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暑くて長い夏

作者: きんぎょ

 昭和41年、道夫は中学生になった。だんだん人間に対し、社会に対し、目が広がっていった。それは、道夫の内面にも目を向け始めさせた。自分を客観的に見たときに自分が他の人間との違いに道夫は愕然とした。小学校の時からクラスの仲間たちとの感性の違いを感じ、テレビなどマスコミで言われる考え方と自分の考え方の違いに疑問をもっていた。道夫は自分の考えが正しかどうか判断するために、ともかく自分の考えを文字化し、まとめようと考えた。しかし、自分の考えを他人に知られるのは、自分の心の中をのぞかれるようで嫌だった。そこで、カタカナの筆記体を独自に考え出し、それで日記などを書いた。それは単純なもので、ちょっと本気に解読しようとすれば簡単にばれてしまうものであった。しかし、誰が自分の書いたものを解読しようと思うだろうか、一介の中学生の書いたものを。

 道夫は文字化することによって、自分の考えのくだらないもの、矛盾するものを整理した。そして、主要なものをまとめ、発展させるために常時目につくようにと、母から金を貰い白い下敷きを買って、それにマジックインキで書き留めた。『このまま自然を壊し続ければ、人類は滅亡する』

 道夫は授業の合間の休み時間には、筆箱や下敷きは、どうせ次の授業でも使うので机の上に出しっぱなしにしてトイレなどに行っていた。道夫が教室に戻ってみると机の上に下敷きがなかった。あれっ、と思って周りを見ると二つ後ろの奴が道夫の下敷きを見ながら何かしていた。そいつは道夫の視線に気づいて

「なに、くだらないこと考えてるんだ。人間は自然に打ち勝ったんだよ。征服したんだよ。おまえ、バカじゃないの!」と、言って下敷きを机に投げてきた。道夫はそいつを見て黙って立っていた。

 道夫とクラス仲間とよくつるんでいた。だが、道夫にとって彼らは友達というわけではない。たまたま教室での席が隣だから休み時間には、よく話をするだけだった。そもそも「友達」って、なんなんだ。学校で、よく一緒につるんでるから、友達? しかし、道夫は学校の外で一緒に遊んだことは、誰ともない。中学生ともなれば、街で金を使って遊ぶのが普通だ。そんな金は道夫にはなかった。中学生ともなれば月単位の小遣いを、ほとんどのものがもらっていた。しかし、道夫の家は貧しかったから小遣いはなっかた。学校が終わっても寄り道もすることもできず、まっすっぐ家に帰った。学校で休み時間によくつるんでいた連中が、街での遊びに道夫を誘うことはなかった。彼らが道夫に金がないことを知っていたわけではないだろうが。彼らにとって、道夫は学校でつるむ対象で、街で遊ぶ対象ではなかったのだろう。彼らにとっても道夫は、友達といえば友達だし、友達でないといえば友達でないとう存在だった。


 道夫は変なことを考えている奴と、クラスで噂が流れたようである。道夫は、くだらないことを考えている奴として、クラスの者は道夫と深くは付き合うことが、さらになくなった。

「開発をやめて、自然を守るべきだと」ということを、道夫は隠さずに言い始めた。口に出して他人に言えばいうほど、道夫は自分の考えが正しんだと固執していった。「バカみたいなこという奴」といことで、クラスの者はもちろん、教師や大人たちからも「変わり者」と道夫は扱われた。

 中1の時に終わっていたとはいえ、子供たちに人気のあった、日本初のテレビ連続アニメの鉄腕アトムの主題歌の中に「科学の子、鉄腕アトム」と歌われように、「万物の霊長、人類の科学力が自然を征服し、打ち勝った」と謳歌していた時に、それを真っ向から否定するようなことを言っていたのだから「アホ」扱いされるの当然だった。

……しかし、アニメのアトムの最終話は、「アトムがロケットに乗って太陽?に突っ込んでいく」話は「人間魚雷」そのものではないか。


 反抗期に入っていた道夫は、両親、教師、大人社会に強い反発を持った。理数系が得意だったが、教師の暴力性に嫌気がさしていた。何かというとすぐ暴力を生徒に振るう。理科の教師は、ちゃんと授業を聞いていなかった生徒の頭を持っていた標本の岩石で殴った。体育教師は口より先に手が出た。ひどい事件では、数学の教師が授業で使う木製の大型のコンパスで生徒の頭を叩き、血だらけにした。学校は「誰にも言うな」と生徒に命令し、隠ぺい工作に走った。それでも教育者なのか! 年齢の高い、地位の高い教師程、暴力的だった。おそらく、第2次世界大戦以前・中に教師になって、戦後も、そのまま教師を続けている連中なのだろう。日本軍内で理不尽な暴力を振るわれるのが当たり前の体質をそのまま持ち続けているのだろう。小学校で朝、全校生徒を校庭に整列させ、校長が「訓辞」を垂れ、その後、校庭を行進させて、それぞれの教室に入っていくのは、明らかな「軍隊行進」ではないのか? おまえらは「教師だ」と、偉そうな顔をしているが、戦争中何をしてきたのだ。人殺しをしたんじゃないのか。白人を殺したのならまだしも、「鬼畜米英」は正しいスローガンだと思うが、中国人をはじめ、アジア人を殺したなら許せないだろう。その事実を生徒に隠して偉ぶっているんじゃないのか? 第一、教師は生徒より頭いいわけじゃないだろう。ただ、生徒より年を取っているから、より多く物を知ってるだけじゃないのか。


