乳母のつぶやき そのに
ロベルト様が「むん」と立ち上がり、一歩を踏み出してよちよちと歩き出した頃。
ビルギット様が懐妊され、しばらくするとお腹の子が多胎であることが分かり、外出を自粛して館内での安静を医師から言い渡されました。
外に出られない鬱憤か、隠すことなく若い恋人を侍らせるビルギット様。その恋人はメルネス家に雇われた騎士です。
……仕える主を裏切る騎士の行為に顔を顰めましたが、そもそもビルギット様のお腹の子はヘンリック様のお子ではないと、そういう話が館の中では囁かれていました。
共寝の形跡がないのに子を宿し、恋人を側に置くビルギット様。そしてそれをどうにもしないということは、どのようなおつもりでもヘンリック様は認めているということで。
では、ロベルト様は?
ロベルト様もヘンリック様のお子ではないのだとしたら、……後継ぎはどうなるのでしょうか。
私自身と館の大人の動揺や不安を感じ取ってか、ロベルト様の夜泣きが激しくなりました。
あやしてもあやしても泣き止まず、泣き疲れて眠る日々のロベルト様。
辺境の情勢も隣国が行軍してきて緊張したものとなり、ヘンリック様たちが前線に詰めている間にロベルト様が二歳を迎え、そして、双子の産声が館に響き渡りました。
エルディス様とカーリン様と名付けられたロベルト様の弟君と妹君は、やはり紫の眼をしていました。
多胎ということで少し小さくお生まれでしたが、身体に悪いところはなく、乳母たちのお乳をよく飲んでいました。
ビルギット様は相変わらずお子様には関わりません。
隣国を追い返してお帰りになったヘンリック様も同じです。
そして。
ビルギット様が館からいなくなりました。
ビルギット様の恋人の若い騎士もいなくなりました。
いくらなんでもあんまりです。
添い遂げるつもりがないのなら、……追いかけるほどの気持ちがないのなら、なぜ結婚したのでしょうか。
なぜ。
この気持ちは、きっと元夫に対する疑問と怒りがごちゃまぜになった、いわゆる八つ当たりかもしれません。
それでも私はビルギット様とヘンリック様に聞いてみたい。
こんな終わり方をするならば、なぜ、と。
この時期は三人のお子様の泣き声が館に聞こえない日は無いくらいでしたので、館の雰囲気も暗く沈んだものでした。
ロベルト様が五歳になられると、次期辺境伯としての教育が始まりました。家庭教師がつき、遊びを交えながらではありますが、朝から夕方まで勉強時間となったのです。
感情を素直に出して泣き虫だったロベルト様はいなくなってしまいました。
ヘンリック様ほどではなくても、無表情で周囲に壁を作り、ひたすらに『後継者』としての勉強に打ち込まれるようになったのです。
……まるで、そうしないとこの館にはいられないとでも思っているかのようでした。たった五歳の子が。
私はとうに『乳』の役目は終えておりましたが、『母』としてはこれからも側にいるつもりでおりました。
しかし、それは叶いませんでした。
一日中勉学に励むロベルト様に、乳母も脳天気な五歳の乳兄弟も、もう必要なかったのです。
結構な額の退職金をいただきお暇となった私たち親子は、ちょっと途方に暮れました。
なにせ次の職どころか住むところも決まっていなかったのです。
とりあえず宿を取って今後のことを考えようとした時、ユーハンがポツリと言ったのです。
「海を見に行こうよ」と。
この国の海岸線はメルネスとは真反対にあります。
ユーハンは不思議なことに物心ついた頃から海に憧れていました。変わらないのね、と思ったところで、愚かな私はようやく思い至りました。
私はユーハンが生まれてすぐに離婚してメルネス家に住み込みで働き出しました。
そして、実家に帰る時や町に用事がある時、ロベルト様の付き添い以外では、ほとんど館から出ることはなかったのです。
純粋に息子と出かけたことがない。
ユーハンを、行きたいと言ったところに連れて行ってやったことがない……。
ずっとロベルト様を見ながらユーハンを見てきました。
