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逃げたい、逃げられない。民衆で溢れ返った大聖堂は入口をがっちりと塞いでいる。押し退けて逃げようとすれば囲まれて一瞬で身体は引き裂かれるだろう。明らかな殺意をこちらに向けてくるレリアを避けて、大聖堂の奥の方へと走る。ぼたぼたと落ちる血が足跡の様に床に残るが、そんなことを気にしてなどいられない。
地面もちかちかと点滅し、時折テレビの砂嵐の様にざあざあと揺らめく。正しくバグの世界を駆けて非常口の一つでもないかと思ったが、そんなものがゲームの世界に存在する訳も無く。大聖堂の奥、袋小路。振り返ればゾンビの群れの様にずり、ずりと近寄って来るレリアと民主達に、ひゅぅと息を呑んだ。
──殺される!
ずきずきと痛む腕と脇腹を押さえて後退りすれば、とん、と背が冷たいものにぶつかる。大聖堂の柱だ。これ以上下がれない、と表情を歪める。どうしてこうなった、これからどうすれば、と思った瞬間がくりと姿勢が崩れる。
「っ、は──!?」
背後は石壁、こんなことは本来起こらない。バグで壁が消失したのかと思ったが、おそらくこれは壁にめり込んだのだろう。よく多用したすり抜けバグを、こんな形で経験するとは思わなかった。
思わず手を伸ばしたが掴む物も無く、身体は下へと落ちていき……ふいにがくりと落下が止まった。逆さの状態で、右足の膝から下が壁にめり込んだ状態で宙吊りにされる。思わず見やれば、右足は点滅する部分に埋まっていた。落ちれば落下死、落ちずとも永遠の宙吊り、元の場所に戻ればNPCとレリアに引き裂かれる。どう転んでも最悪の状況の中、突然右足に痛みが走る。
「あ、ぎあ”ッ!?」
焼けるように足が痛い。何が起きたのかわからず、再び始まった落下に身を委ねるしかなく。数秒の浮遊感の後に硬質的な床に叩きつけられ肺の中の息が全て吐き出される。呼吸を取り戻し、自身の右足を確認すれば、膝から下が消滅していて。
「はッ?」
ごと、と目の前に遅れて落ちてきたのは、膝から下の右足。どろりと溢れ出た血を見て、改めて痛みを自覚する。
「っな、あ、……あ”あ”あぁぁぁぁあぁぁ!?」
恐らく先程壁をすり抜けたように、バグったグラフィックに足がハマったのだ。そしてそのグラフィックがバグによって消滅もしくはズレを起こして、足を巻き込んだ。まるで光によって切断されたかのように綺麗な断面が、薄暗闇に僅かに差し込む光を反射しててらてらと光っていた。震える手で右膝を押さえ、ひゅうひゅうと息を吐く。押さえても止まらない血が手を赤黒く汚していく。
必死に身体を丸めて止血を試みているうちに、今現在蹲っていた場所もバグによって出来ていた床だったのか、再び身体が落下を始める。身体のどこも隙間に挟まないように、必死に身体を縮こまらせて落下に身を委ねた。
数秒程経過して、身体が床に叩きつけられる。凹凸のある、ゆっくりと僅かに動いている床。硬質的な質感と触れた部分から伝わる冷たさから、今いる場所が大きな歯車の上だという事に気付く。
「……?」
王城内に歯車?と頭の中に疑問符が浮かぶが、そういえば後々ダンジョンとして臨むこの王城内には時計塔フロアがあった、と思い出す。精霊の力に頼らない時計塔は沢山の歯車によって時を鳴らす。恐らくその歯車のどこかしらに落ちたのだろう。
歯車に身を任せれ入れば時計塔フロアの最下層までは降りられるだろう、とゆっくり流されていれば、身体が傾いて滑り落ちる。一瞬驚いて手を伸ばしてしまい、別の歯車のグラフィックに手がハマってしまう。
