第四話 どっちもアレ
「奥様のアレは相当にアレだな……」
「本当に」
「天性のアレですわ」
家令、侍従長、侍女長が一斉に溜め息をついた。
鈍い、鈍すぎる。と。
泣く子も黙るヘンリック・メルネス辺境伯が、妻からの剣帯を一番にもらえなかったことに衝撃を受けて周囲を無意識に威嚇していたというのに、それに一切気が付かないとは。
「ロベルト坊ちゃんは剣帯をもらって良いのか分からずに、珍しくオロオロされておりましたわね」
大人びたロベルトの困惑した様子を侍女長が語ると、家令と侍従長もうんうんと頷いた。
昔は良く泣いていたロベルトは、五歳くらいから急に大人びてしまい、回りの大人たちは密かに心配していた。
旦那様二号に育ち上がってしまうのではないかと。
いや、まあ似て当然なのだが、仕事仕事で自分のことは後回しの上、理屈や理論ではない人間の感情という部分を感じ取る能力が欠けてしまうことを危惧しているのだ。
そんなところは似なくて良いのである。
ただ、今日のロベルトの様子を見て、その部分は大丈夫そうだと三人は安心した。
「ロベルト坊ちゃん、がっつり空気読んでおりましたな。旦那様のお気持ちは坊ちゃんにまで知られるところ……見ていて丸分かりというか」
後妻に気持ちを向けている父親を差し置いて、剣帯を受け取って良いものか。
他人の感情が分かっているからこその気遣いである。
そもそも、『ベルツの守りの剣帯』は、剣を持つ者にとって有名な縁起物である。
ひと針ひと針、無事を祈り再会を願った古のまじないが刺繍された逸品。ベルツと縁がある者は贈られることを夢見るのである。
「旦那様も期待されていましたからな……」
侍従長が独りごちた。
結婚してまもなく、シーヴが剣帯用の刺繍用品を用意したことを知ると、ヘンリックは目に見えてそわそわしだした。
「旦那様は誕生祝いかと、相当期待していらっしゃいましたからな」
家令もヘンリックの様子を振り返って呟いた。
誕生祝いにシーヴがヘンリックへと用意したのは革の手袋だった。
しかしこれもベルツの逸品だ。使い始めはどうしても固い革手袋だが、ベルツの革はなめし方が違うのか最初から手に馴染み、縫製も丁寧で指が良く動く。
「旦那様も喜んでいらしたわ。少しがっかりされていたようでしたが、刺繍は時間がかかるものだと思い直され、手袋を大層大切にしていますわ」
侍女長が溜め息交じりに言った。
ヘンリックが期待していた剣帯ではなかったものの、心のこもったシーヴからの贈り物には違いないのである。
そこへロベルトへの見事な剣帯どーん。
エルディスとカーリンに次作る約束ばーん。
奥様、気付いて! 旦那様の気配に気付いて!!
皆の願いは虚しく、シーヴは「何この空気?」と首を捻りながらも、ついぞ周りの温度に気が付くことはなかった。
シーヴの鈍さには脱帽である。
「しかしながら、旦那様にも原因がある。……生来、無口な性分でいらっしゃるが、奥様に何も伝えていない、言わなさ過ぎであろう」
「剣帯を期待しているのならば、普通におねだりすれば良いものを、いじいじもじもじと」
「夜ごと同衾していれば愛しい思いが伝わるとでも思っているのかしら」
家令、侍従長、侍女長の順である。
侍女長から見たシーヴは、完全に借金のカタに売られ、『仕事』として辺境伯夫人を担っているに過ぎないのだ。全くヘンリックの気持ちに欠片も気が付いていない。そもそも、ヘンリックから一切の意思表示がされていないのだから、気付けという方が無理難題かも知れなかった。
「旦那様はお子様たちに対しても、大事にしている気遣いが全然伝わっていないことに、全く気が付いていらっしゃらないのだよ」
ヘンリックも途轍もなくアレである。
三人の溜め息が重なった。
双子を出産して一月程経った頃、当時の妻、ヘンリックの前妻のビルギットが突然出奔してしまった。
ヘンリックが捜索したところ、近年雇った若い兵士と一緒に隣国に逃げたことが分かった。
駆け落ちである。
たとえビルギットが甘い言葉に騙されていたとしても、責任ある立場の大人が自分の意志で行ったことである。
辺境伯領から誘拐されたワケではないことが判明すると、ヘンリックは、隣国との戦に利用させないためにビルギットを亡くなったことにした。
この先何が起ころうとも誰が何を言ってきたとしても、ヘンリック・メルネス辺境伯の妻、ビルギット・メルネスは産後の肥立ちが悪く亡くなったと押し通す。
以後、ビルギット・メルネスを名乗る者は『偽物』となったのだ。
