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「アリスは『主人公』ではありませんから」
ぴたり、空気が止まる。この世界に来てからずっと思い込んでいた自分自身の勘違いを見抜いていたるかのようだった。しかし改めて言葉にされるとショックに思えてしまうのはプレイヤーの性なのだろうか。ではこのゲームの主人公は存在するのか、と頭に浮かんだ疑問を読んでいるかのようにセーブポイントは言葉を続けた。
「本物の主人公はこの世界にひとりの存在としています。自身で考え、自身の意思で動く存在です。ですから、アリスがレリアを助ける必要はありません。主人公が救ってくれますから」
「じゃあ、ほっとけば勝手にラスダンまで本物の主人公が出してくれるって事か? そういうことだよな、主人公がいるって事は」
「いいえ、それは出来ません。既に物語は放棄されています」
「は?」
再び、空気が止まる。プレイヤーがいなくとも動いてくれる主人公がいるにも関わらず、物語は放棄されているとは一体どういうことなのだ、と。ストーリーの中での主人公は幼馴染であるレリアを助ける事を第一に動いていたように記憶している。そんな彼がストーリーをほっぽり出して何をしているのか。
「主人公はレリアを助けたいという気持ちはありますが、レリアを助ける方法が『物語をなぞる』から逸脱してしまったようですね」
「逸脱した……? 何に?」
「それは……」
喋っている途中にも関わらず、セーブポイントの姿が半透明になった。思わず手を伸ばすも触れることも出来ず通り抜ける。突然の出来事に目を白黒させるが、セーブポイントは身体が透けているにも関わらず冷静なままだ。
「少しここに留まり過ぎましたね。今後は大事な話は移動しながらにしましょうか」
「ッ、どういうことだよ!」
「すぐにわかると思います。ワタシとしては、逃げに徹することをお勧めします」
脳内に疑問符が踊る。この場所でそんなイベントは無かったはずだ、と掴めないセーブポイントに掴みかかろうとした瞬間、背後からじゃく、と草原を踏みしめる音が聞こえた。まさか、モンスターとのエンカウントか?と嫌な予感を覚えて振り向けば、にこりと笑う青髪の少年がそこにいる。
「……!」
その姿には見覚えがあった。何度として見て来た。この世界に来るその瞬間まで、こちらを視ていた存在だった。そして、つい今までセーブポイントと話題にしていた相手だった。青髪を揺らし綺麗な水色の眼をこちらに向けてにこにこと笑う彼は──
「……か、カイル?」
このゲームの『主人公』。崩壊した王都で無事に生き残った数少ない人物であり、幼馴染であるレリアの生存を確信してレシュリティア島中を駆け回る事になる存在。デフォルトネーム、カイル。本来ならばプロローグが終わってすぐの主人公がこんなににこやかな表情をするとは思えない。何故ならば大切な幼馴染であるレリアが生存不明の状態となり、更に島は魔物が溢れて混乱状態。ゲーム上の歩行グラフィックで表情を伺う事は出来ないとしても、普段から笑顔を張り付けているようなとんでもないキャラクターとは思えない。ならば何故こんなにも笑っている?
