5月2日(水) 晴れ
昨日、リュウの過去を見せてもらって、妙に気マズイ思いをしておりましたですます。
いや、普通にミニ世界の現地人の一人としてお話できて楽しいなーとか生ぬるいこと考えてただけだったから。まさかあんな暗い過去があったなんて知らなかったし……。
そう思って今日は珍しく、すぐにガラスケースに飛びつかなかった。しばらくの間スレイプニルの世話に没頭していた。
落ち着いてきたからだろうか、スレイプニルは結構大人しい性格だとわかった。餌のダイコンもどきもよーけ食べるわー。
まあ、確かに最初は何度もケースをひっくり返して住居を整えていたから、ドタバタしてたのもあるしね。冷静に考えると警戒されて当然だったのだろう。
というわけで今日はスレイプニル専用の歯ブラシ(毛先柔らかめ)でブラッシングしてあげつつ、初めて人差し指の先端で背中をナデナデすることに成功しました。結構嬉しかったです。
晩御飯を食べて一休みして、いざ、ガラスケースの元へと向かう。
サクラ街の変化はそれほどなかった。街の大きさってのは限界というのがあるのだろう。アリの巣も固体ごとにだいたい限界がある。
ただ、住人の数は微増しているそうだった。現在は人の出入りが激しくて正確な人数は把握していない模様。リュウの子の影響か、ベビーブームも起こっているそうだ。
今日はリュウと赤ちゃんとエルバードさん。サクラ街の報告はそこそこに、今日は遊ばせてほしいとのお願いをされた。どうぞどうぞ、と場所を提供する。
なんと、赤ん坊はすでにハイハイを会得していた。しかもかなりハイレベルで。
地面が透明の二重蓋を興味深そうに眺めながら、色んな場所に一人でえっちらおっちら這いまわっていた。
おー、昨日は完全にリュウの腕の中だったのに、良く動くねぇ。
「はい、この前人神様にお会いした少し後くらいからハイハイができるようになったんです。もうそろそろ捕まり立ちができるといいんですけど……」
リュウは完全に母親の目線で赤ん坊のことを見ていた。穏やかな雰囲気に母性が溢れていて、思わずちょっと変な気持ちになったのは秘密です。
エルバードさんと遊んでいる赤ん坊を二人で眺めていた。
ルーペで拡大して見ると、なんというか、赤ん坊は可愛いなぁと素直に思えた。昨日と一昨日はまだ小さすぎて(物理的な意味でも)よくわからなかったが、ふっくらとした顔がまあ可愛いこと可愛いこと。
お父さんのことだけを見て一生懸命這いずっている赤ん坊にチョッカイを出してみたくなったが、我慢した。さすがにミニ人間たちに慣れてきたからうっかり潰しちゃうことはないけれど、相手は赤ん坊だ、うっかり転ばせて大怪我させる、くらいはやらかしかねない。
ふん、いいんだもん。僕にはスレイプニルがいるから……と思考したところでリュウから驚いた声色で質問された。
「え、まだ馬が生きているんですか? もう結構前に捧げたと思ったんですが……」
それを聞いて僕の方がビックリした。え、馬ってそんなすぐ死んじゃうの?
「いえ、馬の寿命はそれなりに長いですけれど……確か人神様に捧げた馬は雄の成馬で、周辺で一番優秀だった子を選んだはずです。なので、もうそろそろ寿命が来ていてもおかしくないのですが……」
えええ、そんな死にかけの馬を寄越したってこと!? どうせだったら長生きする子の方が良かったよ……。馬の健康状態とかって調べられる?
僕が質問すると、リュウは頷いた。
「はい、私も馬の面倒はよく見ていたので、わかります。エルバードさんの方が詳しいと思いますけど……」
じゃあちょっと一緒に見てくれない?
了解してもらったので、リュウたち3人家族を再度手の平の上に乗っけて、スレイプニルの住んでいる虫篭に持っていった。優しく降ろす。
天空に引っ張り上げられるのは慣れたのだろうけれど、僕の室内を横切って移動するのは初めてだったからだろう。リュウは興味深そうに周辺を見回し、エルバードさんは怯えてへっぴり腰になり、赤ん坊はリュウの腕の中でキャッキャッと笑っていた。楽しいのだろうか?
