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× × ×
「俺が撫子のことを知ったのは本当に偶然だったんだ。東京のこの高校に進学することになって、親元を離れて一人暮らしをする家を捜しにきたとき、たまたまお姉さんと会った。その時に聞いたんだよ」
「そうなんだ……。じゃあ、もう1年前には私のこと知ってたんだね」
「ああ、知っていた。お前が練馬の定時制の高校に通っていることも聞いて居たよ」
「なら、会いにきてくれたらよかったのに……」
そう少し恨みがましく言ってみれば、彼は無表情の顔を少しだけ歪ませた。
「何年も会ってなかったのにいきなり会いになんて行けるかよ。そもそも俺達が遊んでいたのはまだ小学校の一年生のころだぞ? 俺のことなんか忘れてると思ったんだよ」
「わ、わすれてなんかないよ。だって、今だってこうして覚えてるじゃん」
「嘘つけ、さっきまでほとんど忘れていたくせに」
「それは平太郎がそんなに不愛想になっているのが悪いんでしょ?」
「お、男は変声期もあるし、いろいろあってちょっとは変わるもんなんだよ!! 逆にお前が変わらな過ぎて心配なくらいだ」
「なによ、この前はお前が変わったとか言ってたくせに」
「そりゃいうさ。一日中人と話していて一度も虫の話をしないんだぞ? そんなのお前じゃねえよ」
「む、虫さんの話をするなって言ったのは平太郎でしょ?」
「いったい何年前の話をしてんだよ。そもそも話して良いことと悪い事の判断くらい自分でつけられるようになっておけよ!!」
「それが出来たらこんなに苦しむわけないでしょ? バカなんじゃないの、平太郎は!!」
「バカはお前だ。この馬鹿!」
はあはあと、お互い息を切らせて言い合って……ふと電車の車内を見渡してみれば、周囲の人たちの怪訝な眼差しが……
あ、電車の中だってことすっかり忘れてた。随分大声だしちゃってたな……
そう反省しつつ平太郎に視線をむければ、彼も頬を真っ赤に染めて恥ずかしそうに顎を掻いていた。
「ねえ、なんで喧嘩してたんだっけ?」
「知らん。忘れた」
小声でぼそぼそとそんなことを話して、二人で少し俯いた。なんだか変な感じだ。本当に久しぶりに会ったはずなのに、平太郎とだけは普通に話せている気がする。何の心配も不安もなくて……すごく安心で……
どうしてなんだろう……
そんなことを思っていた時だった。
「なあ、撫子……俺がお前と別れた日に言った言葉……覚えてるか?」
「え? えーと……」
私は記憶を手繰り寄せるようにして答えた。
「絶対にファーブルみたいな学者になるよって言ったあれのこと?」
「なんだよ、覚えてたのか……」
「そりゃあ覚えてるよ。だってあれは平太郎が私に最後に言った言葉だもん」
そう言ったわたしの顔を平太郎はじっと覗き込んできた。そしてしばらくそのまま見つめ続けてきたので、私もなんだか恥ずかしくなって逆に睨んだ。
「なによ?」
「いや……」
彼はごにょごにょと口ごもりつつ、口を開いた。
「じゃ、じゃあ、あの後にお前が……その……俺に向かって言った内容も覚えているかよ」
「へ?」
平太郎はやっぱりジッと私を覗き見てきていた。それがどうしてなのかは分からなかったけど、とりあえず記憶を掘り起こしてみたのだけれど。
「私、あの時なにか言ったっけ?」
そう言った瞬間、彼はがっくりと項垂れた。
「だからなによ?」
「なんでもねえよ。とにかくあれだ、お前にはもう一度宣言しておく。俺は絶対にファーブルみたいな昆虫学者になるからな」
「ええ!?」
その急な宣言に私も驚いてしまった。だってあの約束は私だって覚えていたけど、それは本当に幼かった時のこと。もう高校生になっているのだし、夢なんて変わったっていいと思うのに……
でも彼は真剣なのだろう。思い返せば、彼はいつだって勉強をしていた。
きっとそれは目指す目標があるから……
でも不思議に思うことがあった。
「なんでそれを私に言ったの?」
そう尋ねた。
