第五話 嵐
日が暮れて、段々と雨足が強くなり風も出てきた。
夜の雨は嫌いだ。
明けてみると山の土砂が流れていたり橋が流されていたり、碌な事が起こらない。
変な胸騒ぎもする。
双子も何か不安なのか、今日は少々大人しい。
夕食後は居間で刺繍をしていると、玄関が騒がしくなった。見回りに出ていた辺境伯とロベルトが帰って来たのだろうか。
イヤな予感がした。
確認しに玄関に向かおうとすると、エルディスとカーリンが唇を引き結んでスカートを掴んで離さなかった。
何かあったとするなら立ち会わせるわけにはいかない。
でも、こんな顔の子たちを置いていくわけにもいかない。
私は二人の手をしっかり握って、玄関に向かうことにした。
玄関では使用人たちが硬い表情で走り回っていた。
ぞわ。
悪寒が走った。
泥まみれのロベルトが護衛に抱かれていた。
その目は閉じられ、ぐったりと四肢を投げ出していた。
息が止まった気がした。
回らない頭で報告をつなぎ合わせると、雨で川が溢水し、川沿いにある集落に浸水した。まだ歩けるうちに集落全体を避難させようとしていた時、あっと言う間に川が氾濫したという。指示を出していた辺境伯一行を含め、十数人が濁流に流されてしまった。
その中に辺境伯とロベルトがいた。
ロベルトは木の枝に引っかかり護衛に助けられたが、辺境伯は現在までに確認出来ていない。
血の気が下がった。
人間は溺れれば数分で死に至る。
流された人たちは。
「奥様」
家令の静かな声が耳に入ってきた。
「奥様、ロベルト坊ちゃんを湯船に入れます。身体を温め清めます。その間に医師であるミカル様が到着なさるでしょう。我々が行ってもよろしいですね?」
あ……。
しっかり、しなくては。
辺境伯が行方不明である今、私が女主人として皆の前に立たなければならない。
ロベルトを侍従たちに任せ、被害の確認をする。
流された人だけではなく、この雨で被害に遭っている領民たちもいるのだ。
館は頼りになる家令が取り仕切ってくれる。出せるだけの指示も既に手配されていることが確認出来た。ならば私は、不安が募っている領民の避難場所へ行こう。
双子を乳母に託そうとするが、二人が手を離してくれなかった。
この子たちはメルネス家の直系である。
黙って手を握り続けているが、幼いなりに固い意志が見られる。『一緒に行く』と。
乳母と護衛に、この子たちの安全を最優先にすることを言い含め、共に町の広場に向かった。
雨はまだ強いが風は収まってきており、広場にはいくつもの天幕が張られ、避難して来た人々がそこに集まっていた。
町の人による炊き出しや衣服の持ち寄りも始まっていた。
暖かい季節でまだ良かった……。これが冬なら被害が拡大していたかも知れない。
辺境伯が行方不明であることはまだ広まっていないようだけど、隠し通せるものでもない。こういう情報は後になればなる程、疑心暗鬼を招いて信用をあっという間に失う。
目で合図すると、護衛は頷いて声を張り上げた。
「皆、聞いてくれ!!」
良く通る声で状況の説明を始めた。
「今朝からの雨でイペントラ川が氾濫し、周辺の集落が被害に遭っているのは皆も知っているとおりだ! ご領主様が指揮を執られ、この広場に逃れてきた者も多くいるだろう。状況が分からないということは心に不安を呼び、不安は伝播する。辺境伯夫人シーヴ様より皆に包み隠さず状況を伝えるとともに、メルネス家の総力を以て災害対応にあたるよう指示されている」
皆、手を止めて耳を傾けているが、私の名前が出たところで、ざわめきが起こった。
なぜ、辺境伯ではなく夫人なのか、と。
「被害状況は確認中であるが、家屋がいくつか流され、床上浸水以上の被害を受けている家も多数ある。川が氾濫した際に、十数名が流されて現在も捜索中である。その中には、ヘンリック・メルネス辺境伯もいらっしゃる」
ざわめきが大きくなった。
「ロベルト様も流されたが救助され、現在治療中である」
ざわめきが悲鳴に変わった。
領主とその後継ぎを失うことになれば、この辺境は後妻である私と幼い双子が立つことになる。もちろん、一族の後見もあるが、動揺が走っても仕方ない。
一斉に視線が私と双子に集中した。
その意味は『未来への不安』だろう。
二人は「ひっ」と息をのんで震えながら握っている手にしがみついてきた。
それでも泣き出さない。
幼くてもこの子たちは領主の一族なのだ。
「以上が今分かっていることだ。憶測や噂で主たるメルネス家を貶めることは許されないと心に刻むように。なお、奥方様のご意向で、今後も適宜情報は伝達される。皆、領主館から発せられる情報を待つように」
不安と少しの安心が広がっていく。
群衆が何より恐れるのは置いてけぼりだ。
広場を見渡すと、不安ながらも今出来ることをしようと前向きな空気が流れ出していた。
良かった。メルネス家は領民をきちんと見ていると伝わったようだ。
避難所の担当に今後必要になる物を早めに取りまとめて報告するよう指示し、ロベルトの看病をするために領主館に急ぎ帰ろうとした時だった。
「待って!!」
泥だらけの女性が声を張り上げた。
目だけで確認するが、見覚えのない女性だ。領民全員とまではいかないが、主要な人物の顔は分かっているつもりだけれど、見覚えはない。見覚えはないのに、ものすごい既視感があった。
乳母が「ひ」と短い悲鳴を上げて、護衛が息をのんだ。
冷静沈着なベテランである彼ららしからぬ動揺だ。
私の子どもたちに良く似た女性。ついでに今向かってきている一族の爺に良く似ている。
察した。
この人は『幽霊』だ。
この人に喋らせてはならない。
今は皆の心が弱っている。そんな中、幽霊の言葉がどう作用するかなんて分かりきっている。マイナスにしかならない。
護衛に合図して一緒に領主館に引き上げることにした。
歩いている最中も私や双子に話しかけようとしたが、護衛が阻んでくれた。すぐに立ち直ってくれて良かった。
領主館に着くと、ひとまずは湯に入ることにした。
幽霊にも湯に入ってもらう。「話を」とか「子どもに」とか「私の子よ」とか言っているが、今は無視する。
良くないことが起こっていると肌で感じているのだろう。エルディスもカーリンも動揺している。
いつも暴れて大変なのに、大人しく服をひんむかせてくれた。これはこれで楽だな、なんて思ったらいけないな。二人の手も足も氷のように冷たくなっているので、湯船に入りながらさすってやる。
絶対的保護者の父は行方不明。頼りの兄も意識不明。母は偽物。死んだと聞かされていた本物母は泥だらけで今更現れた。
動揺するなという方が無理だろう。
何もいっぺんでなくても良くない?
湯から上がっても私から離れない双子の泣き出しそうな顔に、覚悟を決める。
……しっかりしなくてはならない。
今は私が指揮系統のトップだ。
今は、私が、母なのだ。