「これは……驚きました。すごく、元気です……」
スレイプニルの様子を見てもらうと、その状態の良さに太鼓判を押してくれた。健康そのもので毛艶もいいそうだ。
ただ、すごく不思議そうにスレイプニルの様子を二人で検分していた。
「でも、おかしいです。筋肉が全く衰えていない……。毛もサラサラだし、角にヒビも入っていない。目も綺麗……。もう10歳近いはずなのに、なんでこんなに若々しいんでしょう……」
リュウの疑問の声。最後の「若々しい」という単語で、僕はお互いに何か勘違いをしていることに気づいた。
いや、こっちの世界だとまだ4日しか経ってないからね? そりゃ若いんじゃなかろうか。
「……あ、なるほど、です。そういえばそうでしたね。私たちの世界で1年経っても、人神様の世界では1日しか経ってないんでしたっけ……」
リュウとエルバードさんはその一言で納得したらしく、スレイプニルの若々しさに納得したようだった。3人で笑いあう。
その後、スレイプニルを中心に3人家族が遊びだした。
僕には3日間全く懐こうとしなかったくせに、スレイプニルはリュウやエルバードさんには全く警戒せず素直に背中に乗せたり、体を撫でられたりしていた。ちょっと嫉妬する。
赤ん坊も馬には興味津々のようで、その背中に乗せてもらったり、角を触ってみたりしていた。好奇心旺盛な子らしい。動物園のふれあい広場にいる家族の姿を見ているようでホッコリした。
その後、僕の手の平に三人を乗っけて大移動して遊んだり、なんとかスレイプニルと赤ん坊ともっと仲良くしようとアプローチをかけてみるも泣かれてしまって大慌てで手を引っ込めたり、僕が作った即席の山や穴で赤ん坊が楽しそうに遊んでいるのをみんなで眺めたりして時間を過ごした。よく遊んだと思う。
「……そろそろお暇しますね」
いつもより長くいたからだろう、リュウがそうおずおずと切り出した。僕は「あ、そうだね」と同意して返そうとする。
リュウは深々と一礼して別れの挨拶をした。
「今日はありがとうございました。最近やることが多くて、こうやって家族の時間を作るのが大変だったんです。人神様のおかげで、今日は凄く楽しかったです」
子を持つ母親というのは忙しいのだろうなぁと僕は同情した。楽しんでもらえたなら何よりだよ。またおいでね。
「はい、ありがとうございます」
そして3人を送って今日は終わり……だと思ったが、なぜか1人僕の手から降りなかった。
手の平に乗っているのは大柄な方だったので、たぶんエルバードさん。小柄なリュウと、たぶんリュウが抱いている何か(小さすぎて判別不能)が赤ん坊だろう。2人に何かを言っている。
何か忘れ物でもしたのだろうか。そう思ってエルバードさん1人だけを引き上げる。そうするとさっきまでの優し気な父親の雰囲気から一変し、何か硬い表情で僕に話しかけてきた。
「失礼を承知で、言葉を崩させていただきます。火急の要件にて」
いや、十分に硬いから。と僕は少しだけ嫌な気分になった。エルバードさんの言葉遣いは丁寧すぎてなんとなく苦手なのだ。だからいつもちょっとだけ避けていた。
でも今日は言葉を崩してくれるらしい。その方がいい。僕は素直に質問した。どうしたの?
「はい、最近また正堂教会の方からの要請が多くなってきているのです。私たちの子を教会に預けて正式な修道院見習いになるように、とか、住んでいる場所を明け渡して正堂教会の傘下に入るように、とかいろいろです」
エルバードさん意思疎通の魔法がうまくなったなーとか言葉遣い普通にしようと思えばできるんじゃんとか余計なことを考えていた僕は、彼の発言を聞いて少し考えた。また正堂教会がちょっかいを出してきているらしい。
もしかしてリュウが最近忙しいって言ってたのってそのせい? と僕が質問すると、エルバードさんはすぐに頷いた。
「はい、正堂教会はティムゾン大陸で最も信仰されている宗教です。ゆえに蔑ろにもできず、かといって私たちは彼らの敬虔な信徒というわけでもありません。私たちは人神サーティス様の信徒です。だから丁寧に断っているのですが、最近は特に要請が強くて……」
瞬間、エルバードさんの言葉の隅から嫌悪の感情が少し滲み出ていた。昔のリュウと同じく、思考が漏れているようだ。
僕はもちろん日本人は基本的に無宗教である。だからエルバードさんの「困った」という感情が具体的にどういうものかわからず、想像でしか理解できなかった。
だから僕の方からは質問を返すことしかできなかった。それでどうしたいの?
「はい。お手数をかけて申し訳ありませんが、いざという時はご助力ください。具体的に何をするかまでは、相手の出方次第なので何とも言えません……。申し訳ありません、こんなあやふやなお願いしかできず」
いや、別にいいよ。僕にできることならなんでも言ってよ。
「ありがとうございます。最悪の場合、リュウと娘をこちらに避難する可能性もあります。来年は食料を用意しておくので、もしよかったらそれを備蓄していただくことはできるでしょうか。ダメでしたらこちらで何とかします」
え、避難ってまた大袈裟な……。でも食料備蓄は別にいいよ、冷蔵庫あるし、量はどんなに多くても小皿一杯分以下だし。
「ありがとうございます。ではまた、よろしくお願いします」
エルバードさんはそれだけを言って別れを告げた。そして彼を降ろす。
僕は何かあったのかもっとちゃんと聞けばよかったかなぁと後悔したが、仮に聞いたとしても僕ができることは少ない。
単なる一般人である僕に別の世界の宗教や政治に口出すのは非常に難しいからだ。
ただ一つだけわかったことある。地球でもミニ世界でも、宗教ってどうしてこう面倒臭い問題が起こるのだろう、と。