第9話 第七王子と精霊使い令嬢の初対面と、母ウルスラのこと。
幼き日に出会っていた、第七王子カイルと精霊使い令嬢ルイーゼ。
ルイーゼ嬢は忘れているけれど、カイル王子にとっては大事な思い出のようです。
カイル王子の母、ウルスラは不遇だった。国王に寵愛されたにもかかわらず、身分の低さゆえに王妃の地位を与えられなかったのだ。
ウルスラという名が示す通り、カイル王子の母は辺境の血を引いていた。つまり、貴族の血統ではなかった。王宮に召されたのも、本来は侍女としての待遇だったという。
物心ついた時、カイル王子は王城の敷地に建つ小さな屋敷に住んでいた。寵姫ウルスラの待遇は、悪い意味で別格であった。第一王妃をはじめとする四人の王妃たちは、王が住む宮殿内に部屋を与えられていたのだから。
母子二人が王宮を追われたのは、カイル王子が八歳の時だった。
屋敷を訪れた父王の言葉は、幼い心に深く刻みこまれている。
「ハンフリーが正式に王位継承者となった。カイルには北のデンファ州を任せたい」
別離を告げられたウルスラは、気丈だった。情に訴える素振りも見せず、こう言ったのだ。
「第二王子から第六王子を差し置いて、第七王子のカイルが領地をいただいてよろしいのですか?」
兄弟の序列を乱すべきではない、というウルスラの言葉は当を得ていた。王国では法律とメンツが重んじられるのだから。
「分かっている。まずは第二王子から第六王子に、王都に近い街を一つずつ与える」
「平民の娘が産んだ第七王子は、王位継承権からも王都からも遠ざけられるのですね」
ウルスラは「ならば」と言葉を継いだ。
「この子が立派な辺境の領主になれるよう、王のお力添えをお願いいたします」
「分かっている。デンファ州へは、護衛の兵と文官も連れて行って良い」
母は我が子に、名よりも実を取らせたのだ。王位継承者という名ではなく、辺境の主としての権力を。
気丈だった母だが、ある日ふとしたことで突然折れてしまった。
王都を離れる前に、街で買い物を体験させようとした親心があだになった。街路の石畳でつまづいたウルスラは、座りこんだままぽろぽろと珠のような涙を流した。ついてきた護衛――今の第一秘書官も、幼かったカイルも、動揺するばかりであった。その時のウルスラは、強い母の仮面を落として粉々に割ってしまったかのようだった。
「お怪我をなさったのですか?」
近づいてきたのは、銀の髪をなびかせた美しい少女だった。少女と言っても、カイルとほとんど変わらぬ年頃であった。
少女はサファイアのような瞳でウルスラを見て、こう言った。
「私に医術の心得はございませんが、水の精霊さまと契約しております。傷口を洗ったり、打ち身を冷やしたりできるのです」
少女を守るようにして、アクアマリン色のきらめきが宙に躍った。
「あなた様は、フローレンシア公爵令嬢、ルイーゼ様ですか?」
ウルスラが、ぽかんとした顔で尋ねた。
カイル王子も、名前だけは知っていた。幼くして水の精霊を操る天才的な公爵令嬢がいる、と。
「あなた様のお手を煩わせるわけには参りません。少しすりむいただけですから……」
涙を手の甲で拭いながら、ウルスラは遠慮を見せた。すると、ルイーゼは愛らしく微笑んだ。
「まだまだひよっこですので、練習をさせてくださいませ」
ルイーゼが取りだした白いハンカチーフに、水しぶきが散った。アクアマリン色の光からグラス一杯ほどの水が落ちてきたのだ。
「失礼いたします」
ハンカチでウルスラの頬を優しくぬぐい、ルイーゼはささやいた。
「美しい方。おみ足を見せていただけますか?
ウルスラが、困ったような笑みを見せた。カイル王子が見たことのない表情であった。
裾をたくし上げてすりむいた膝を見せたウルスラに、ルイーゼは覆いかぶさった。
「淑女の肌を衆目にさらすわけには参りませんもの」
カイル王子もようやくそこに気がついて、同じように覆いかぶさった。
「水の精霊さま。この方の傷を洗ってさしあげて」
アクアマリン色の光が延びて、母の擦り傷に水が噴きつけられた。砂粒が洗い流され、新たな血がにじみ出た。
「あなた、塗り薬を買って来ていただけますか」
従者――今の第一書記官に、ルイーゼが言った。
「水の精霊さまは、強いんですの。私たちを守ってくださいますわ」
「よろしく頼みました!」
去っていく背中を見送って、ルイーゼはウルスラに語りかけた。
「私、見ていましたわ。あなたがつまずいてよろけた時、息子さんにぶつからぬよう急いで身をひねったのを。……私も、あなたのような母になりたいと思います」
カイル王子は恥じた。母の涙に動揺するばかりだった自分を。
その後まもなくデンファ州に移ったカイル王子は、冷涼な気候にも、出没する妖魔にもめげず勉学と鍛錬を続けた。
王都から「ルイーゼ嬢が第一王子と婚約した」という情報が流れてきて以降は、さらに励んだ。失恋の傷から気を逸らすためと、万一ルイーゼ嬢と再会した時に領主としての雄姿を見せるために。
結果、垂直跳びをすれば天井にぶつかるほどの常人離れした筋肉と、逆境にめげない若者という地元民の評判を得た。さらには第一王子の愚行により、ルイーゼ嬢と婚約する幸運にも恵まれた。
しかしそれでも、幼き日の初対面をカイル王子は恥じている。ルイーゼ嬢が忘れていてくれて、良かったとも、寂しいとも思うのだった。
幕間の過去語りでございました。