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受験生

作者: ペンケース

 私が志望大学を東大にしたのは高校入学前の春休みだった。

 東京へ遊びに行った時、たまたま通りかかって、初めて実物の東京大学を見た。私は信じられないほど心酔した。その瞬間私は、ここに入学している自分以外を考えられなくなった。この大学に入りたいと心底思った。

 それから私は予備校に入り、毎日勉強をし続けた。休みも体調不良も関係なかった。暇さえあれば参考書を開き、詰めれるだけ詰める、ただそれだけの日々を送った。二年生に上がるまでに全過程を履修し終えていたし、模試の偏差値的にも受かる、そう信じ込んでいた。いや、正確にはそれ以外の想像がそこにはなかった。どこかそういった日々を送る自分に陶酔していたのだろう。


「見落としてるだけだよな。」

 合格発表のパネルの前で思わずそんな言葉が漏れ出た。何度も何度も何度も確認した。いや、確認ではなく、現実を意外にも飲み込んでしまう自分から、逃れる理由を探すための時間稼ぎにすぎなかったのかもしれない。ずっと入学からの三年間がフラッシュバックし続けていた。

「印刷ミスだよな。本当は受かってて…きっとこれから貼り直されるんだよな」

そんなことを口走りながらも頭では何もかもが明瞭に分かっていた。

 呆気なく私は二次試験に落ちたのだ。青春の全てを捧げたこの試験に振られたのだ。

 翌日、学校に結果を報告しに行く途中にも確認した。分かってはいても、僅かな期待は拭いきれなかったのだ。ないと分かれば分かるほど、その行為の愚かさで自分に嫌気がさした。

 父は大学病院に勤めていて、経済的に余裕もあったし、母も私のすることには、概ね寛容的であった。

「日当たりもいいし、ここにしたら?」

と母は言った。気勢の削がれた無気力な声で、なんとなく返事をする。この返事一つで私の浪人生活は始まった。そこからの日々は長く、結果から言えば、四年間私はこの借家に住むこととなる。


 浪人生活が始まって三ヶ月が経った頃だろうか。私は高校の時の友人に、上京した仲間という理由だけで安い居酒屋に呼ばれた。十人満たない程度の小規模な会だった。

「おぉ、半年ぶりじゃん。上京組少なかったからさ、集まれるだけでもめちゃ嬉しい。」

他愛のないことをキンキンした声で、ベラベラとよく喋る。高校で唯一それなりに会話のしたことのあった女子だ。

「すみませーん。お冷くださーい。」

こういう会には慣れているのだろうか。私の知らない間に、彼ら彼女らは社会に近づいていくのをひしひしと感じた。それと同時に、自分の中で醜悪さが増していく。

「東大目指して浪人してるんだっけ?正直何も言えないけどさ、凄い努力家だし、来年には絶対受かると思うよ。」

「何も言えないなら言うな」という言葉を飲み込む。私は、生返事をしながら苦笑し、その場をやり過ごす。


 会が終わり、帰るという時「この後の二次会行く?」と例の女子に話しかけられた。

「あ、いや、明日朝早いから。」

と、ありきたりな台詞を言ってやり過ごそうとした。

「あー、明日も予備校?いやぁ、ホント、頑張ってね。」

そんなことは分かっている。また、言葉を飲み込み、適当に笑ってやり過ごす。

 誰かがが頼んだ焼酎を、その場の雰囲気的にも断れず、かなり飲んでしまっていた。自分でも分かるくらいに酔っていた。一刻も早く、帰りたい気分だった。

「実はさ、高校の時、君のこと好きだったんだよね。いや、今付き合ってほしいとか、そういう意味で言ってるってわけじゃないんだけど。えっと、その頃の気持ちに踏ん切りつける意味でも会いたくって…ごめん。それで、呼んだんだ。」

意外にも自分は、何も感じていなかった。わざわざそんなことのために呼び止めているのか。

「困っちゃうよね、いきなりこんなこと言われて。私、酔ってるかも。あ、大変な時なのにこんな会に呼んじゃってごめん。そうだ、これ、お詫びになるか分からないけど、交通費にでもして。」

