第六話 心の悲鳴
応接室の前に立ったが、先ほどの決意が揺らぎそうだった。
「私はこの辺境伯夫人のビルギットです。ただいま帰りました」
凜と聞こえてきた声に呆然とした。
ええ~……自分から男と出て行った人の言う台詞かいな……。幽霊なのに堂々過ぎないか?
これは話が通じない人種の予感しかない。
「ヘンリックは私を庇って流されていったわ。ヘンリックとロベルトが死んだ今、私が当主です」
誰と誰が、死んだと?
人間、許せることと許せないこと、許してはいけないことがある。
これは許せることでも許す気もない。
絶対に許さない。
バン!
ノックもせずに怒りに任せてドアを開ける。
一瞬きょとんとしたように私を見た女性は、次の瞬間には顔を敵意に染めた。
「ノックもせずに無礼な。メルネス家を乗っ取ろうとしている女はお前ね? 残念ながら私が帰ってきたからにはお前の居場所などないわ。疾くと去れ」
声音といい、抑揚といい、人に命令し慣れている。
さも当然のことを言っている感を出しているけれど、乗っ取ろうとしているの、そっちだよね?
ヘンリックやロベルトに何かあったとしても、エルディスとカーリンがいる。この家を継ぐのは嫡出子であるこの子たちだ。万が一全員に何かあったとしても、辺境伯夫人は代理にしかならない。後継は一族からしかるべき者が選ばれるだろう。
なんでこの人は自分が当主になろうとしているのかな。
メルネスを、この子たちの手を自分から離した者が厚かましいわ。
「ヘンリックが……あの堅物が私を死んだことにして再婚したなんて信じられなかったけど、皆騙されていただけよね。一族も誰もあなたを認めてないわよ。現に子どもたちから『偽物』と呼ばれているそうじゃないの。さあ、私が本物のお母様よ。こちらにおいでなさい」
話題が自分たちになったエルディスとカーリンの肩がはねた。
私の手とスカートを握る手により一層力が入ったのが分かった。
この子たちに言われるのは本当だから仕方ないとして、この人に言われるのは本気で不愉快だな。
私も双子の手を握る手に力を入れる。絶対に離すものか。
しかも、この人の言っていることが本当ならば、辺境伯はこの人のせいで濁流に流されたということになる。豪雨の川沿いになんでいたのかも気になるけれど、災害時の緊急避難的な状況以外では辺境伯の命を危険に晒した原因として有罪なの、分からないのかな?
とりあえず事情聴取をさせよう。目撃者とのすり合わせをして、有罪とまでいかなかったら、激似の爺……ミカル様に引き取ってもらおう。
方針を決めたら、もういいや。話をすることもない。
この人よりもロベルトの側に行く方が遥かに大事だわ。
部屋を出て行こうとする私にまだ吠えてきたが、あとは騎士たちにお任せする。
「なんとか言ったらどうなの! 二人もほら、早くこちらに来なさい!!」
幽霊が渾身の大声を出して護衛の手を振り払って近寄ってこようとした時だった。
「黙れ」
護衛たちが殺気立ち幽霊を羽交い締めにしようとするよりも早く、その一言が場を支配した。
「にいさま!!」
双子たちが駆けた先にはロベルトがいた。
顔に疲れは見えるが、しっかり自分の足で立っていた。
意識が、戻った……。
膝の力抜けそうなくらい安心した。
ロベルトのするどい言葉に勢いを失った女は「……ロベルトなの?」と力なく呟いた。
もう『女』呼ばわりでいいや。
「私たち兄弟を産んだ前辺境伯夫人ビルギットは既に亡くなっている。故人を名乗りメルネス家に入り込もうとする不届き者に何の正統性もない。現辺境伯夫人への妄想からの暴言も許しがたい。地下牢へ連れて行け」
え、八歳……? 何回目の八歳??? 怒っているのはすごく分かるが、しっかりし過ぎてないか?
「ロベルト……私は生きているわ。あなたたちの母親よ」
女が情に訴えかけようとロベルトに手を伸ばしたが、護衛に遮られた。
「私の産みの母は既に故人です。連れて行け」
騎士たちに手を取られて引かれて行く間際、女は私を睨み付けて叫んだ。
「どんな手で皆を騙しているというの……子どもたちまでも!!」
こんな戯れ言、どうでもいい。
本当は辺境伯夫人の役目などかなぐり捨ててロベルトの側にいたかった。
でも、私の仕事だ。
その目がもう開かなかったらと少しでも思うと、怖くて仕方がなかった。
力の入らない膝を叱咤して、いつも斜めがけにして持ち歩いている紙を貼った板に殴りつけるように書いた。
『ケガは、痛いところは』
その板をロベルトに見えるように差し出す。
「大丈夫です、シーヴ様。医師……ミカル大叔父上からも多少水を飲んだだけで、大事を取って一晩休むくらいで問題ないと言われています」
それを見ていた女が呆然と呟いた。
「……何で筆談……え、あなた、口がきけないの?」
私? そうですが、なにか?
ずっと喋ってなかったじゃんよ?
あの日、十三歳からずっと心の大半を占めていた人からの言葉は、私の心を抉った。
心から笑い合えていたと思っていたのは私だけだったのか。『そういう対象』じゃないってどういうことだろうか。彼の言う『理想』って何なのだろうか。五年も付き合いがあったのに、考えても考えても分からなかった。
つまりは、それくらいの薄っぺらい浅い付き合いだったということだ。
私が言葉を尽くし、心を尽くし、一生側にいることを望んだ五年間は。
家族や友人、がらっぱち共が柄にもなく気を遣ってくれるから、「大丈夫」、「もう平気」と答えるしかなかった。だって、もう辺境に嫁ぐしか私の道はなくなったのだから。
心が大出血しているのに平気な振りをしたツケは、すぐに身体に出た。
その翌朝、起きたら声が出なくなっていたのだ。
いや、声は出る。あーとかうーとか。だが、話そうとすると喉が詰まるように閉じて、言葉が出てこなかった。
医師は心の悲鳴だと言った。
言葉が出ないのに悲鳴とはどういうことかと思った。
すぐに治る人もいれば、ずっと治らない人もいるとも医師は言った。
回りの皆が動揺している中、私は妙に安心した。
紙さえあれば筆談は出来る。耳は聞こえるし目も見える。手がなくなったわけでも歩けなくなったわけでもない。
紙は貴重だから、小さな字で言いたいことを簡潔に書く。一呼吸置いて書けるのも、心を落ち着けるのに良かった。
何より、「なんともない」と笑って言わなくて良くなった。
一応、事が事なので、辺境伯には早馬で事情を説明したが、特に問題ないと返事がすぐに来た。
問題、ないんだ……?
本当に別に私に求めることとか興味とか無いんだろうなぁ。
溜め息をついたらいいのか、気が楽だと喜べばいいのか、戸惑いながらも私はこうして私は辺境伯に嫁いできた。
喋ることが出来なくても、特に今のところ支障はない。と、私は思っている。
辺境伯もほとんど喋らないからね!
「シーヴ様」
感傷に浸っていると、ロベルトに呼ばれた。
ロベルトの焦点が合っている紫の眼と湯浴み後のつるつるの頬を見て、ほっと息を吐いて抱き寄せた。
「シーヴ様」
再度ロベルトが抵抗の意で呼んでくるが、無視だ無視。
……私は、あなたたちがあの人を受け入れるのであれば、出て行かなければならないと思うのだよ。
あの人がきちんとあなたたちの母で、辺境伯夫人であったのならば、私はここにはいなかった存在なのだから。
でも。
……追い返してくれて、ありがとう。