 高校の入試を迎えるころ、道夫は、ほぼ落ちこぼれになっていた。しかも、高校の入試が「内申書」重視に変更された。入試試験は全9科目から英・数・国の3科目に減らされた。都立の普通科は学校群制度になり、進学できる高校が数校に限定された。団塊世代を頂点に子供の数が増えたために過剰な「受験戦争」が起き、東京大学への進学者多い日比谷高校などが異常な受験倍率になっていた。それを軽減するための大改革だった。しかし、中学の途中で変更にあった道夫たちには、いい迷惑であった。今まで通りの気持ちで高校受験を考えていたのに。それまでの入試は一発主義だった。全9科目のテストの点数が高いものが合格した。だから、中学3年の夏休みまで、やりたいことをやって成績が悪くても、夏休みから本格的に受験勉強を集中的にやれば、十分に東大進学者を多数出してる都立高校などにも合格できた。どだい、3年間の学習内容が出るといっても重要なところしか出ないのは明らかなのだから、集中的に受験勉強したほうが頭に入るのは当たり前だ。ところが、「内申書」重視に変更されたことによって、試験は3科目に減らされ楽になったが、1年からの成績、生活態度まで問題にされるようになった。だから、たとえ3科目の試験で100点満点をとっても、1年からの成績、生活態度が悪ければ合格できなかった。教師によって「内申書」に生活態度が悪いと書かれれば、それで終わりである。「内申書」の内容は秘密だったのだ。中学は入学した時から高校入試のための組織に変わり、教師による管理機関に変わった。

 道夫は都立高校の普通科に行くことをはじめから断念していた。試験による一発合格がなくなった。金のかかる私立など行けるわけもなかった。そこで、都立の職業高校を選択することになる。女は商業高校、男は工業高校へ行く。しかし、自然破壊をする機械文明を嫌っていた道夫は、工業高校へ行く気は起きなかった。残された道は都立の農業高校だった。23区内には農業高校は2校しかなかった。自宅から通える農業高校に受けることにした。すでに23区内で農業をやるなど考えられなくなっていたのだが。親は農業と全く無関係なサラリーマン。


 道夫は農業土木科に入学した。当時、団塊の世代ほどではないが、まだまだ子供の数は多く都立高校の受験倍率は高かった。にもかかわらず、農業土木科は定員割れをし、二次募集をした。都立高校では信じられないことだった。その高校には、他に園芸科と製造科があったが受験倍率は、それなりに高かった。「農業土木」と聞いたら、さすがに都立といえども、二の足を踏むだろう。そういう所に入ってくる人間というのは、学力がなく、経済的に余裕のないもの、高卒が90%を超えている以上、高校を出なければ、まともなところに就職できないと考てのもの、である。もともと、農業に興味などもなく、親もサラリーマンなので、ただ単に高卒の免状が欲しいだけなので、勉強などする気がなく、落第しない程度に授業を受けるだけだった。そのような中で道夫だけがやる気満々だった。ある面、自分の求める道に進めたのだから。

 しかし、夢はいつも打ち砕かれる。当然のように成績もよく、教師からの評価も高かったし、「自然を守るべきだ」と言っても、一般教養の教師はともかくとして、農業土木科専門担当教師は特異な反応を示すことはなっかた。だが、クラスの連中は、そうではなかった。成績が良く、変なこと言う奴は、当然のごとくいじめられた。ある奴は毎朝あいさつ代わりのようにげんこつで頭を殴って来た。また、集団で女子生徒もいる中で道夫を押さえつけズボンを脱がそうとした。そして、農業土木科の授業内容は、道夫の望んでいるものとは、真逆のように思えてきたのだ。基本的に農業土木科の授業内容は造園だった。そうだ、公園づくりなのだ。それはそうだろう。都会のど真ん中で、米つくりや野菜つくりを教えたって意味がない。少し考えれば分かりそうなことっだった。「公園を作るということは、自然をつぶして、人間に都合のいいように作り変えること」

