。胸の奥で何かが繋がり始めていた。


 インターホンを押すと、しばらくしておばあちゃんの声が聞こえた。

「どなた?」

「……宅配です。荷物をお届けに来ました」


 自分でも荒唐無稽だとわかる嘘が、喉を震わせてこぼれた。返事までのわずかな間に、心臓の鼓動がいやに大きくなる。ガチャリ、と鍵が外れる音。


 ドアがわずかに開いた瞬間、僕は体をねじ込むように滑り込んだ。

「ごめん!」

 おばあちゃんは今よりも若かった。驚いた声が背中を追いかけてくる。振り返る暇もなく、靴のまま廊下を駆け抜けた。


 角をひとつ、ふたつ。柱の影に祖父の顔が一瞬目に飛び込む。けれど視線を逸らした。止められる。


 突き当たりに、あの古びたトイレの扉が現れる。汗が背中を流れ落ち、視界が揺らぐ。


 伸ばした手がドアノブに触れる。ひんやりした金属が、時を超える鍵のように重くのしかかる。


 ――ガチャ。


 肺いっぱいの空気を吐き出すようにして、僕は扉を一気に開け放った。


 光があふれた。

 畳の匂い。障子を透かす夏の日差し。

 そこにいたのは、小さな僕と、新聞紙を丸めた剣を構えたおじいちゃんだった。


「ほら、もう一撃こい!」

 おじいちゃんは大げさに身をのけぞらせ、笑いながら挑発する。

 子供の僕は夢中で剣を振り下ろした。新聞紙同士がぶつかり、軽い音を立てる。二人の笑い声が畳の部屋に弾けた。


 懐かしい。胸の奥がじんと熱くなる。

 けれど、これから訪れる瞬間を僕は知っている。


 やがて子供の僕は、剣を握ったまま動きを止めた。

 おじいちゃんが首を傾げる。

「どうした? どこか痛いのか?」


 黙り込んだまま俯く子供の僕。

 そして、言ってしまった。


「……チャンバラ、やめる」


 おじいちゃんは困ったように眉を下げ、それでもいつもの調子で言う。

「じゃあ、おもちゃを買いに行くか?」


 だが、子供の僕は顔を上げ、突き放すように口を尖らせた。

「つまんない。おじいちゃんと遊んでもつまんない」


 空気が止まった。おじいちゃんの笑顔が、ほんの一瞬だけ曇る。

 胸が締めつけられる。――これが、僕の後悔の始まりだった。


 その夜、子供の僕は布団をかぶり、翌朝は顔も合わせずに家を出ていった。

 記憶はそこで途切れている。ずっと心に棘のように刺さっていた光景だ。


 だが今、扉の向こうで続きを見てしまう。

 子供の僕が帰った後の居間で、おじいちゃんは一人、新聞紙を取り出していた。

 器用にくるくると丸め、端をひねり、また新しいチャンバラの剣を作っていく。


「次は、どんな戦いになるかな」

 そうつぶやき、口元に笑みを浮かべる。


 僕の視界が揺れた。涙があふれる。

 ――おじいちゃんは、あの言葉を恨んでなどいなかった。全部わかっていて、ただ僕と遊ぶことを楽しみにしてくれていたのだ。


 大人の僕は、子供の自分の背にそっと手を置いた。声は届かないだろう。けれど、言わずにはいられなかった。

「本当はちがうよな。ただ、じいちゃんに元気でいてほしかっただけなんだよな」


 唇が震え、涙が畳に落ちた。


 涙を拭う間もなく、景色が揺らいだ。

 気がつけば、そこは祖父の家のトイレの個室だった。

 もう、ノックの音はしない。あの頃の僕が、今の僕を呼ぶことは二度とない。


 ――ガチャ。


 扉を開けて、家族が集まる部屋へと歩み出す。

 白布に包まれた祖父の顔が、静かに横たわっていた。

 思い出話に花が咲く部屋。喪服に身を包んだ親族たち。香の匂いが淡く漂う。


 震える膝を押さえながら棺へ近づく。

 その横に、誰かが供えた一本の新聞紙の剣が置かれていた。

 胸の奥が熱くなり、視界が滲む。


「……じいちゃん」

 ようやく声が出た。長い間言えなかった別れの言葉を、心の底から絞り出す。


 僕は、祖父に挨拶を済ませた。

 ――今日が仲直り記念日だ。

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