【番外】ドラッグ・レース・クイーン 其の四
高速でレーンを駆け上がると、藍色の夜空が広がった。
このスロープは43号線の側道だ。本線に乗れば兵庫県に向かうが、今夜の目的地はそこではない。側道のまま駆け下り、此花通りを左折した先の廃スタンドである。
束の間の高速線を飛ばす間も、烏京は油断なく周囲に目を飛ばす。
前方後方に車影なし。右隣りの本線では、悠然と大型トラックが流れていく。パトライトを気にする様子もなく、深海の鯨さながらの凄みがある。
「──何が可笑しい?」
烏京が問うたのは、後部席の洋に対してだ。無言だが、あきらかに揶揄の気配がある。
「いやあ……案外楽しんでると思ってな」
「──何の話だ?」
「『任せろォ!!』とか言ってた辺りだよ」
「言ってない」
「そりゃあ無理あるぜ、烏京の旦那。
まぁ気持ちはわかる。三人連携のピンチ突破だ。
男なら燃える展開だよな」
「──いかにも豚らしい勘違いだ。
そもそも、この俺が──」
烏京の弁明を止めたのは、下りに入ったスロープ前方の状況だった。
此花通りと交わる交差点は、先刻の「梅香」と異なり、ごく小規模である。
車線は三列。信号は赤。停車する車は二台。しかし中央と右折レーンに並び、空いているのは左折専用レーンのみだ。
進路は左なので普通なら問題ないが、現行速度は普通ではない。ドリフトするにも一車線は狭すぎ、通過後では遅すぎる。左横は防風壁、左前方は分離帯に阻まれ、歩道も対向車線も使えない。
とはいえ、これは危機的状況ではない。
交差点までの距離は十分にある。減速して曲がれば済む話だ。時間ロスはあるが、ここまでに縮めた時間は、それを補い余りある。普段の烏京ならば、そう進言しただろう。
それを躊躇ったのは、何故なのか。
「任しとけ」
戸惑う烏京に代わり、動いたのは洋である。
車内を左に寄り、窓から顔を出す。暴風に目を細めながら、さらに上半身を引っ張り出す。窓枠にみっちり腹肉が詰まる様は、ミンチマシーンさながらである。
振り上げた右手が握るのは《鮫貝》だ。愛用の戦闘用巻尺は、一振りで風を切り、斜め前方に白線を投じた。
「──《鱓》」
交差点の傍らに立つ街灯を狙ったのは烏京と同じ。だが目的は違った。《鮫貝》の薄手の刃が踊り、瞬時に街灯に絡みつく。
カキリ。洋の掌中で《鮫貝》のロックが下りた刹那、パトカーは左折レーンに殺到した。
──その手があったか。
投術を極めた《松羽流》の真髄は、《神眼》と直感的な軌道予測にある。投擲のさなかでも敵は動き、反応する。先読みなしに対人投撃は成立しない。
この状況、「減速なしでは曲がれず」という《松羽流》の計算は正しい。けれどこの二人は、神技と閃きでそれを超えてくる。それに高揚する自分がいる。
絡んだ白線に身を削られ、街灯が呻吟した。
車と街灯を繋ぐ、万力のような洋の腕。
洋が作り出したのは巨大なコンパスだった。回転をかけた運転が、最小径の左折を可能にする。
精確な四半円を描いて、パトカーは交差点を走り抜けた。
直後、絡みついた《鮫貝》が千切れ飛ぶ。凧のように細い尻尾を躍らせながら、車は「此花通り」を走り始めた。
大阪湾に面し、淀川と安治川に挟まれた此花区は、深い眠りの底にある。灰色の工場地帯と集合住宅を背景に、吹き飛ぶ風は蒼灰色。街は無人で、道を照らすはコンビニばかり。街にコンビニしかない錯覚を覚えるほどだ。
明滅する信号が変わる前に追いつき、踏破しながら、パトカーはまっすぐに廃スタンドに向かう。
「──流石に切れたか」
「《鮫貝》の話か?