 さらに外の世界で道夫を落ち込ませる大事件が起きた。1969.7.20人間が月に到達したというニュースだった。驚きと称賛するマスコミの報道を周りの人々もすべて同調していた。しかし、道夫だけ、これでさらに「万物の霊長、人類は科学技術で自然に打ち勝った」ということを旗印にさら「自然破壊」を推進していくだろう、と憂いていた。道夫は社会に、人間に、そして自分に絶望し、すべてが厭になった。学校をさぼり、当然成績が落ち、ついに高校を退学することになった。高校を中退した人間に未来などない。自分の望む自然関係の仕事はもちろん、「まとも」な就職先はなく、工場労働者として働くことなった。すべてがどうでもよくなっていた。生きる意味などあるわけもなっかた。


 自然は自ら命を絶つことを許さないのだろうか? 突然、革命が始まった。

 1970年7月18日、東京・環七通りの近くにある立正中学校・高等学校の生徒43名が、グランドで体育の授業中に目に対する刺激・のどの痛みなどの被害を訴えた、という報道がなされた。原因が不明ということで、道夫も少し興味をそそわれたが、すぐに忘れた。ところが、その原因が「光化学スモック」らしいと報道されと、多くの耳目が集まった。「光化学スモック」という今まで聞いたこと来ない言葉が登場したのだ。スモックも今までも少しは問題になっていたのだが、「光化学」という言葉が頭についた。それは何ぞや? いわく、スモックに光が当たると化学変化が起きて人間に有害な物質に変化する、という話だ。そこからマスコミでも大きく取り上げられ人々の関心も強くなった。他人ごとではないのだ。いつ自分にも害が及ぶかもわからないのだ。首都東京は「交通戦争」の中にあり車の排気ガスが充満し、高度経済成長を支えている日本最大の京浜工業地帯の工場の煙突からは煤煙がモクモクと四六時中噴出していた。豊かさのために自分の健康を害したら、なんのための豊かさかわからない。金の儲けのために手段をえらばない企業・経営者に厳しい目が向けられ始めた。そして、それはスモックだけではなく、すべての環境を害するものに及んだ。まさしく「公害」問題が毎日のようにマスコミに取り上げられようになった。工場から出されるものは煤煙だけではなく、処理されることなく垂れ流される工業用水にも目が向けられた。川にそのまま垂れ流された。それだけではなく生活用水もそのまま垂れ流された。東京の川は下水ように扱われ、どぶ川と化した。多摩川も、荒川も、江戸時代には白魚も取れたという隅田川も、どぶ川だった。それが流れ込む東京湾はヘドロがたまり死の海と言われた。「公害」問題は当然東京だけにとどまるわけがなく、全国に波及した。それは水俣病が全国的に大きな問題になっていった。有害な工場排水を垂れ流し続け、責任を認めず、患者に敵対し続ける企業に強い批判が集中するとともに、それを放置し続ける行政・国の姿勢にも批判が集まった。さらに、原因不明されていた病気が公害病だと明らかになっていった。


 今日の富士山もかすんで見えた。『最近は富士山がきれいに見えないな。子供の頃は、もっときれいに見えたと思うんだが。』道夫は朝の通勤電車の窓からの景色を見ながら工場にに向かった。

 朝の8時から、ねじ回しを使い、ネジを回し締めた。ひたすらネジを回し締めた。今であれば工場の労働はAIロボットがほとんどこなし、人間は、その下働きしているの現状だが、1970年代は少しでも複雑な仕事は、まだ人間労働が普通だった。まだ、パソコンさえなかったのだから。毎日、朝から晩までネジを回し締めた。飽きるなどというレベルなどとうに超えていた。道夫にとってみれば外で起きてることは、別世界の出来事でしかなかった。道夫は家が貧しかったため貰った給料をすべて母親に渡し、その中から小遣いを貰っていた。高校までの小遣いのない生活よりも少しはましだったが、相変わらずまっすぐ家に帰る生活が続いた。違うのは父親と家に帰る時間がほぼ一緒になったため、家に一台しかなかったテレビのチャンネル権は父親にあり、見たくない番組も多くあった。やむなく少ない小遣いで本を買い、自分の部屋で読むことが唯一の楽しみ?なった。他の娯楽は金が掛かりすぎて、道夫の小遣いでは賄いきれなかった。自分の部屋って言っても親の部屋とふすま一枚を隔てた団地サイズの四畳半でしかなく、兄貴との兼用だった。二段ベッドが置かれ道夫が上、下が兄。大きい勉強机が兄、小さいのが道夫。幸い兄は昼間バイトをし、夜は大学に行っていたので、ほとんど家にいなかった。父親が返ってくる前に飯を食い、部屋にこもり本を読んでいた。