乳母として働き始めて、この子だけと過ごした時間はどれほどあったでしょうか。
これじゃあ、ビルギット様を責められません……。
幸い、お金はあります。
柵は実家と友人、そしてロベルト様。
実家の家族は問題ないでしょう。十五歳になった弟ももうすぐ家を出て働きます。両親は兄家族と弟に任せられます。
友人だって、今までも会う機会は少なくとも続いてきた人ばかりなので、距離が離れても問題はないでしょう。
ロベルト様は。……二年後に、ヘンリック様は融資なさった男爵家から後妻を娶られるとのこと。その時にはロベルト様の小さかった頃のお話を伝えて差し上げたかった気持ちがあります。
そしてもしも、ロベルト様が「グレタを」と望んでくださるのなら、すぐに館に駆けつけるつもりでいましたが……。
やめましょう。
ロベルト様の周囲には、助けたくて助けたくて手を出す準備をしている者がたくさんいます。家令も侍従長も侍女長も、館で働く者は皆そうです。
実の母から得られなかっただろうものは、掛け替えのないものに違いありません。それを埋められるのは、やはり『母』でしかないのだと思います。
「海……行こうか!」
ユーハンの手を握りしめて私が言うと、ユーハンは一瞬ぽかんとした後、破顔して抱き付いてきました。
私はロベルト様の『乳母だった』だけ。
でも今は、生まれてきてくれた息子の手を離さない、この子の母親だけでありたい。
ロベルト様。
あなた様に、私ごときでは埋められなかった母を求める寂しさを、埋めてくれる人が現れてくれますように。
そして、大泣きしながらでもいいから、その人の手を掴んだら、離してはいけませんよ。
私たちのように。
「……あら、今日はいいの?」
「はい。ありがとうございました、母上。その、恥ずかしいことを……」
「誰が見ているわけでもないのだから、いいのよ? 私もアーネに手がかかってロベルトに構ってあげられなかったのだもん。今日もぎゅうしてトントンするわよ?」
「思い……出したのです。ずっと、一緒にいて母上みたく温かい人がいたことを。僕は、ずっと寂しかったけれども、一人じゃなかったことを、思い出しました」
「ふうん? それで、もうバブりはおしまい?」
「バブっ……ん゛、……はい」
「じゃあさ、その温かい人のこと、教えてよ、ね?」
妹のアーネが生まれてから、皆がアーネを見てアーネのために動いて、誰も僕が見えてないような、自分が透明人間にでもなったような気持ちになった。
アーネは可愛いのに、とても可愛いのに、……生まれないでずっと母上のお腹にいれば良かったんだ、って思う自分がいた。
自分の心がドロドロで汚い。
いつもなら笑って抑えられるのに、抑えられずに漏れている。
それに気付いたのが母上だった。
夜、全然頭に入らないのに机に向かって本を開いていると、母上がやって来た。いつも『寝る時間の最終通告』に来てくれるのだ。
目線だけで「はいオワリ」と告げ、僕が寝台に入ると毛布を掛けてくれるが、その日は母上が一緒に寝台に上がって僕を抱き締めてきた。
すっぽりと包まれた温もり。
僕に気付いてくれた。
それだけで涙が出た。
それから毎日僕を寝かしつけてくれた母上。
心のドロドロはまだあったけど、僕は不思議な気持ちになっていた。
僕をずっと抱き締めてくれていた温もりを、僕は思い出していたから。
父上の子でない自分は、勉強して優秀な後継ぎでなければ存在価値がないと思っていた頃。
もう赤ちゃんじゃないと、僕から手を離してしまった、ずっと一緒だった大好きな人たちの話。
僕は母上の袖をそっと握って話し出した。
いつかまた会いたいと気持ちを込めて。
読んでくださり、ありがとうございました。
次回はまた別の人のお話です。
もう少ししたら、ようやく海の町に落ち着いた二人から、潮の香りがする海の絵の葉書がロベルトに届くかもしれませんね。
ロベルトの乳母のつぶやき、一部ロベルトのつぶやきでした。