「っしまった!」
無駄に動いて良い事は無いというのにどうしてやってしまったのか、と後悔するももう遅い。回る歯車に合わせてゆっくりと下っていく身体は宙ぶらりんで、まるで動く射的の的の様だ。
そっと下を見ればまだ沢山の歯車があるが、落ちて遥か下の方へと叩きつけられれば堪ったものではない、と必死にハマった左手を引き抜こうともがく。身体丸ごと落ちたときの様に何事も無く抜けてくれればいいのだが、現実はそううまくいくはずもなく。
「い”、ぎッ」
ぶ、ちり。グラフィックが揺らぎ、ドット単位のズレが発生すれば、腕は容易く接続を失い、ごろりと落ちる。溢れ出た血が染みて服はもう見る影もない。グラフィックに切断された左腕と共に、下方へと身体は落ちる。下方にあった大きな歯車に再び身体を叩きつけられ、激痛に息を吐いた。残った身体を支えることが精一杯で、切られた右足と左腕はボールの様に跳ねて下の方へと消えていった。
どうしてこんな目に遭っているのだろう。ごと、ごととゆっくり音を立てながら回る歯車に身を任せ、ぼうと思考に頭を傾ける。何も悪い事をしたつもりはない、ただ楽しくゲームで遊んでいただけで。チートやバグが間違った遊び方だったとしても、今の自分自身にとっては楽しくする工夫の一つに過ぎなくて。
──オレは『主人公』の筈なのに……
左手と右足を失って今も出血が止まらないからか、少しずつ視界がぼうと霞んできた。このまま死んでしまうのだろうか、などと思っていれば、この歯車が回る先に別の歯車が見えてくる。妙に近いな、と一瞬思ったが、この二つの歯車は噛みあっていて。流される先は、歯車がかみ合う場所──ほぼ隙間なく、歯が重なる場所。あの部分に流されればどうなるかなど一瞬で予想出来てしまい、霞んだ眼を見開いた。
「ッッい、やだ、嫌だ……!!」
ずり、ずりと這いずって逃げようとするが足も手も足りず、歯車の回る勢いに相殺されるどころか負けていき、着々と身体は噛みあいの場所へと向かっていく。ぴたりと噛みあう精巧な歯車に巻き込まれればグラフィックに身体を切断される事よりも落下死する事よりもレリア達に切り裂かれる事よりも惨い痛みを負うに違いない。
横に落ちれば落下死で済む、と気付く前にぎぢ、と左足が歯車に噛まれた。足の指先からぶちりと潰され、爪が指に食い込んで、骨すらも粉々になる感触。挟み込まれた異物も介せず歯車は動き続け、押し込まれて圧迫された足首から血がぷしゃりと吹き出た。ごぎりと骨が砕かれ、皮膚から突き出る。切断されるのとは違い、ゆっくりと潰されていく為にその痛みは一瞬ではなく延々だ。少しずつ歯車は食事を進めて足を飲み込み、ついぞその歯は腹部へと到達した。
圧迫される内臓、肋骨と背骨が折られる感触。意識が此処まで保たれている事がとても恐ろしい。歯車に喰われて押し上げられた血がごぼごぼと口から零れ出た。
「か、ひゅっ、あ”、ぁ”ッ」
潰されている間ずっと叫び続けていたからか、声は掠れていて。もう意味を為さない呼吸と激しく揺れる心拍がまだ自身は生きているのだと教えてくる。痛覚も少しずつ失せて薄らいでくる意識に妙に安心してしまうのは何故なのだろうか。
身体を半分以上飲み込んだ歯車が少しずつ視界を埋め尽くしてきて、意識を完全に失う直前、こつりと頭が噛みあいの歯車へとぶつかった。冷たい歯車に抱擁されて、意識も視界も赤くて黒い世界へと連れていかれる。潰える意識の端でごぉん、と時計塔の鐘が時を告げた。