老老男女
気持ちを伝えないと後悔する。
あなたの思いをあなたの声で伝えてあげないと。
その店は奇妙な店だった。
いつもの病院からの帰り道に見覚えの無い店、かといって新しい店ではなく昔からそこにあるような、店には「狐火鉢」と彫られた木の看板がありおおよそ何の店かは想像出来なかった。
こんな所に店などあったかな?
そう思いながら歩みを緩めると店の戸が開く。
開いた戸から美味しそうな珈琲の香りと共に女が出てきた。
女は私に「いらっしゃいませ」と声をかけたが私は客では無い。
客では無いはずなのだが、妙にその時は喉が渇いた。珈琲など飲む習慣など無かったはずなのに、その店から漏れ出す珈琲の香りに喉が反応する。
私はその女に連れられ店の中に入る。
外観の大きさに反しカウンターしかない小さな店だった。奥は住まいとして使っているのだろうか?。
店の中には私と女以外はカウンターの中にいる若い男だけだった。
この女が店主なのだろうか?
女は非常に美しく気品があった。
男はまだ10代に見える為、おそらくバイトなのだろう。
私は喉の渇きを潤す為、出された水を一口飲んだが喉の渇きは治まらなかった。
私は珈琲を注文した。外の寒さに喉が麻痺しているのではないかと思い珈琲を注文したのだ。
女は珈琲を焙煎している間も、私の喉の渇きはコップの水を飲み干しても潤う事は無かった。
珈琲が出てきた。
湯気が立ち、その湯気からはあの戸から漏れ出てきた香りの何倍もの濃い香りがした。
珈琲を一口飲む。
喉の渇きが潤うのが分かる。
やはり寒さで私の喉はおかしくなっていたらしい。
喉の渇きが潤い、私の体も暖まってきた。
しかし妙に落ち着く店だった。初めて入った店だというのにまるで何度も通っていたような気がする。
また来ようと思う。今日は良い店を発見した。
私が店を出ると辺りはすっかり暗くなっていた。
冬の日暮れは早いものだ。妻が心配するから早く帰らなくては。普段飲まない珈琲など飲んでいたなどと言ったら妻はまた私の体を心配するだろうから黙っておこう。
妻は心配性なのだ。
「あのお客さん、人ですよね?」
「ええ。人だったね。死の近い人はたまに紛れ込んでしまう。こっちの世界との境界が曖昧になってしまうんだろうね。まぁ君は特別だがね。」
「じゃあ、あの人はもうすぐって事ですか?」
「そうだね。こちらの世界へ紛れ込むくらいだからね。死というものは産まれた時に決定している逃れる事のできない定めだ。それが事故であれ、病気であれ自然の摂理だ。
唯一人間がそれに歯向かう方法は自殺だけだ。
だが彼は自殺では無いだろう、ここまでこちらの世界へ近いのだからね。
さあ今日はもう店仕舞いだよ。私はやる事ができたからね。
店主はそういうと店仕舞いを始めた。
家へ着くと妻が作る夕飯の匂いが漂ってきた。今日は私の鉱物の魚の煮つけのようだ。
最近は私の体を気遣ってあまり作ってくれなくなっていたが、今日はとてもいい日だ。
おかえりと妻の声と同時に妻が心配そうな顔で私を見つめてきた。
病院へは毎週通わされているがそんなに心配しなくても私はまだまだ元気だ。
自分の体は自分が1番よくわかっている。
今日の夕飯は豪勢だった。私の好きなものばかりがでてくる。
妻に聞いてみたがたまにはねと微笑みを返してくる。
私は妻と結婚してよかった。子供には恵まれなかったし色々な事があったが本当によかった。
「ありがとう」
自然にでた言葉だった。普段言わない感謝の言葉に妻はびっくりした顔をしているがすぐにまた微笑み返した。
ソファーで寝ていた妻が目を覚ます。
「うたた寝していたみたい。あの人遅いわね。それにしても今の夢・・・
うふふ。あの人がありがとうだって。」
玄関のドアを開け夫の帰りを確認しようとすると玄関の外には倒れている夫の姿があった。
あわてて救急車を呼び夫へ声をかけるが夫からの返答はない。
どういう事だ?私は死んだのか?
なぜ玄関で、私は妻と食事をしていたはずだが・・・。
玄関前で倒れている自分の姿をみて立ち尽くす男がいた。
「すみません。最後に見ていた食事は私が見せた幻です。」
ふいに女が声をかける。
「あなたは、あの喫茶店の。」
「はい。楓と申します。お迎えにあがりました。
あなたはあそこで倒れられてしまったようで。しかしまだ少しだけ寿命はあるようでしたので
出会ったのも何かの縁であると思いまして、せめて奥様と最後の食事をと思い少しだけ
お二人の夢へ入らせて頂きました。」
「そうか。死んだのか。妻には申し訳ない事をしたな。最後にお礼くらいいいたかったな。」
「きっと届いていますよ。では行きましょう。案内致します。」
男は女に連れられていった。