 道夫は「自然を愛し、守ること」という考えの自分と他人との違いに悩み、生きる意味を、生きがいを求めていた。本の中に何かを見いだせるかもしれないと思った。思想・哲学、宗教書も読み漁った。仏典の般若心経にある「色即是空、空即是色」には心を寄せた。しかし…この世界が空であることを知れば、苦しみから逃れられることは分かる。だが、楽もないということになる。般若心経には、楽の字も、喜の字もない。「生きる意味も、生きがいも」ない、ということだ。確かに、人生は苦ばかりかも知れない。特に時代を遡れば遡るほど苦の多い人生なのだろう。しかしだからといって、楽や喜を否定、無視していいことにはならない。空を悟ることによって、喜びを得られるなど欺瞞ではないのか。感情を誤魔化せということではないのか。また、歎異抄に書かれた「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」は心惹かれるものであったが、しかし、その前提が「ひたすらに阿弥陀仏を信じる」ことで、そこに根拠も、理論も、筋道もない。それは、キリスト教も同じだった。分厚い聖書を読んで、そのくだらなさに唖然とした。「創世記」を宇宙開闢の物語として読むなら面白いものである。開闢の物語は、どこの物でも荒唐無稽で面白いものである。しかし、「進化論」否定し、いまだに聖書の内容を真実だ信じるなどお話にならない。新約でも、マリアの処女受胎とか、キリストの多くの奇跡とかを真実だと信じるなどアホ以外の何物でもない。しかし、キリストが言ったされる言葉は道夫の心を揺さぶった。もちろん、本当にキリストが言ったったどうか、わからない。嘘である可能性も十分ある。しかし、問題は誰が言おうと、それが嘘であろうと関係ない。言葉が発せられたときに、それは言霊となって自ら力を持つようになる。言った人間の意図とかかわりなく、その言霊が他者の心に入れば力を持つ。

「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口をいう者に祝福を祈り、あなたがたを侮蔑する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つものには、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着も拒んではならない。求める者には、誰にも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを人にもしなさい。」

「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」

「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするために、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者をえらばれた」

 これは世の中の価値観を逆転する考えだった。道夫は自分の中にあった朦朧としたものをはっきり言葉にしてもらった気がした。人間や社会が「正しい」していることを疑問視し、否定する。「金儲けのため、人間のため、自然を壊していいわけがない」

 だが、道夫は神の存在を受け入れることはできなかった。それに仏教にしろ、キリスト教にしろ、死後の救済を歌っているだけで現生での救済を作ろうとはしていない。神を否定するのと同じに、当然、来世を否定する、極楽も天国も地獄もあるわけがない。くだらない妄想だと強く道夫は思っていた。問題は、現世、今生きている時だ。現世「救済」こそが必要なのだ。それは、必然的に道夫をして、社会主義・共産主義思想に向かわしめた。

「金持ちが、金儲けをしようとする者がいる限り自然破壊は止まらない」


 道夫は二十歳になって家を出た。いやでやでたまらなかった家を出られたことは一つの解放感だった。自由を得た? 安い給料では一時代前の安アパートの四畳半しか借りられなかった。ひと昔前の、そのアパートは二階建てで、玄関で靴を脱ぎ下駄箱に入れ、少し高くなった廊下が続き、各部屋ごとに木製の引き戸が付いていた。その戸には鍵がついていなかった。一階と二階に共同の五つの蛇口の付いた長いシンクに、3つトイレ、1つの男性用のトイレがあった。道夫の部屋だけ四畳半で他は六畳だった。半畳にみたない台所が付いていた。小さなシンクと、その横にマッチで火をつける旧式の一口のガスコンロが置かれていた。二階の窓の外には広大な東映撮影所の広場があり、その横を石神井川が流れていた。もちろん、風呂もなかったので近くの銭湯に通った。首にタオルを巻き、石鹸箱を持って川沿いを、その当時流行っていた「かぐや姫の神田川」を口ずさみながら歩いていった。「窓の下にはしゃくじいがわ。文字が合わない。三畳一間……俺は四畳半、今時三畳一間のアパートなんかない。」

 もちろん、道夫に彼女はいなかった。女性との接触が少なかったことも一つの要因かもしれなかっが。高校の農業土木クラス40人のうち女子は8人で、工場には女子はいなかった。事務所に数名いるだけだった。しかし、最大の要因は、道夫の容貌だったかもしれない。体重は50キロそこそこで、ウェスト70センチだった。成人男性で70センチのズボンなどほとんどなかった。身長が170センチと当時としては高いほうっだたので、まさしくひょろ長かったのである。肩幅に対して頭が大きく、少し病的にみえるのだった。貧困ために母体の栄養不足と、生まれて以降の栄養不良が道夫を病弱にした。持病のように「自家中毒」を患い、「こじきアパート」の衛生環境の不良のためか二度「疫痢」にかかった。学校に上がれるか、どうかわからないほど、幼児期に病気との壮絶な闘い明け暮れた。道夫は病弱を生涯背負うことになった。貧しかったゆえに、欲しいものがあっても初めからすべてをあきらめ、何も望まなかった。望んでも得られないことが分かっていた。それは女性に対しても同じ体質を持ってしまっていた。どうせ好かれない、嫌われに決まっている。だから、距離を置き、何も望まなっかった。だから、自ら着飾ってよく見せようという気もなっかた。女性に好かれようと努力することもなっかった。さらに、出世することなど下らないと思い、金持ちになろうとも思わなかった。上に立つ人間や、金持ちが自然を壊してる張本人だと思っていた。道夫は毎日毎日ネジを回しながら何を望んでいたのだろうか。

