言葉の花が咲く日
王国の片隅に、ひっそりと咲く庭園があった。
そこは、末の王女リュシアが唯一心を落ち着けられる場所。
人前に出ると声が震え、特に男性とはまともに言葉を交わせない。
そんな彼女にとって、花は言葉の代わりだった。
「この花は、“勇気”の意味なの」
そう呟く声は、風にかき消されるほど小さかった。
ある日、父王から突然告げられた婚約の話。
「顔合わせは一ヶ月後だ。準備しておけ」
リュシアは震えた。婚約者と話すなんて、今の自分には到底無理だ。
でも逃げたくはなかった。せめて、言葉を交わせるようになりたい。
そこで彼女は侍女に言伝して、護衛騎士カイルに頼んだ。
「リシュア王女が話し相手になって欲しいと所望しております。」
カイルは驚いたが、静かに頷いた。
それから毎日、庭園で二人は言葉を交わす練習を始めた。
ぎこちない会話、沈黙の時間、でも少しずつ、リュシアの声は強くなっていった。
彼女は知らなかった。
その騎士こそが、婚約者本人であることを――。
そしてカイルは、彼女の努力を壊したくなくて、真実を告げられずにいた。
ただ、彼女の言葉が少しずつ咲いていくのを、そっと見守っていた。
それは、まだ誰にも知られていない、優しい恋の始まりだった。
王城の朝は、静かに始まる。
けれど、末の王女リュシアにとっては、毎朝が試練だった。
侍女が髪を整えながら話しかける。
「今日は騎士団の訓練を見学されるそうですよ」
リュシアは小さく頷くだけ。声を出すのが怖いのだ。
特に男性の前では、喉が締めつけられるように言葉が出ない。
それでも、父王の命令には逆らえない。
「婚約者との顔合わせまでに、会話ができるようになれ」
その言葉が、リュシアの胸に重くのしかかっていた。
訓練場の隅で、リュシアはひっそりと立っていた。
騎士たちの掛け声が響く中、ひときわ静かな青年が目に留まる。
彼の名はカイル。若くして騎士団の副団長を務める実力者だ。
リュシアは、彼の落ち着いた所作に心を惹かれた。
そして、勇気を振り絞って声をかける。
「…あの…」
カイルが振り返る。
リュシアは視線を落としながら、震える声で言った。
「今日も、私と…話す練習を…してくれませんか…?」
沈黙が流れる。
けれどカイルは、優しく微笑んで頷いた。
「もちろんです、姫。お話ししましょう」
庭園での会話練習が始まった。
最初は、花の名前を一つずつ言うだけ。
「これは…ラベンダー」
「…やさしい香り…」
少しずつ、リュシアの声は強くなっていった。
カイルは決して急かさず、彼女のペースに寄り添った。
ある日、リュシアはふと尋ねた。
「カイルさんは…どうして、そんなに優しいの…?」
カイルは少しだけ目を伏せて、答えた。
「誰かが、あなたの声を待っていると思うからです」
その言葉に、リュシアの胸がじんわりと温かくなった。
彼女はまだ知らない。
その“誰か”が、目の前の騎士自身であることを――。
庭園の空気は、朝露に濡れて柔らかかった。
リュシアは、いつものように花壇の前に立ち、カイルを待っていた。
彼が来ると、自然と胸が落ち着く。
少しずつ、言葉を交わせるようになってきた自分が、少し誇らしかった。
「今日は…この花を、紹介したいです」
リュシアが指差したのは、淡いピンクの花。
「…これは、“アネモネ”。花言葉は…“あなたを信じて待つ”」
カイルは微笑んだ。
「姫は、花の言葉で気持ちを伝えるのが上手ですね」
リュシアは照れくさそうにうつむいた。
「言葉にすると…うまく伝えられないから…」
その日、カイルはふと問いかけた。
「姫は、婚約者にどんな人であってほしいと思いますか?」
リュシアは少し考えてから、静かに答えた。
「…私の声を、待ってくれる人。
急かさずに、そばにいてくれる人…」
その言葉に、カイルの胸が少し痛んだ。
彼こそが婚約者であることを、まだ告げられずにいる。
王から命じられた時、彼は驚いた。
だが、リュシアの努力を見ているうちに、
「彼女の気持ちを壊したくない」と思うようになった。
その夜、カイルは王の前に立った。
「姫には、まだ告げておりません」
王は静かに頷いた。
「姫が自ら心を開いた時、その時が“顔合わせ”だ。
それまで、お前は“騎士”でいろ」
カイルは深く頭を下げた。
その言葉が、彼の決意を強くした。
翌日、リュシアはカイルに小さな紙を渡した。
「…これ、私の“秘密の名前”です」
そこには、彼女が誰にも教えたことのない、幼い頃につけた“花の名前”が書かれていた。