ありゃあ切れたんじゃない。切ったんだ。
畔の話じゃ、2tくらいは耐えれるらしいがな」
「貴様の意思で切った──だと?」
「簡単には切れねえさ。コツがある。
《鮫貝》の刃は、好きな箇所で自切できるんだ。
《鮫》の一文字は、そこから来てる」
鮫の歯は何度でも生え替わる。それと同じく、カッターのように刃を使い捨てられることが、《鮫貝》の名の由来らしい。
「──鮫というより蜥蜴だな」
「まあ、そうかもな」
「それはそうと──」
窓の外に目をやり、改めて烏京が問うた。
「──貴様、何時までそうするつもりだ?」
「……廃スタンドに着くまで、かな」
窓の外で洋が応えた。下半身を車内に残したまま。
「いや、抜けるとは思うんだぜ?
中に戻るのが無理そうってだけでな。
外に出る分には今すぐにでも……って、おい!
何、笑ってやがる!」
「フ……クク……ハハハハ!
──これが笑わずにいられるか……っ!」
らしからぬ烏京の大笑が、強風に千切れ飛ぶ。蓮葉の冷やかな視線を背に受けて、なお止まらない。
いつしか、洋も笑っていた。
疾走するパトカーの後に、二人の笑いが揃ってこだました。
最後のS字カーブを抜けると、残すは淀川沿いの直線コースである。
この茫漠の一本道には、人も車も信号も存在しない。左は広大な工業用地、右は淀川河川敷に挟まれた殺風景は、この時刻、人類滅亡の錯覚すら伴う。余所者なら怖気付くところだが、洋には住み慣れたホームタウンである。
「家についたら、おまえが取りに行け」
「うん」
「《耳袋》に電話するから、音を探せ。
行く前に着替えた服のどれかのはずだ」
「──待て。それなら俺が行く方が早い。
その間に、畔が車を出す準備をすれば──」
「馬鹿言え。蓮葉の服を触らせるかよ」
──だからこそ、の油断だった。
見晴らしよく、見慣れた、無人の直線道。だからこそ。
不意に前方に光が差した。左から照らすその光が、ゆっくりと道路をなぞり横断する。後続する長大な車体が、対向含む全車線を塞いでいく。
それがトレーラーだと気付いた時には、すでに手遅れだった。
相手に過失はない。先に曲がり切るに十分なほど距離は離れていた。無理でも停車するだろう。何も間違ってはいない──そう、相手が時速140km超えでなければ。
逆に三人には不意打ちだった。ここは工場裏の開かずの門だ。一体どんな緊急事案なのか。
衝突事故が起こるのは、見通しの悪い場所ばかりではない。見通しのよさが事故を招くこともあり、往々にして深刻度が高い。
烏京の軌道予測は、トレーラーを認識直後に完了していた。
ブレーキは間に合わない。
正面に隙間なし。左は高い鉄柵。
右の河川敷には一車線ほどの平面があり、その先に土手の傾斜が登る。ともに雑草が生い茂る地面だが、この速度で突っ込むのは自殺行為だ。凹凸を拾えば車が前転する。それ以前に、タイヤでは超え難い高さの縁石が続く。
三方に逃げ場なし。わかりやすく「詰み」だ。
残るは緊急離脱。
パトカーから飛び降り、受け身を取る。常人なら即死だが、烏京なら一命を取り留められる。
しかし烏京は、その選択肢を真っ先に排除した。
このチームに付き合う方が、生存確率は高い──そして面白い。
迫り来る「死」から目を逸らさず、烏京は《神眼》を発動した。
「──畔、あれだ!」
烏京が示したのはトレーラーの手前、右の土手に置かれた地味なオブジェだ。何かの墓らしく、そこだけ縁石が削られている。
同時に、蓮葉がハンドルを回した。車が右に寄り、対向車線を逆走する。
正面には牽引車の運転席。眩いライトが道を照らしている。タイヤは最大限左を向いているが、道路の右端はまだトレーラーの肩に塞がれたままだ。
「トレーラーを掠めて飛べ! 後はオレが何とかする!」
逆風を張り飛ばす、洋の声。
まさか縁石を足掛かりに、トレーラーの右横へ車を飛ばせというのか。
