1-5
「っう、ぁああぁああ!!」
身体がとても痛い気がしてば、と身を起こす。急いで周囲を見渡せば、陽を反射する川と、風に揺られる草原。遠くではカラフルな光が飛び交う城が見える。
「……ここ、は」
振り向けば、青々とした葉を茂らせた大樹が風にそよがれている。どうやら最初に目覚めた場所らしい。両手も両足も無事で、まるで何も無かったかのよう。夢を見ていたのかと思いたいが、先程の死と痛みの記憶はあまりにも鮮明で。
「ぐ、ぶッ」
思わず口を押さえて、地面に蹲る。夢だとしたらあまりにもリアル過ぎた。あの時明らかに受けた痛みは本物で、死の経験は無いが恐らく死とはこういうモノなのだと本能がはっきり告げている。押さえきれなかった口端からごぼ、とせり上がって来たモノを吐き出す。
「な──」
先程港で食べた物のなれの果てか、胃酸かもしくは血が吐き出されると思ったが、ばしゃりと地面を汚したのは真っ黒な半固形物だった。なんだこれはとよく見れば、僅かにぴくぴくと動いていて。後ずさりしようとするも、まだ足りないと言わんばかりに次々と胃の中から全てがせり上がって来る。
「う"、おぇッ」
どぼどぼと地面へと落ちていく真っ黒なそれは、よく見ていれば文字の形をしていて。あまりに現実的ではない現象にひゅぅと息を吸い込むが、何倍以上もの吐き気が全ての息を吐き出させる。視界が混乱でぐるぐる回る。生理的に溢れ出た涙もぼたぼたと地面に落ちる。全て吐いてしまいたいのに、吐ききれないような気がしてただただ辛い。
「吐いてしまいましょう。大丈夫です、今の貴方を誰も害することはできません」
無機質な声と共に背中を擦られる。そっと背中を擦るその手に感謝して、黒い文字たちを地面へ吐き落す。は、っは、と息を荒く吐き、やっとの事で吐き気が収まった。
誰かはわからないが親切をしてくれるNPCもいたものだ、などと正常に戻った思考がそこへ至った所でハッとする。本来善良だったレリアやNPC達も突然あんな風になったのだ、今背後にいる何者かも突然おかしくなりかねない、と二度目の生命危機を感じて勢いよく振り向く。
「もう大丈夫なのですか?」
改めて聞くと、男性とも女性ともとれない機械的な声。その声の主を真上できらめく太陽がはっきりと照らし出す。灰色のコートを纏った背の高い人物。きらりと日差しを反射するのは水色の髪──ではなく、頭の代わりとばかりに据えられた水色の大きなクリスタル。
「ッ──!?」
「初めまして、アリス」
「……ッアリスって呼ぶな!オレにはちゃんとした名前があんだよ……!」
初対面の存在に、まるで大学の友人の様に愛称で呼ばれ、反射的に言葉を返してしまう──が。
「知っていますよ。貴方の名前は有栖崎卓真」
フルネームで返され、身体がびくりと震える。このゲームの世界に来てから誰にも本名を明かした記憶は無いし、こんなキャラクターは存在しなかった筈だ。先程から何もかも想定外の出来事に見舞われ過ぎて、頭がぎしりと痛む。
「安心してください、ワタシは貴方を攻撃する意志はありません」
くしゃりと謎の存在の真っ黒な手が頭を撫で、一歩後ろへと下がる。そのまま恭しく片膝をつき、そっと自己紹介するかのように片手を胸元に置いた。
「ワタシは貴方の数少ない味方であり、貴方の唯一の帰還地点。ワタシの名前は『セーブポイント』」
『セーブポイント』──その名前を聞いて気付いた。最初にここで目覚めたときに触れたセーブポイントは今は無くなっている事に。そう名乗った存在の頭に乗っている水色のクリスタルは大きさは違えど間違いなくセーブポイントと同じモノだ。
「覚えていますか? 貴方がワタシに触れてセーブをしていたおかげで、貴方は生き返れたのです」
「……してなかったらどうなってたんだ?」
「そのまま貴方は消滅していたかもしれませんね」
真も置かず返って来た答えにぞわりと肌が粟立つ。ゲーム中の癖とはいえ、セーブをこまめにとる事が大事だと身に染みていたことに内心で感謝した。目の前の存在──セーブポイントはフルネームを言い当て、セーブという機能も知っているあたり今この身に起きている現象について説明してくれそうだと思い、問いかける。
「……あいつらがオレを殺そうとした理由、お前はわかるのか?」
かたり、セーブポイントは首を傾げ、「簡単ですよ」と言葉を返す。
「彼らが貴方を攻撃する理由は、貴方が『チート』や『バグ』を使用してこの世界を壊したからです。後ろを見てください、貴方が作った世界があります」
セーブポイントの言葉に不穏な何かを感じ後ろを振り向いた。遠くに見える城ががらがらと音を立てて崩れ落ち、ぼう、と黒い光が天を突くように立ち昇る。
「おい、アレはストーリーのムービーそのまんまの……ッ!?」
驚かそうとするな、アレは筋書き通りだろと反論しようとしたところで言葉を失った。天を突いた黒い光を中央とするように、空が割れ始めたからだ。まるでガラスにひびが入ったかのようにみしみしと空に亀裂が走り、割れた先からはバグッたグラフィックが覗きちかちかと空の色とは思えない光を明滅させている。
本来のゲームの筋書きには存在しない現象だ。ひゅう、頬を撫でるきな臭い風が通り過ぎるや否や、美しい草原は見る間に枯れ果てるどころかざぁざぁとノイズを走らせ、時折地面に文字化けが浮かび上がる。見覚えのあるモザイクまみれの景色は、画面越しに見ていたゲームの世界そのもの。実際に見た世界はこんなに凄まじい姿なのか、と冷静に思う部分とどうにも取り返しのつかないことをしてしまった、と思う部分がぶつかり合う。
ざぁざぁ、ノイズ混じりの葉を揺らす大樹を背に、バグの挙動が一つも無いセーブポイントが両手を広げ、無機質なのに歓迎するように優しい声音で告げた。
「ようこそ、逸脱者」