「みィ、ツけ、たァ」
ぞわり、背筋に走る悪寒。無邪気に軽快に、無機質に。発されたカイルの言葉には覚えがある。あの時のレリアの喋り方とよく似ている。すると今の言葉を皮切りににこりと弧を描いていた口元がぴりぴりと裂けていく。青空の様な澄んだ水色の眼がぼたり、地面に落ち、ざぁざぁと青い髪にノイズが走り始める。片手に木の剣を持ち、ゆらりと切っ先をこちらへと突きつけて。
『彼らが貴方を攻撃する理由は、貴方が『チート』や『バグ』を使用してこの世界を壊したからです』
「──まさか」
濃厚な殺意を向けられ、セーブポイントに言われた言葉を思い出し、一つの答えが自身の中で導き出されてしまう。目の前にいる主人公が見つけた『幼馴染を助ける方法』とは、この世界をチートとバグで壊した本人を殺害することなのかもしれない、と。
「オレを殺したところでレリアは救えねぇぞ……!」
カイルに向けてそう言うが、それでも彼は剣を向けて笑ったままだ。明らかに会話が成立するような姿ではない。
「アリス、もう一度言いますが逃げる事をお勧めします。アリスは武器も契約精霊もいない上、主人公はアリスのチートの影響で全てのステータスが最強になっています。どう頑張っても勝ち目はありません」
「はぁ!?」
それはもう詰みだ、と叫びたくなる。悪い冗談かと思いたいがセーブポイントが冗談を吐くようなシステムだとは思えない。つまり今目の前にいるのは自我を持ち、物語を放棄し、チートの影響で身体能力は頂点へと至った『主人公』だ。バグっている事を除けば、そのステータスは全てにおいて理想的な数値なのだろう。今の自分自身がどうあがいても勝つどころか傷つける事すら叶わない。
「逃げたってすぐ追いつかれるに決まってるだろ!?」
思わず吐き捨てる。だが実際逃げるしか道はない。城下町で拾った300ラピスは武器ではなくサンドイッチに変えてしまったのだから。じり、じりと近寄るカイルはまるで獲物を追い詰める肉食獣だ。まだ持っているのが木の剣なのは救いだろうか。
じぃ、と眼球の無くなった眼を向けるカイルとにらみ合い、数拍の深呼吸。今だ、と覚悟を決めて駆ける。周囲はほぼ平原、隠れる所なんてほとんどない。多少の道を駆け抜けて森林地帯の方まで行ければ、勝算があるかもしれない。
だが現実がそう上手くいく訳も無く。ゲームでの数十マスは、現実だと数十分の距離、近くに見える森林は遥か遠くて。数十分もスピードを落とさず走り切れる訳も無いし、ステータスが頂点に至ったカイルに追いつかれない訳が無い。それでも無抵抗で殺されるなんていうのは自身のプライドが許さなかった。
「ッなっ!?」
まるで瞬間移動したかの様にカイルは目の前に現れ、木の剣によって腹部を殴りつけられる。殺傷力や尖りが少ない分、ほぼ鈍器に近いそれ打たれたボールの様にあっけなく身体は吹き飛び、ごろりと地面に転がる。
「っあ”、げほっ、う……」
余りの痛みに腹部を押さえていると、カイルがゆらゆらと近寄って来る。じゃく、じゃく、と草を踏む音はまるで死神の足音の様だ。耳の辺りまで裂けた口がにたにたと笑い、口内から何かも分からない黒い液体をぼたぼたと零れさせて、折れた木の剣を片手に見下ろしてくる。腹部を抑えつつも何とか距離を取ろうと後退りするが、それを見透かしたかカイルは足を振り上げ、左足を強く踏みつける。
「ッあ、っぎ、あぁあ!!」
ごぎり、と嫌な音が鳴った。今の一撃で骨を砕かれたのだ。ステータスを限界まで上昇させているというのがひしひしと感じさせられる。一瞬で使い物にならなくなった左足がぴくぴくと痙攣し、膝下は嫌な方向へと曲がってしまっている。
もう逃げられない。逃走の際にセーブポイントは置き去りにしたため助言を求める事すら出来ない。完全に詰みだと確信する。振り上げられた折れた剣が一直線に頭を狙っていることに気付き、寸での所で避けるが今の状態で避け切る事など不可能で。ばきん、という音と共に右肘の骨が砕かれた。感覚を失った手はもう動くことを放棄した。折れた骨が皮膚から突き出し、そこから血も吹き出て地面と剣の木目に染みこんでいく。
「いたっ、痛い、あ、ア”ぁっ……」
カイルが装備しているのが木の剣で救いだと思った数分前の自分自身を殴りたくなる。ほぼ打撃武器である殺傷力の大したことないそれは、一撃で殺してくれないのだ。一発で致命傷に至れないから無駄に酷い痛みに苛まれる時間が長くなるなんて、気付きたくなかった。鉄以上の剣であれば今の一撃で身体が裂けて即死だっただろう。チートで数値を弄っていたからか、今回のゲーム周回では主人公の装備を最初から最強装備で固めていなかったのが、こんな形で災いとなるとは思ってもいなかった。
今の一撃でばらばらになった木の剣の柄をカイルは放り投げ、身体の上に乗りあげる。笑顔で固定された表情のまま、拳を振り上げて。
「ッひ、や、やめっ……」
反射的に眼を閉じる。次いで聞こえたぐしゃりという音と物凄い激痛と共に、意識がぷつりと暗転した。