 道夫は一人暮らしを始めた当初は、毎日外食をしていた。中華店でレバニラライスやラーメン餃子など食べていたが、それでも給料日近くになると金が足りなくなった。遊びなどすることなく、毎日アパートと職場を往復するだけなのに金が足りなくなった。給料日前には晩飯に食パン2枚にソーセージ1本で過ごすざるをえなかった。会社に行けば昼飯はつけで食べられたので何とか耐えられた。やむを得ず道夫は自炊を始めた。電気炊飯器を買いたかったが金がなっかった。ボーナスは氷代、モチ代に過ぎないので、安い鍋を買った。米など炊いたことがなく、まして薄手の鍋で米を炊くなど、どうしたらいいかわからなっかった。昔から言われていた諺「はじめチョロチョロ、なかパッパ、赤子泣いてもフタ取るな」だけを頼りに米を炊いた。初めのうちは芯があったり、おかゆみたいなったりしたが、そのうちコツをつかみ炊けるようになった。みそ汁やおかずはコンロが一口しかなく、時間がかかるので作らず、スーパーでかった総菜と水で我慢した。

 給料が安いのは高校を辞める時に覚悟はしていた。高校中退者がどのような待遇を受けるかは道夫は頭の中で分かっていた。給料のいい、まともなのところに入れるわけがないと思っていた。とはいえ、貧しさに慣れていても現実はきびいしいものだった。

数年勤めて仕事や職場にも慣れ、自立し成人にもなった道夫は会社の理不尽さを強く感じるようになった。仕事内容がほとんど他の者と変わらないのに給料が他の者より低いということが分かってきて、その理由が「農業高校中退」であるとう学歴によるもののようだった。会社は「農業高校中退」の者を雇ってやたんだから、ありがたく思え、ということなのだろう。工場には100人近くが働いていたが道夫は、どうやら一番給料が低いみたいだった。同じ仕事をしていても大卒なら出世してゆき、「農業高校中退」であれば一生安い給料でこき使われる。この世の中は実力の世界ではなく、虚構の世界であることを道夫は理解し始めたのだ。『アメリカの黒人がスポーツ界で活躍するのは、実力によって正当に評価される世界だからだろう。どんなに才能があっても黒人であるというだけで評価の対象外されてしまう「白人中心社会」での唯一実力を正当に評価される道はスポーツしかないなのだろう。』と、道夫は考えた。この虚構の世界を作っているのは「自然開発」だと言って自然破壊を続ける経営者・金持ちではないのか? 道夫の敵は正しく経営者・金持ち、資本家階級ではないのか。書物から得た道夫の知識は、そう解答を出した。


 道夫は労働組合に積極的にかかわりだした。自分に対する「不当な」差別を是正するためにも積極的にもかかわった。世の中も高度成長の中で「狂乱物価」が起こり、それに見合う賃上げを求めて労働組合がストを打ち続けていた。また、ベトナム戦争があって、それに反対して学生の全共闘運動が過激に戦われ、公害反対の意思によって首都東京の知事に日本社会党と日本共産党が推す美濃部が当選するという事態が起きていた。そのような社会情勢を受けて道夫の会社の労働組合も御用組合から共産党が主導権を取るようになり左派展開をし始めいた。

 道夫は書物の知識によって、「左翼」、社会主義・共産主義は理想社会を目指すもので、それを実現しようとしている人々は「立派な人」たちだろうと思った。ただ、マルクスははじめとした「古典的な」人々は「科学」依存度が強すぎると、少し違和感を感じていたが、「古い」からだろうと思っていた。今の人たちは、公害にも反対しており、そんなことはないだろうと思っていた。

 言葉は風と共に去ってしまうが、文字は後まで残る。他人に対して出された言葉は修正することはできない。後から「今言った言葉間違いだった」と訂正することはできるが、出されてしまった言葉は直すことはできない。往々にして本音を言ってしまうことがある。ところが、文字は他人に触れる前にいくらでも訂正できる。特に活字化され本になる場合は十分すぎるほど検討がなされる。だから本に書かれたことは理想化された美辞麗句であるといいえるのだ。若い道夫は、まだそれを理解していなっかった。

