第百二十九話 上洛②
東海道中 阿曽沼孫四郎
沼津を発って四日、遂に遠江は遠淡海、浜名湖畔に到達する。
「これが遠淡海……」
「うむ。この遠淡海がある故、この地が遠江と呼ばれるようになったのだ」
大宮様が遠江の由来を説明してくれる。地震以前は陸地がもっと湖に伸びていたようだが、先年の地震で弁天島の周囲が沈んでしまい多くの犠牲者が出たという。それもだいぶ落ち着いたようだがまだまだ地震の爪痕が深く残っているようで、崩れた家がそのまま残されている。
「この辺りの者らはあらかた大波に飲まれたようだ。生き残ったものも、波の影響で田が使えなくなり苦しんでおるようだ」
三喜殿が近くの村のものから話を聞いてくる。東日本大震災でも津波被害にあった田んぼは塩害が出たというし、この時代では自然と土壌の塩分が流れてしまうまで待つしか無いか。さつまいもでもあればこんな土地でも利用できるんだけどな。
「遠淡海も海水が入ったせいで魚が死んでしまい、夏になると腐臭がそれはひどかったそうだ」
もともと淡水湖だったところに海水が入ったので死んだ魚が浜に打ち上げられたらしい。衛生状況も劣悪となり一時期は人がほとんどいなくなったとか。この今切という地の割れたところは渡しが必要になったため生き残った者らが渡し船を始めて、生計を立てることができているようだ。
「そなたらも大変だったのだな」
「海の神様がずいぶんとご立腹だったようで、俺も危うく死にかけました」
この渡し船の主は大波に飲まれそうになったが、運良く木に引っかかって一命をとりとめたらしい。
「そなたはなかなかの強運の持ち主のようだな」
「強運なんでしょうかねぇ……」
残された者特有の一抹の寂寥感を船頭から感じる。
「部外者がこういうのも何だが、生きてこそだ」
「お心遣い痛み入ります」
船頭に別れを告げ再び徒歩になる。
「このあたりはそろそろ三河か」
いま三河守護はおらぬと言う。かつては一色氏や細川氏が争っていたが、文明10年に細川成之が三河守護職を放棄。以後は国人領主が群雄割拠している状況という。今三河で最も有力なのは吉良家。後に有名になる松平家はまだこの時代は吉良家に服従している一国人領主だそうだ。
しかも居城は岡崎では無く安祥城だという。いや知らなかったな。ずっと岡崎だと思っていた。家康が現れる前になんとか処置しなくてはな。三河の歴史なんて全然知らないからどうなるかもわからない。帰ったら雪に相談してみるか。知っていたらいいな。
◇
熱田神宮を抜け、葛屋が世話になったという美濃の寺に着く。
「これはこれは葛屋殿。息災そうじゃな。してそちらの方々は?」
大宮様から順繰りに挨拶していく。
「それはそれは官務家様がいらっしゃるとは。これで周りの寺に自慢できるわい」
住職が上の間に案内してくれる。
「おおそうだ、世話になるのに礼も無いのはいかんな。清之、昆布は余裕あるか?」
「問題ありませぬ」
そう言いつつ幕府への献上分から幾分昆布を引き抜き、布施とすると住職は随分と喜んでくれた。糧飯に大根の味噌がけに菜の花のおひたしが出てくる。寺らしく肉も魚もない。大宮様は疲れていたのか早々に床につき、すでに寝息を立てている。
「葛屋が世話になったようだな」
「いえいえ、滅相もございません」
「ところで随分と小坊主が多いようだが」
「はっ。このあたりは度々戦があり、孤児が多くいます故、預かっておるのです」
「ふむ。見上げた寺だな。そういえば以前葛屋が子供をいくらか連れてきたことがあったが」
「あれは孤児が多すぎたので、葛屋殿にお願いして引き取ってもらったのです」
「ふむふむ。なるほどな」
つまりここで仕入れた子供を遠野に連れてきていたわけか。