国防に関することなので、ヘンリックの判断を国王も追認した。
その時のヘンリックは淡々としたものだった。
まだ二歳のロベルトは不穏を感じて夜泣きがひどくなったし、生まれたばかりの双子たちは言わずもがなで、館の中はいつも泣き声が響いていたというのに。
まあ、元々子育て自体は乳母に任せていた人たちだから、子どもの不安にも気が付かなかったのかも知れない。
それからすぐに、ヘンリックはベルツ男爵に融資を行った。
たくさんの釣書を持ってきて再婚を迫っていたご親戚たちの前で「ベルツ男爵が完済出来なければ五年後にベルツの娘を後妻にもらう」と宣った。
ヘンリックとビルギットは恋愛結婚ではない。
昔から奔放なビルギットはある意味有名で、当然のように嫁ぎ先が見つからず、早くから当主を継いだヘンリックは忙しくて結婚どころではなかった。
一族会議で二人の結婚が提案された時、ヘンリックは抵抗しなかった。
親戚のご老人たちは、懸案事項だった二人の結婚がいっぺんに片付いて終始ご満悦だった。唯一、ビルギットの祖父であるミカルが反対したが、数に押しきられていた。
そう、ビルギットはメルネス一族、ヘンリックの又従姉なのだ。
メルネス一族は、一族総出で辺境の国防に携わってきたためか、結束が非常に固い。
ヘンリックが若い当主としてやっていけているのは、お歴々のおかげでもある。それはヘンリック自身も重々承知しているところだった。
お歴々の顔を立てるために自身の結婚に抵抗しなかったのかも知れないが、ヘンリックという人物を生まれた時から知る三人は首を横に振った。
「……ご自身の結婚に関心がなかったのに、旦那様も難儀な方だ」
一度は親族に義理を通した。後継ぎの子も三人いる。(面倒臭いから)再婚はしないと言っても引かない一族を黙らせた手腕はさすがというか。
ヘンリックに恋人がいたことはない。
大人の関係な女性はちらほら把握しているが、正式な交際に至ったことはないと断言出来る。
きっと結婚以前に、恋だの愛だの感じたことも考えたこともないのだろう。
その結果、三十を手前にしたヘンリックに遅い初恋が訪れるなんて、誰が想像しただろうか。
黙々と仕事をこなすシーヴと接して、じわりじわりと浸食するように恋に染まっていったヘンリックを三人は側で見てきたのである。
身体を重ねて墜とされたのは、他でもないヘンリックの方だ。
幼い頃から後継ぎとしてこの領地と国境を守ることを教え込まれてきたヘンリックは、家族の愛情を知らず、無口な上に不器用に育ち上がった。
「きっと、愛おしい者たちとどう接すれば良いのか、ご存じではないのでしょうなぁ……」
侍従長の言葉に二人はしんみりと頷いた。
先代辺境伯夫妻は、仲が悪くて有名だった。典型的な政略結婚で相性が最悪の二人だった。
ただ、最期は仲良く馬車の事故で一緒に逝った。ヘンリックが十八歳の時のことだった。
隣国が大きなちょっかいをかけてきている時期のことで、それからヘンリックは辺境伯として多忙を極め、それは隣国との小競り合いが収まっている現在も続けているのだった。
「でもまあ、他人が口出すことでもございませんでしょう」
侍女長が肩の荷を降ろしたかのように呟いた。
「そうですな。いい大人同士の話です」
家令も同意した。
「我々に出来ることはそうありませんが、出来ることはいたしましょう」
主人の重いが実りますように。
間違えた。
想いが実りますように。
不器用と鈍感では話は進まないだろうが、幸いにも既に結婚していて、閨も共にしている夫婦なのだ。夫婦の問題と親子の問題は当事者同士で解決して欲しいと三人は切に思った。
シーヴは若いのに妙にしっかりしているかと思えば、がさつでいい加減なところもあり、ちっともじっとせずにくるくる回るオルゴール人形のようだ。
それにつられる形で、まるで止まっていた時間が動き出したかのように、現在のメルネス家は生き生きとしている。
たったひとり、シーヴの存在のお陰である。
本人は仕事だからだろうが、常にフラットな態度で側にいる存在というのは、本当に心に住み着くものだ。
シーヴひとりでメルネス家の相手は大変かもしれないが、このキラキラした時間がこれからも続くようにと祈ってやまない。
三人は無言で頷き合って、シーヴがヘンリックの剣帯の刺繍を完成させるまで分担された仕事をするべく、それぞれの持ち場へと向かった。
どうか今日も平穏でありますようにと願いながら。
他人はそれを、フラグと呼ぶことも知らずに。