彼に目標があることは分かる。でも、どうしてそれを横から急に出てきたような私に話したのか……そのことが理解できなかったから。
平太郎はまた目だけで私をじろりと見ながら言った。
「お前が教えてくれたからだよ」
「え?」
「撫子が俺に教えてくれたんだ。近くにいるたくさんの生き物たちのことを。そしてその生き物達が生きているってことを」
「…………」
彼がそう言うのを私は黙って聞いた。彼がとても真剣だったから、そして、彼から強い覚悟を感じたから。
彼はつづけた。
「小さい頃の俺はただの弱虫だった。何も出来なかったし、周りの全てが怖かった。だからずっと一人で引きこもってたんだ。でも、そんな俺の世界を広げてくれたのがお前だったんだ。俺はあのクヌギ林でお前に会って、それでお前が教えてくれた世界のことをもっと知りたくなったんだ。だから勉強した。だから今でも勉強している。俺はもっともっともっとその世界を知りたいんだ。これは全部撫子、お前のおかげなんだよ、ありがとうな」
平太郎はそう言い切った。
私はそれに何も答えられやしない。だって、私には何も言う資格はないから。私はただ逃げて逃げてここに辿り着いてしまっただけ。目指す先も、夢も、平太郎みたいな強い信念もない、なにもない。
そんな私が、夢に向かって努力している平太郎に何か言っていいとは思えなかった。ありがとうなんて言って貰える資格はないんだ。
そう思っていた……
でも、彼は続けた。
「だから今度は俺がお前を助ける。お前の夢を応援してやる。もう誰にもお前をバカにさせたりなんかさせない」
「そ、そんな……わたしには夢なんて……」
「あるって言ってただろ? クラスで。恋愛をしたいって」
「そ、それは!! い、言ったよ? あさみんにそう……でもそれはたまたま浮かれていたから言っただけのことで……あ、まさか私の恋愛の応援をしようとして今日付いてきたとか、そういうこと?」
そう言ってみれば、明らかに平太郎は動揺してしまっていた。
「だ、誰もそんなこと頼んでないでしょ?」
「いや、でもお前完全に渋谷に振られそうだったじゃねえか!! だから言ったんだよ気を付けろって!! お前のことだからまたここぞってところで虫出しちゃうんだからな、あの先輩、大の虫嫌いで有名なんだぞ?」
「そ、そうなの? って、渋谷先輩に気を付けろってそういうこと? 虫嫌いだからそうならないように注意しろってことだったの?」
「そうだよ! でもお前ろくに話も聞かなかったじゃねえか、こうなったのも全部自業自得だ」
「なによ! 最終的に先輩にとどめをさしたのは平太郎の方でしょ? 私ばっかり悪いみたいに言わないで」
「デートの最中にカミキリムシ捕まえるような女に言われたくねえよ」
「で、デートなわけないでしょ!! バカなの!? きょ、今日はただ遊び見学に行っただけよ」
「うそつけ、ウキウキしながら出かけたくせに!! 期待しまくった挙句自分でご破算にしてるんだから世話ねえよ!!」
「なによっ!!」
……と叫んだその時、また顔を上げてみれば周り中みれば、またほかの乗客の人たちの白い目が。
うわぁ、もう本当に恥ずかしい。
隣を見れば、やっぱり平太郎も真っ赤になっていた。
「と、とにかくだ。俺はお前の夢を応援するって決めたんだよ。これは決定事項だ」
「わ。わかったわよ。もういいわよ」
二人でまた下を向いて沈黙する。
そして降りる駅が近づいてきたところで彼が言った。
「この後多摩川集合だからな、絶対来いよ」
その強気な言葉に私の胸はどきりと高鳴った。そして恥ずかしそうに俯いている彼を見ながら、聞いた。
「ねえ、それって……で、デート……ってことだよね?」
彼は少し身体を強張らせた感じになって、小さく頷いた。そして……
「ああ、そうだよ」
「そうなんだ」
私の頬は、もう熱くなりすぎていた。
ドキドキは……
まだ続いていた。
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