第百十話 数学書
遠野先端技術研究所
「こちらは?」
「これは明の数学書だ」
「先日仰っておられたものですか?」
「まあ俺が注文する前に葛屋がもってきてくれたんだが」
そう言っておのおの数学書を読む。当然だがすべて漢語になっている。
「申し訳ございません。若様、私には読めません」
小菊が紙をめくってうなだれる。教養として漢語を学ぶ俺たち以外の庶民には全く読めない代物のようだ。
「まずは訳するところからだな」
「なかなか大変そうですな。ちなみに私も読めません」
水野工部大輔弥太郎も漢語は読めないようである。
「しょうが無い、暇を持て余している公家を連れてきて訳させるか」
しばらくして幾人かの地下人を連れてきたわけだが。
「なに?算道の書を訳せだと?」
「そんな鬼道しとうないわ」
「われらは帝の臣であって、阿曽沼の家来ではおじゃらん!」
地下人共は鬼道など触れたくも無いと一点張りで全く使い物になりそうにも無いかと思ったが。
「ふむ算道か、面白そうじゃのう」
「お、大宮はん?」
いちおう地下人の中では最も位の高い両局である大宮様を呼びつけるなんてしてないけど、暇だったので散歩していたところ地下人共が入っていくのが見えたので来たという。
「職位としてかつて算博士を頂きましたが、算道を扱ってたわけやあらしまへん。都では呪術のように扱われておりゃれましたが、童殿は算道をどう扱うおつもりで?」
呪術として扱う気は一切無い。というか算術でどうやって人を操るのかというのは未来の知識があるから言えることだ。
「どう扱う、と申しましても測量や船の運航などに使うものです」
「はて?」
「陸奥、とくに当家のような小さな家では他と同じ事をしても飲み込まれかねません。ですので広く学問を学ばせることによって、効率を上げるのです」
「広く、ということは民草にも学ばせると言うことかや?」
「もちろんです」
むしろこれから行う高度な技術は学問なしに扱うのが難しい。最低限の読み書きはもちろん、可能ならより高等な学問ができるようになって貰わねばならん。それに学問してみれば意外と能力を発揮するものも出てくるかもしれん。
「ふむふむそれはよい。算道も広く学ばせるのかや?」
「学問の要は算術でございます故」
周りの地下人は莫迦にしたように嗤う。
「ほぅ。都で学問と言えば有職故実あるいは漢語でおじゃるが、そなたは違うと申すか」
「はっ。それらも大事な学である事は間違いございませぬが、これからの世、日ノ本だけで無く外つ国とやり合うには算術の発展が必要でございます。故に某はここから始まる算術を数学と呼ぶことにしております」
相変わらず他の地下人共が小馬鹿にしたような顔をするが、大宮様ににらまれて押し黙る。
「ほぅ、そなたは日ノ本だけでなく外つ国にも覇を唱えようと言うのかや?」
「外つ国に覇を唱えようと言うわけではございませんが、元寇という前例がございます故、外つ国と戦えるよう備える必要はあると考えております」
「そのために算道……いや数学が必要と申すか。」
大宮殿が笏を口に当てて考え込む。いや葛藤としていると言った方が良さそうな顔になる。
「のう童殿、そなたの考える世では帝のご威光は日ノ本に輝くのかや?」
「無論にございます。日ノ本、いや外つ国にも帝のご威光を見せつけてみせまする」
「ほほほ、それは楽しみですなぁ。この大宮算博士、役職名に恥じぬ働きをしたろ。そこな娘、そなたはあての算生として算……いや数学を究めるぞえ」
小菊は官務家からの言葉にすっかり萎縮してしまっているが、これで数学が進展するのかな?
とりあえず他の地下人共は漢語や簡単な読み書き教員として必要なので残しているが、正直武家になった五辻殿や大宮様以外は必要ないかも知れない。まあ何かあれば上方への使いになって貰おう。