 賃金の決定権を経営者が握っている日本型企業内労働組合では組合運動を積極的にやろうという人間は者はほとんどいなかった。なぜなら、出世できないだけでなく賃金差別を受け低く抑えられるからだ。経営者は「能力が低い」という口実を持って組合の執行部の賃金を低く抑える。日本では賃金の決定権はあくまでも経営者が握っており組合にはない。労使の間で賃上げが例えば5%で合意したとしても、それはあくまでも組合員の平均で全員5%上がるわけではない。会社が気にいっている人間は5%以上昇給があり、組合運動を積極的にやるような、会社から嫌われる人間は5%以下の賃上げしか行われない。それは組合差別だと争っても「仕事の能力が低いからだ」と言ってあくまでも個人の能力の問題だととぼけるのだ。だから、多くの労働者が組合運動には積極的にかかわろうとしない。しかし、道夫にとっては組合に積極的にかかわろうと、かかわるまいと「農業高校中退」であることを口実に会社で最低の給料であることに変わりがなった。

 自然を壊し続ける社会と学歴を理由とした不当な差別を続ける社会に対する非難と是正を求める闘いに道夫は展望を見出したように思えた。道夫が組合に積極的にかかわったことによっ組合の執行部に選出された。要は組合になんか誰も積極的にかかわろとしなかったから、少しでも組合に積極的なものが執行部に選ばれるのだ。どちらかといえば互いに執行部を押し付け合っていたのが現状だった。誰も会社から睨まれたくなかったのだ。、道夫は誰も読まない組合の機関誌の担当をまかされた。

 道夫は機関誌の編集後記に自分の考えを載せた。それには特段の反応もあるわけがなった。しかし、ただ一人だけ強く反応するものがいた。道夫が書いたものにいちいち難癖をつけてきた。彼は自ら共産主義者とし、マルクス信奉者と自認していた。しかし、なぜか日本共産党には入党できていなかった。彼は道夫が書いたものをよくマルクスを引き合いに出して非難してきた。道夫は、そのろくでもない非難を気にも留めてなっかた。だが、どうも「高校中退」ということで道夫を蔑視しているようだった。それが道夫は気に食わなかったので、ある時、マルクスが書いたものをそのまま道夫が書いたように装って編集後記にのせた。すると案の定、文句を言ってきた。しかも、内容がいつもより思想的だったので強い調子で、かつ、いつも以上にマルクスを引き合に出して非難してきた。道夫は先輩だったので彼の非難を神妙な顔で聞いていたが、心の中では「やっぱりな」とほくそ笑んでいた。周りの人間はみんな道夫が「高校中退」であることによって、「どうせ勉強もできずに中退した、ヤンキー的な、不良だろう」と見ているようだった。だから、道夫がマスクスの資本論はもちろん主要な作品を読んでいるなどとは誰も考えもしなっかったのだ。「論語読みの論語知らず」という諺がある通り、本を読んでいるからと言って、それを理解しているとは限らない。しかし、マスクスの書物は読むだけでも大変なのだ。マルクスの書物は、ほとんど「批判書」で、読んでも面白くない。まして、百年も前の書かれたもの、「共産党宣言」が1848年でペリー来航の5年前、明治維新の20年前で、そんな江戸時代に書かれたものが、現代の社会主義・共産主義運動に役立つわけがいない。理論書なら少しは参考になるかもしれないが、例えばニュートンの理論のように。マルクスの書物は読むのが苦痛に近かった。読むのに値するのは、「資本論」をはじめとする経済関係の著作だけだ。確かに「資本論」は素晴らしいと思ったが、それは「経済学者」が書いた書物であり、あくまでも「資本主義経済体制を分析した」書物である。左傾化した学者はいくらでもいる。マルクスを知るにしたがって、道夫はマルクスを「りっぱな批判、ろくでもない実践」と評価するようになった。道夫は自分が左傾化しているとの自覚はあったが、自分が社会主義者、共産主義者だとは思っていなかったし、革命家などとは考えもしなかった。だから、マルクスを信奉もしていなかった。道夫は、この世界が虚構の世界だと思い、それを作っている人間が虚構でないわけがないと感じていた。ナポレオンは「民主主義」の旗を掲げ戦い皇帝になった。スターリンは共産党の書記長として大富豪の独裁者になった。言葉や文章は、いくらでも美辞麗句を重ねることができる。議員など選挙の時には特に平然と嘘を連ね、選挙民をだますのは当たり前と、厚顔無恥に美辞麗句を連呼する。人間を判断するのには普段の行動以外ないのだ。

 道夫はマルクスを引き合いに出して批判してきた彼に対して何も言わなかった。初めからそのつもりだった。同じ職場の先輩であり関係を悪くするわけにもいかなかったし、言っても無駄だと思っていた。ただ道夫自身が満足できれば、それでよかった。道夫は組合運動にかかわることによって、いろいろな「政治」運動にもかかわるようになった。