「…私のこと、もっと知ってほしくて…」
カイルはその紙を大切に受け取った。
彼女の心が、少しずつ開いていくのを感じながら。
そして、彼自身もまた、彼女に“秘密の名前”を告げる日を、静かに待っていた。
春の風が、庭園の木々を優しく揺らしていた。
リュシアは、カイルと並んで歩きながら、ふと立ち止まった。
「…カイルは、誰かを好きになったこと、ありますか?」
突然の問いに、カイルは少し驚いた。
だが、すぐに穏やかな声で答えた。
「…あります。けれど、その人に気持ちを伝えるのが怖くて、ずっと黙っていました」
リュシアは、彼の横顔を見つめた。
その瞳に、どこか自分と似た寂しさを感じた。
「…私も、同じです。
伝えたいのに、言葉が…うまく出てこない」
その夜、リュシアは日記を開いた。
そこには、カイルとの日々が丁寧に綴られていた。
「彼と話すと、心が静かになる。
私の声を、待ってくれる人。
…もしかして、私が好きになった人は――」
筆が止まる。
その先を書こうとして、胸が苦しくなった。
「でも、彼は…私の婚約者じゃない。
きっと、別の人が決まっている」
一方、カイルは王の前で葛藤を打ち明けていた。
「姫は、私に心を開き始めています。
でも、婚約者として名乗れば、すべてが壊れてしまうかもしれない」
王は静かに言った。
「それでも、真実はいつか伝えねばならぬ。
だが、姫が“自ら選ぶ”ことができるように、
お前は最後まで“騎士”であれ」
カイルはその言葉を胸に刻んだ。
彼女が自分を選ぶかどうか――それは、彼女の心次第なのだ。
翌朝、リュシアは決意していた。
「今日、気持ちを伝えよう」
震える手で、庭園に咲く“白いアネモネ”を摘んだ。
その花言葉は――「真実を告げる」
彼女はカイルのもとへ向かう。
心の奥で、何かが揺れていた。
それは、恋の始まりか、それとも――
庭園の空は、夕暮れの色に染まっていた。
リュシアは、白いアネモネを手に、カイルのもとへ向かった。
心臓の鼓動が、いつもより速い。
それでも、今日は伝えると決めた。
「…カイル」
彼が振り向く。
その瞳は、いつも通り優しかった。
「この花の意味、知っていますか?」
カイルは頷いた。
「“真実を告げる”…ですね」
リュシアは深く息を吸い込んだ。
そして、震える声で言った。
「…私、あなたが好きです。
あなたと話す時間が、私の世界を変えてくれました。
あなたが、私の婚約者だったらいいのにって…思ってしまうんです」
沈黙が落ちた。
風が、アネモネの花びらを揺らす。
カイルは、何も言わなかった。
ただ、目を伏せていた。
リュシアは、答えを待った。
けれど、彼の口からは何も出てこない。
「…ごめんなさい。急にこんなこと…」
彼女はそっと花を置き、その場を離れた。
背中に、彼の沈黙が突き刺さる。
その夜、カイルは一人、庭園に立っていた。
地面に落ちた白いアネモネを拾い上げる。
「…俺が、婚約者だと告げれば、彼女はどう思うだろう」
彼の心は揺れていた。
王命に従うべきか。
それとも、彼女の気持ちに応えるべきか。
だが、彼はまだ“騎士”でいることを選んだ。
それが、彼女の自由を守る唯一の方法だと信じて。
リュシアは、部屋の窓から夜空を見上げていた。
「伝えたのに、何も返ってこなかった…」
胸が痛む。
けれど、後悔はしていなかった。
「私は、私の気持ちを伝えた。
それだけで、少しだけ…強くなれた気がする」
そして、彼女はそっと日記を閉じた。
その表紙には、彼女が名付けた“秘密の名前”が刻まれていた。
夜が明ける少し前、庭園はまだ静寂に包まれていた。
カイルは、王の言葉を胸に刻みながら、リュシアの部屋の前に立っていた。
「姫に、すべてを話す覚悟ができました」
扉の向こうから、かすかな気配がした。
リュシアは、眠れぬまま窓辺に座っていた。
「…カイル?」
彼の声が、扉越しに響いた。
「少しだけ、お時間をいただけますか」
庭園に出ると、空は淡い光を帯び始めていた。
リュシアは、昨日の告白の余韻を胸に抱えながら、彼の言葉を待った。
カイルは、ゆっくりと口を開いた。
「姫。私は、ただの騎士ではありません。
実は――姫の婚約者として、王より命を受けております」
リュシアは、息を呑んだ。
言葉が、すぐには出てこなかった。
「…じゃあ、ずっと…私のそばにいたのは…」
「はい。けれど、私は“騎士”として、姫の心に触れたかった。
命令ではなく、姫自身が私を選んでくれるなら――それが、何よりの願いでした」