「また帰りにもよります故、その際には抱えきれない孤児は当家が連れて帰りましょう。孤児をお守りになる住職の心意気に感服申し上げます」
近場から買うよりは逃亡を防げるだろう。住職は当家からの布施を定期的にもらえてホクホクになるし、孤児たちも当家に来れば飯を食えるし、俺たちも裏切りにくい人材を獲得できて三方良しと言うやつだ。まあ住職が変わったらしまいかもだがな。
◇
この観音寺城が面する大中湖から堅田までの渡しが出ているそうなので、宿を取って船便を待つ。
「おおそうだ、そなたらは鮓というものをしっておるかの?」
「寿司、ですか?」
「うむ。鮓だ」
琵琶湖って寿司で有名だっけ?大宮様がいたずらっぽく笑いながら宿の主人に話しかけると、強烈な匂いがやってくる。
「うっ……」
「これはなかなか」
「匂いがきついですな」
俺も清之も守儀叔父上も思わずうなる。そうか、鮒ずしか。すっかり忘れていた。一方で三喜殿は涼しい顔をしている。
「これがなかなかに美味いものでな。ほれ皆もくうてみよ」
大宮様に促され箸をつける。
「うっ塩辛くて酸っぱい」
「口の中にえもいえぬ匂いがしますな」
「ほぉ、この鮓は匂いが軽めだの」
大宮様が喜んで喰っている。いや塩辛くてあまり食えぬのだが、慣れると美味いのだろうか。
「これは滋味に富んでおりますな」
三喜殿がひとくち食べて感想を述べる。
「そうであろ?この深い味わいがわかるとは、三喜殿はさすが大人でおじゃるな」
匂いに慣れないような清之や叔父上も酒の肴にすると箸が進んだそうですっかり皆寝落ちしている。
いやしかしすっかり寿司という食い物を忘れていたわけだが、いわゆる江戸前寿司のような寿司は保存加工できるようにならなければ無理なので保存技術が改良されるまではなかなか難しかったんだっけ。江戸前もいいけど押し寿司も美味いよなと思っていたら、久しぶりにバッテラが食いたくなってきた。三陸沖でも鯖はとれたはずなので帰ったら作りたいな。
◇
翌朝琵琶湖を渡る船で堅田から上陸し、南に進む。
堅田から少し南に行ったところに雄琴温泉がある。前世ではまあ色街の側面もあったが、元は伝教大師が見つけたとされる由緒ある温泉街だ。使ったことは無いけどな。京都市が特殊浴場を追い出したためにここに落ち延びてきたのがその歴史だったはずだ。そう思うとなんというか、まあいろいろ思うところはある。今はただの田舎の景色だが。
坂本まで来るとおびただしい数の寺が生えている。まさに生えているというような数の寺社である。きらびやかな袈裟に身を包んだ娼妓とおぼしき若い女や酒樽を載せた荷車が寺に入っていったり、かと思えば僧兵とおぼしき柄の悪い輩が寺門からでてくるので目を合わさぬよう足早に通り抜ける。
少し進むと圓城寺と思われる場所に来る。こちらもおびただしい数の寺が生えている。その中でも大きな、ただ焼け焦げた寺が見える。
「ここの寺は火事でもあったのか?」
大宮様が疑問に答えてくれる。
「ここ圓城寺は別称を三井寺という。比叡山と度々抗争しておってな、直しては燃やされるということを繰り返しておる」
これまでに十回ほどは焼き討ちされているそうだ。これで延暦寺をもやしたら仏罰云々言っていたのだというのだから呆れてしまう。
「ところで比叡山はこの寺を燃やして仏罰は落ちておらぬのですか?」
「明応八年(1499年)に管領(細川政元)によってことごとく焼き討ちされておるのお。仏罰かどうかはわからぬがな」
一応罰は受けているのか。しかし宗教抗争は困ったものだな。僧兵などの物理的手段に出ないのなら好きにしてくれたら良いが、こうも焼き討ちを頻回にするようでは宗教に求められる、心の平安も得られぬではないか。一向一揆も宗教勢力によるものだし、なんとかしなければな。阿曽沼領内では天台宗と一向宗は禁止にしたほうが良いかもしれないね。