そう言って、彼女は私の手に四つ折りにされた千円を渡してきた。ここで押し問答をする気力もなかった。


 家に帰り、すぐにトイレに駆け込んだ。それと同時に、口の中に強い酸味が広がる。気持ちが悪い。同時に、帰る直前の彼女を思い出し、気持ち悪さがさらに押し寄せる。

 何が「好きだった」だ。大学生になり、浮かれているだけではないか。そう思いつつも、これはただの嫉妬だとすぐに分かり、そんな自分にも気持ち悪くなる。

 いっそこのまま、さっき抱いた全ての感情と共に、何もかも吐き出して、全てなくなれば良いと思った。


 気付けば翌朝で、朝食もおざなりに、そのまま予備校へ向かった。

「おはよう。もしかして寝不足?」

と予備校前で話しかけてきたのは、私より一年長くここにいる、女子の神崎だった。

「あぁ、おはようございます。昨日、高校の時の奴らに呼ばれて少し…」

「へぇー、高校の時に親しい人とかいたんだね~。あ、敬語とかいらないから。別に偉くもなんともないし。」

そうやって軽口を叩きながら、神崎は、さっと予備校の中へと入っていく。

「浪人生でそういう場に行くと、めっちゃ気遣われない?私、そう言うの無理だからほとんど断っちゃうんだよね。ただでさえ勉強ばっかで疲れてんのに、そんなの耐えられないし。」

そう言われて、昨日のことが少しばかり逆流してきた。

「あー、それめっちゃわかります。」

「って、また敬語使ってるし。」

そう言った神崎の少し微笑んだ顔は、少し明るく染めた髪に映えて、眩しく見えた。


 私と神崎が仲良くなるのに、そう時間はかからなかった。

 初めて彼女の家に訪れた時のことは、よく覚えている。参考書のことや最近あったことなど、他愛のないことを話した。あの時の時間は、落ち着いていて、幸福だった。

 一方的だったかもしれないが、少なからず私にとっては、彼女が特別な存在になっていった。

 そうしている間にも、二回目の東大入試が刻々と迫っているのは、私にも分かっていた。

 それだというのに、目の前の問題が、ただの木の繊維と故意的に撒かれたインクの塊にしか見えなくなってきていた。

 恐らく浪人というものは、私の場合だけかもしれないが、思考法から人間味まで腐らせる、厄介なものなのかもしれない。もう、あの頃の籠り切った熱気のようなものは、どこにもなかった。

「あ、またここで間違えた。」

そう頭の中で響く声に、覇気はない。

 金をかけ、文房具を買い、講義を受け、住処まで用意してもらっている。それだというのに、その結果として得ているものがゴミにしかなっていないような気がした。


「これじゃ、鬱みたいだ…」

いつ頃だっただろうか、神崎に一度、考えていたこと諸々を含め、鬱かもしれないと相談したことがある。

「いや、まだまだっしょ。というか、そんなの皆分かってて、無視してやってんでしょ。そりゃ、自明っしょ。」

と神崎はさらりと答えた。

「え?」

「わたしも、勉強に関してはずっと疑問視しながらやってるよ。アインシュタインも『我々は伝統の中に生きている。しかし、それに批判的でなければならない。』って言ってるぐらいだから、勉強に少しぐらい批判的でもいいんじゃない?ま、怠慢で勉強してるやつよかマシでしょ。」

そう言う神崎はどこか冷酷に、他人を見下しているようだった。

「勉強できる方なんだしさ、自信持ちなって。」

「そうだね。」

そんな神崎の他人の見方は、私をひどく落ち着かせてくれる。


 冬、入試前最後の冠模試があった。

「うわぁ~、なんともいえねぇー…でも、試験って思えるだけマシかな…」

手応えはいつも通りだった。

休憩時間中、制服姿の生徒がいることに気がついた。休憩すらも余すことがないよう、参考書を見ていた。

「懐かしいな…」

ふとそう思うと、押し込めていたはずの感情が、吐瀉物のように吐き出てきた。

 こんなこと何の意味があるんだ?人間の尊厳はどこにもない。勉強ってなんだよ。結局は紙の浪費になってるんじゃないか。親の脛齧ってまですることなのかよ。東大行ったら何があるんだ。何のためにここまできたんだっけ。努力って何。センス?疲れたわ…