 道夫は公害問題の集会によく参加するようになった。そこでは企業が公害対策をしないで「開発」理由に自然破壊を続けることのへの批判が続いた。もちろん、道夫は共感したが、自分が以前に「開発をやめて、自然を守るべきだと」だと言ってた時には誰も耳を傾けなかったばかりか、「いじめ」まで受けたのなぜなのだろうか? ここに参加してる人たちは道夫を「いじめ」た人たちとは違う人達なのだろうか? という疑問を持ち続けた。

 いつも集会場は煙っていた。もうもうたる煙草の煙。三人掛けの細長いテーブルには、当たり前のように会場の備え付けの金属製灰皿が置かれていた。煙草を吸うのが当たり前で、煙草を吸わないのは極少数だった。大人になっても煙草を吸わないものは馬鹿にされた。道夫もその一人だ。道夫は酒もあまり好きではなかった。しかし、酒を飲まなければ職場で相手にされず、中には「俺の酒を飲めないのか」といって仕事を教えてくれない先輩もいて、やむを得ず道夫は付き合いで酒を飲んだ。

 道夫は、ある集会の後、駅のホームで帰りの電車を待っていた。あいかわらずホームの下の線路の周りは吸い殻で真っ白だった。ホームには、ちゃんと吸い殻入れが設置されているにも関わらず、それを使っているのを見たことがない。煙草の火が付いたまま、ぽんと線路に吸い殻入れのように投げ捨てる。砂利が敷いてあるので、ちょうどいいと言わんばかりだ。道夫は、いつも嫌悪感を持って煙草を吸う人間を見ていた。ふと周りを見ると、

少し離れたところに顔見知りの姿を見た。彼もさっきの集会に参加していたのだろ。顔見知りと言っても何回か少し話したことがあるぐらいで、名前さえ知らなった。当然ごとく煙草を吸っていた。電車が近づいてくると当然のごとく火のついたまま、慌てて煙草を線路に捨てた。

 集会で公害を出す企業や経営者を強く批判していたが、演壇が霞んで見えるほど煙草をスパスパ吸い、線路や路上に吸い殻をポンポン捨てる彼らは公害を出しているとは感じていないだろうか。テレビや新聞が公害問題を取り上げているから、時流に乗っかって、ここぞとばかり資本家を糾弾しているだけでしかないのではないのか。本質は、どちらも変わらないのではないかという思いが道夫の中に次第に大きくなっていった。

 道夫は公害問題ではなく、いろいろな政治問題の集会にも参加するようにもなった。そこで「活動家」と呼ばれる人達と親しくなった。その中には、全共闘・新左翼・過激派などと呼ばれる人もいた。彼らは日共も含めて自分が「中核」だとか、「革マル」「革労協」「四トロ」「共産同」とか名のって道夫に近づいてくるわけではない。日共は選挙をしているし、基本的に合法活動なので、党員であることを秘密にしていない。であるから「日共」であることは分かるのだが、「過激派」と呼ばれている人々は「暴力革命・武力解放」を標榜しているため、非合法活動もしているようで、集会などに参加する時などは偽名を使って「身分」を隠してるようだった。彼らがどこの「党派」であるかを知るのは本人からではなく、他の人間から「あいつは○○派だ」と警告するように教えられるからだ。もちろん、嘘である可能性はあるのだが、そのようなことを教えてくれるのは、往々にして対立してる「党派」の人間であることが多く、かなり信用できるのだ。当然、道夫は彼らを警戒し深くかかわらないように注意する。道夫は彼ら「過激派」を嫌っていた。マスコミが「過激派」を強く批判しているからではない。マスコミなど、どこまで言ってもいっても体制がわの組織であり、体制に都合の悪いことは報道しないか、一部だけ切り取って体制に都合のいいように歪めて報道する。どだい彼らを「過激派」と呼ぶことに、マスコミの態度がはっきりしている。道夫が彼らを嫌っていたのは、第一に、そのあまりにアホな幼稚さだった。マスコミがいう「迫撃弾」などの「ゲリラ」行動の稚拙さなのだ。何の役にも立たない、むしろ権力者を利する行動でしかない。しかも、彼らはマスコミに取り上げられたことを喜んでる風もある。そして、道夫がもっとも嫌ったのが「内ゲバ」だった。同じ共産主義者・マルキストでありながら、ちょっとした「革命路線」の違いを理由に殺し合いまでやっている。彼らは「やくざ」と、何も変わらないではないか。単なる縄張り争いに過ぎない。彼らは自ら「共産主義者・革命家」と称しているが、本当に「共産主義者・革命家」なのだろうか。特段、資格試験があるわけでもないので自分で「共産主義者・革命家」と名乗れば「共産主義者・革命家」になれるのだ。まわりがなんと言おうとも。それは社会主義国家にも言える。道夫には、どの国も社会主義国家とは思えなかった。どだい社会主義国家なら階級が消滅しているはずだ。資本家階級はいないはずだ。ならば民衆が国家の指導者を選ぶのが当たり目じゃないのか。かえって資本家階級が支配している「自由」主義体制の方が民衆が選挙で指導者を選んでいるのは、どういうわけなのか。どう見ても「共産主義政党」名乗る連中の独裁国家、新たなる「共産主義者」を名乗る特権階級・貴族階級の誕生ではないのか。そんな国家を作るために誰が命を懸けて戦うのか。