沈黙の中、リュシアはゆっくりと歩み寄った。
そして、彼の手に自分の“秘密の名前”が書かれた紙をそっと重ねた。
「…私が選んだ人は、あなたです。
騎士としてでも、婚約者としてでも――
私の声を待ってくれた、あなたに…心を預けたい」
カイルの瞳が、静かに揺れた。
彼はその紙を胸にしまい、深く頭を下げた。
「ありがとうございます、姫。
これからは、騎士としても、婚約者としても――
あなたのそばに、誓って立ち続けます」
朝日が、庭園を金色に染めていく。
リュシアの心には、初めて“確かな未来”の光が差し込んでいた。
そして、彼女はそっと微笑んだ。
その笑顔は、今までで一番、言葉よりも雄弁だった。
春の祝祭の日。
王城の庭園は、色とりどりの花々で彩られていた。
リュシアは、純白のドレスに身を包み、鏡の前で深呼吸をした。
「今日は、私の声で、未来を語る日」
彼女の瞳には、もう迷いはなかった。
式典の始まりを告げる鐘が鳴る。
王と臣下たちが見守る中、リュシアはゆっくりと歩み出た。
その隣には、騎士の姿をしたカイルがいた。
だが、彼の胸には、王家の紋章が刻まれていた。
それは、彼が“婚約者”として正式に認められた証。
リュシアは、壇上で静かに語り始めた。
「私は、長い間、言葉を恐れていました。
でも、ある騎士が、私の声を待ち続けてくれました。
その人が、私の心を咲かせてくれたのです」
カイルは、彼女の言葉を静かに受け止めた。
そして、彼もまた誓った。
「姫の声が届く限り、私はそのすべてを受け止めます。
騎士として、婚約者として、そして――
一人の人間として、姫の未来を共に歩みます」
祝福の花びらが舞う中、二人は手を取り合った。
その手は、過去の沈黙も、未来の希望も、すべてを包み込んでいた。
リュシアは、そっと囁いた。
「…私の“秘密の名前”、覚えていますか?」
カイルは微笑んだ。
「もちろん。それは、あなたが初めて私に心を開いてくれた証。
だから、これからは――その名前で、あなたを呼びたい」
リュシアは頷いた。
その瞳には、春の光よりも優しい輝きが宿っていた。
そして、庭園の片隅に咲いた一輪のアネモネ。
その花言葉は――「希望」
物語は、静かに幕を閉じる。
けれど、二人の未来は、今まさに始まったばかりだった
それは、婚約の儀から五年が経った春のこと。
王城の庭園は、相変わらず静かで、優しい風が花々を揺らしていた。
リュシアは、庭の奥にある小さな温室で、花の世話をしていた。
彼女の手は慣れていて、言葉も自然にこぼれる。
「この子は、少し日差しが強すぎたかな…」
侍女たちは微笑みながら見守る。
かつて人前で言葉を詰まらせていた王女は、今や王国の人々に愛される存在となっていた。
その日、カイルは任務を終えて庭園に戻ってきた。
彼は今や騎士団長として王国を支える立場にありながら、
庭園ではただの“夫”として、リュシアの隣に立つ。
「今日も、よく咲いてるな」
彼がそう言うと、リュシアは笑って答えた。
「あなたが、毎日“おかえり”って言ってくれるから。
花も、私も、安心して咲けるの」
二人の間には、言葉よりも深い静けさがあった。
それは、長い時間をかけて育まれた信頼と、穏やかな愛の証。
リュシアは、温室の奥から一冊の古い日記を取り出した。
それは、婚約前に書いていたもの。
ページは少し色褪せていたが、文字は今も鮮やかだった。
「…これ、読み返すとね。
あの頃の私が、あなたに出会って少しずつ変わっていくのがわかるの」
カイルは、彼女の手から日記を受け取り、静かにページをめくった。
そして、最後のページに目を留めた。
「“今日、私は未来を信じることができた”」
彼は、そっとリュシアの手を握った。
「俺も、あの日からずっと、君の未来を信じてる」
遠くで、小さな足音が聞こえた。
二人のもとへ駆けてくるのは、まだ幼い少女。
リュシアとカイルの娘――名は「ローズ」。
「おかあさま、きょうもおはな、きれいだね!」
リュシアは微笑みながら、娘の髪を撫でた。
「この花の名前、知ってる?」
「うん!“しんじつをつげる”っていうの!」
カイルは娘を抱き上げながら、リュシアに目を向けた。
「君が咲かせた花は、ちゃんと次の世代にも届いてるよ」
庭園の片隅に、三人の笑い声が響く。
その音は、風に乗って、王城の空へと広がっていった。
そして、そこに咲いた一輪のアネモネ。
物語は静かに幕を閉じる。
けれど、愛はこれからも、静かに咲き続けていく。