 息ができなくなりそうだった。

 しばらくして、模試の結果が返ってきた日のことだ。

「今回の結果、あんまり良くなかったね。調子悪かった?」

そう神崎に言われる。

「ん、まぁ、そんなとこ。神崎は今回も、A判定か…凄いね」

流すように返事をして、会話の向きをさっと変える。

「いやぁ、嬉しくないよ。今回の模試、東大レベルじゃないもん。本番出来なきゃ意味ないし。」

そう言う神崎の様子が脳裏に焼き付いた。

嫉妬も嫌悪も無かった。ただこの瞬間に、神崎は私から、少し遠のいた気がした。

いつもなら映えて見えるその明るい髪が、背景に同化していた。


 そして沼に沈み込んだまま、本試を迎えて、また私は二次試験で落ちた。自分の番号が無いことが分かると、まず最初に、神崎の番号を探した。

「神崎は…落ちて…ないのかな…」

恐らくどこかで願っていたのだろう。でも、そんな考えが現実味を帯びるでもなく、神崎はすっと受かってしまった。

半分は予想がついていた。今思えば私は、この時点でかなり無気力になっていたような気がする。


「大学はどう?」

また浪人が確定しても、今度は不思議とすぐに受け入れられた。そして私は、大学生活を迎えた神崎に会っていた。

「いやぁ、楽しいね。周りは凄い人ばっかでさ、もう、毎日新鮮だよね。」

「…はぇ~、頑張った甲斐あったって感じだね。いいなぁ…俺も早くそこ行きたい~。」

本当は何も思っていないけれど、さも興味を持った様子で適当に返事をする。ただ言葉を発しているだけのようなものだった。

 それと同時に、彼女からの私の価値が損失したような気がした。

 私の誕生日に一緒に酒を飲む約束をしていたが、それは彼女との縁が切れるとともに、朽ち果てていった。


「…ご注文は以上でよろしいでしょうか。」

私は、夜は飲食店でアルバイトをしていた。ピアスも開けた。髪色も、明るくした。

「なぁ、今日終わったら呑み行こうぜ。」

自己紹介の時、大学生と嘘をついた。そのためバイト先の先輩には、よく飲みに誘われる。

「あぁ、いいっすよ。でも、あんまり長居すると明日がキツイんで、そこんとこお願いしますよー?」

私は愛想良く振る舞い、誘いにも乗って、安酒をあおる。

「お前いつも飲みっぷりいいよな。酒好きって感じがする。」

 家に帰るといつも吐いていた。酒は嫌いだし、強くもなかった。ただただ理性だけは保てたのだった。

 食べたものすべてを吐き出してまで、付き合う必要はどこにもないはずだった。ただ、吐けばそれなりに心が軽くなる気がした。

 午前中はただただ時間を浪費しているようなものだった。わけも分からず、ただ時間を浪費する。


 気付けば私は、浪人四年目に突入していた。私は、親から仕送りの七万円を受け取り続け、絶えず予備校暮らしをしていた。

「あ、あの、ちゃんと、寝た方がいいですよ…」

ここ最近の生活の乱れが、現れていたのだろうか。突然、微かに覚えのある女子に話しかけられた。私は記憶を途切れ途切れに呼び戻し、やっと誰かを思い出した。

「えぇと…月宮さんだっけ?何か用?」

浪人一年目の模試に、学生服姿でいた生徒だったことに気づく。

「え、あ、すみません…いきなり話しかけてこんなこと言うなんて…失礼ですよね…」

異様に小さな声の月宮は、短めの黒髪で、少し童顔な、可愛らしい顔つきだった。いかにも人見知りといった様子で、目が合うとすぐ下を向く。

「頭が…いいのに、寝不足じゃ…力でないですし…」

振り絞って言っている様子だった。

 長く予備校にいればそりゃ、解ける問題も増えるが、そんなの頭がいいわけじゃない。

「そ、それに、…クマあったら勿体ないです…」

「え?」

「いや、その…き、綺麗な顔立ちだから…」

予想だにしないことを言われ、思わず吹き出してしまう。

「あ、いや、その…変な意味じゃなくて…寝不足が原因で倒れたら意味がないというか…」

一生懸命弁明する様子が、なんとなく面白い。

「あはははは。天然ってやつ?」

「あ、いや、その…」

「そこまで深刻なほど寝てないわけじゃないよ。最近、悩んでて眠れないんだ。」

本当はそんなことないが、変に心配されるのも面倒だったので、適当なことを言う。

「悩み…ですか?」

「いや、勉強なんてゴミ拾いみたいなもんじゃん。ゴミみたいな知識を得ていく作業。」