逡巡が烏京を襲った。自身は、墓前から土手に乗り上げるつもりだったのだ。こちらも博打だが、洋の要求は自殺教唆に近い。トレーラーを掠める理由も謎だ。
そもそもがこの状況で、まともに車が跳ぶものか。
削られているとはいえ、残った縁石は滑らかではなく、ほぼ石段だ。衝撃は計りしれず、「跳ぶ」より「吹っ飛ぶ」確率が高い。無論、トレーラーを超えることや、綺麗な跳躍は望めない。
この難関を超えるには、衝撃の吸収と反発、そしてバランス制御が必要だ。例えば、洋の使った運転補助のような。
その凄腕の使い手は、窓枠に嵌った間抜けな姿で、烏京に親指を立てる。
「頼んだぜ、烏京」
「──無茶振りしやがる」
ぶっつけ本番で、あの技を盗めというのか。
業腹だが、今はやるしかない。
烏京は腰を浮かせ、肩を天井に当てた。両手で車内を掴み、両足を開いて構える。洋の見様見真似だが、何故か強い既視感がある。
直前、ハンドルを右に切る蓮葉を一瞥し、烏京は声なき声を発した。
《雌虎》はシートに座っていない。わずかな隙間を空け、中腰のまま運転していたのだ。おそらくは最初から──兄の補助に合わせて。
「行くぞっ……烏京、蓮葉!」
轟音とともに、パトカーが宙を舞った。
そうか──これは《武器の身体化》だ。
コマ送りで流れる時間の中、烏京は改めて自答する。
武芸者にとって、武器とは手足の延長である。得物の先端まで神経を張り巡らせ、重心を我がものとして、初めて操作自在となる。これを《身体化》と呼ぶ。
腰を浮かす蓮葉の姿が、土壇場で烏京に気付きをもたらした。
車を乗り物ではなく、武器と捉える。今しも放たれるこの車が礫なら、《投げを極めた》この烏京に御せないわけがない。
踏切の寸前、全力で加圧し、発条を生かして車体を跳ね上げる。縁石を踏めるのは右タイヤだけだ。当然発生する車体の傾きを相殺するとともに、蓮葉と協調して重心操作し、車体の均衡を保つ。
限界寸前の運転につきあわされたせいで、すでにこの車の癖は把握している。蓮葉が無言で合わせてくるのも伝わる。離陸の衝撃を完全に殺す技の冴え。技は蓮葉に、力は洋に劣る烏京だが、後れを取るつもりはない。
パトカーは見事に飛翔した。
巧みに水平を維持したまま、針路を右斜め前に、三メートル近い高さを滑空する。呆然とする運転手を間横に眺め、トレーラーの肩を掠める角度だ。このまま飛べば、土手に突き刺さる。が、
「──《海蛍》」
洋の手が伸び、張り出したトレーラーの角触れた。時速100km超えの接触にも関わらず、恐るべき柔軟さで衝突をこらえ、限界寸前で旋転、身を躱す。
──下半身で繋がった、パトカーもろとも。
助手席の烏京に洋を見る余裕はない。けれど、何が起こったかはわかった。宙でハンドルを切ったように、パトカーが向きを変えたからだ。左へ、トレーラーの背後へと。
これも《身体化》──いや、《一体化》か。
怪我の功名ではあるが、烏京を絶句させたのは洋の成長速度の方だ。
《海蛍》を名乗っていたが、これほ烏京の知るそれではない。地面を支点に体幹と反射で攻撃を躱す《海蛍》に対し、接触点を支点に衝撃を受け止め、回避に逆利用している。さもなくば、空飛ぶ車を動かすなど有り得ない。
ともに卓越した体幹と《仙骨エンジン》が前提だが、原理で言えば正反対。前者を《海蛍》の表とするなら、こちらは裏だ。
──この期に及んで、新技を編み出すとは。
流石は魚々島、という言葉を胸に秘めながら、烏京は落下の衝撃に備える。
軌道を変えたパトカーは、空中でトレーラーを迂回し、その背後に着地した。「此花通り」のアスファルトを数回跳ねた後、元の速度を取り戻す。男二人が詰めた息を吐く。
見上げれば、淀川を越える五号湾岸線の威容。
オレンジの灯に彩られたゴールゲートを、三人はようやく潜り抜けた。