 道夫は左翼・社会主義・共産主義の現実を知れば知るほど絶望が大きくなっていった。宗教にも道夫の求めるものはなかった。よく考えてみれば、それはあたり前だった。どれも人間がやっていることだ。人間がろくでなしである以上、何をしようともみんなろくでもないものになるのに決まっている。道夫は社会に出て現実を知るにつれ、社会に、人間に、そして自分に絶望した。


 道夫は駅からの帰り道をいつもの通り歩いていた。もうあたりは薄暗くなっていた。神社の前の道を通った。町にあるごく普通の大きさの神社である。神社の入り口の横には大きなイチョウの木があって「しめ縄」が締めてあった。道夫はいつものように神社の前の道を通り過ぎて、はたと止まり、イチョウの木を振り返った。大木に「しめ縄」するのは神社などで当たり前にみられる日本の風景である。だから、道夫は今まで気にとめたことはなかった。道夫はしばらく立ち止まり、イチョウをじっと見つめた。そして、帰り道をゆっくり歩き始めた。樹齢が長く大木になった木を日本人は敬ってきた。日本人とってはありふれたことだ。太陽のことを「やまと言葉」では「お日様」「お天道様」という。道夫は、それ以外の言い方を道夫は知らない。両方とも「お」と「様」をつけている。そして、元旦の日の出が見られるのか、いつ、どこで、と言うことが年末になるとマスコミで恒例として報道される。富士山の登山でも「ご来光」を仰ぐために暗いうちから頂上を目指す人も多い。富士山の頂上は神域だし、富士山そのものが「霊峰」だ。山を神聖視するのは日本では普通だ。古い時代には神社には社はなく、空域を祀っていたという。さざれ石が巌になれば、しめ縄をして祀る。滝も神聖視する。その理由は挙げられているが、それは後付け的な理由なような気もする。道夫は理由付けなどする必要などないのではないかと思う。日の出を見た時の感動、大樹を見上げた時の気持ち、それこそが最も大切なものように思う。それ以上に何を求める必要があろう。存在しないものを信じ、天国や極楽など巨大な利益求めることなど人間の欲望の醜さを象徴する行為ではないのか。かつての日本人は自然を尊重していたのではないか。西洋人は聖書を根拠とした「人間万物の霊長」思想のもと、動物を、植物を、物を蔑視し、産業革命を誇り、自然を、地球を破壊し続けてきたのではないのか。日本も明治維新以後、西洋文化至上主義を掲げ、同じ道を歩んできたのではないか。道夫自身も西洋文化至上主義教育を受けてきて、その影響から逃れ切れていなかった。「昔からある」自然尊重の考え方を「古いもの」として軽視し、見ようとしてこなかった。「秋津の民」の心を実践することが、自分のの望んでいることなのだと道夫は思い至った。


 銀色のネジを締め続けながら、道夫は魂の中で叫び続けた。

『地球は人間だけのものではない! 生きるものすべてのものであり、命の無い物ものも存在する権利があるのだ! 牛や豚や鶏は人間に食べられるために生まれてくるわけではない。なぜ毎年7000頭もの競馬馬が殺処分されるのだ。人間に飼われているペットだけが生きる権利があるわけではない。保護された動物が生きるためには大量の命を奪わなければならない。米にしろ、麦にしろ、人間に食べられるために実わけではない。植物は人間に食べられるために生育するわけではない。まして、植物は無生物を取り入れて細胞に、生物に変える貴重な生物なのだ。虫けらの命も、人間の命も、同じように尊いのだ。』


ぼくらはみんな 生きている

生きているから 歌うんだ

ぼくらはみんな 生きている

生きているから かなしいんだ

手のひらを太陽に すかしてみれば

まっかに流れる ぼくの血潮

ミミズだって オケラだって

アメンボだって


トンボだって カエルだって

ミツバチだって


スズメだって イナゴだって

カゲロウだって 

みんな みんな生きているんだ

友だちなんだ


 道夫は歌いながら神社の前を通った。ミンミンゼミが鳴いていた。十月だった。


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