「えぇ!?そんなこと思って勉強してるんですか!?そんなにできるのに…」

と、月宮はオーバーリアクションにすら見える様子で私の前で驚く。

「じゃあ、月宮さんはなんだと思ってんの?」

「それは…愛です!志望大学への愛の証です!」

一瞬、時が凍るような気がした。

 愛、か。

私は心の中でそう呟く。

 私が東大に持っていた好意は、どれほど叫んでも届かない、それでも届かないから捨てられずにいる。これは、恋のようなものだったのだろう。


「後期試験、とりあえず地元の信州大にでもするかなぁ…農家やれそうだし…」

 やっと四年間に見切りをつける決心がついた。予備校費は一年間分を前納であったため、予備校には、必要な時に行くことにした。

 不思議なもので、肩の荷が降りてからは、勉強に身が入った。

「意外とやれるもんだな、自分も。」

 そう楽に考えられるようにもなっていた。


 そして、五回目の東大入試を迎えた。今まではプライドで東大だけだったが、今回は違う。半分は記念受験だった。

「受験生のみなさんは番号順に整列してください。」

 月宮がいた。「自分は記念受験だしなぁ。きっと相当緊張してるだろうな。」などと先輩風を吹かせながら、月宮を見ていた。

「それでは説明を始めます。」

この声には聞き覚えがあった。

「試験官補佐を務める神崎です。よろしくお願いします。」

 一気に身体中が冷め切る感覚がした。あれから三年も、諦めきれないなどと、思われるのが怖かった。成長していない自分を、見抜かれるのではないかと恐れた。

「記念受験なんて言い訳。本気になれない自分への言い訳だよ。」

そう自分の背中に自らナイフを突き刺す。思わず目に涙が滲む。

 神崎と目が合った気がした。その場から逃げようとした。

「どこ行くつもりですか!?」

月宮に止められた。「帰る…」と小さく呟く。

「何言ってるんですか、今日のために頑張ってきたんでしょ!?」

熱のこもった声でそう訴えられる。

「…第一志望は、ここを愛して勉強してきた人が来るべき場所だよ…俺の恋じゃ足りない…」

そう、諦め切ったような、覇気のない声で、訴えに応じる。

「報われない恋を四年も続けたらそれは、立派な愛でしょ!」

そう言われ、ハッとした。なぜ、愛という言葉をそう重く捉えていたのだろう。そんなの、人それぞれではないか。

 そう思うと気が楽になった。

「これで最後だ。断ち切るために、大玉砕してやろうじゃないか。」

試験官が、注意を促す中、ひっそりとそう自分を鼓舞して、試験に臨んだ。


 私と月宮は予備校近くの公園で、昼休憩をとっていた。

「…で、月宮。君はなんでここにいるのかな?タバコなんか吸ってさー…」

月宮は、また一年浪人生となり、一部だけ髪を明るく染めていた。

「いや、それはそっちもじゃん。」

「なんでだろうねぇ…」

そう私と月宮は軽口をたたく。

「…神崎さんみたいに要領良くないからじゃないですか。」

「アイツは関係ないっしょ。月宮の勉強の熱意は、圧倒的に合格圏内なのになー。」

私は、ついに東大に受かり、予備校で学生チューターとして働いていた。

「私は、好きですよ。」

突然そう言われ、素っ頓狂な声が出てしまう。

「勉強の教え方ですよ…私、ほんとにすごいと思った人としか仲良くならないので…」

俯き加減で月宮はそう補足した。月宮の耳が、少し赤くなっていることに気づいた。私は、「その手には引っかからないぞー」と何も気づかないふりをして、その場を後にしようとする。


 春の穏やかな陽気が、ここ四年間の影を照らすかのように、暖かく辺りを包み込んでいた。

 私は、東大に受かったあの日、絶望した。

22歳で大学生になるのか。26歳、大学院まで行けば28歳だ。周りは、この春から社会人になるやつもいる。

 そんな中、私はどう生きればいいのだろう。

 

 ふと、受験直前の月宮の声が、蘇る。

 私の東大への愛を、やっと気づいてもらえたのだろう。私の青春と、決して安くない犠牲を払って手に入れた愛の結果だ。腹を括るしかないようだった。

 そう思うと、酔いに酔った記憶から、少しばかり、覚めた気がした。


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