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「は?」
『ギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチ』
「あ」
見ればさっき私が手にしていたス〇バのカップの蓋が少しずれてしまっていて、そこに『入ってもらっていた』はずのあの子の姿がない。そして、じゃあどこにいるのかといえば、それはまさに先輩の『鼻の上』。
ああ、さっき先輩に手を引っ張られたときに、その手にもっていたカップから落ちちゃったんだね。それにしても……
なんだかこの子、怒ってるような……
「は、はぁ!? な、なんだこりゃ!?」
先輩が良く分からないと言った風に目で鼻の頭のその子を見ようとしているんだけど近すぎて焦点が合わないのか、目がものすごく寄ってしまって変な顔になっていた。
「あ、先輩あんまり動かない方が……」
いいよ。と言おうとしたのだが、冷や汗を掻き始めた先輩が急に慌てて暴れ出して、そして……
ざくっ!!
「いってええええええっ!! いてえ、いてえ、いてえええええっ。な、なんだ? いてええ、こ、これ、む、虫? 虫ぃいぃいぃい? き、気持ち悪いいいいい、いたいいいい」
そう言って暴れ出した先輩に、私はとりあえず言った。
「あ、あの! 暴れると余計噛みますからしばらくじっとして、そう……そのままじっとして……はいっと!!」
私は暴れる先輩の首を押さえつけて、噛みついたままになっているその子の身体にそっと左手を添えて、くっと首を上げたタイミングで、丁度少し『牙』が緩んだのを確認してから、一気に先輩から引きはがした。結構足も踏ん張ってたみたいで口の周りからバリバリと音が立ってたけど、今回は仕方ないよね。
その子はまだかなり警戒しているみたいで、ギチギチギチギチ鳴いていたけど、まあ、別に普通の反応だから特に問題はないよね。
で、その子の無事を確認した後で先輩をと見てみれば、その鼻の先に二つの穴が開いて……いや、別に鼻の穴の話をしているのではなくて、その子が噛みついて出来てしまった穴からたくさんの血が垂れてきてしまっていた。
そうそう、これは良くあること。
私も昔は捕まえる際に噛まれたことあるしね、本当に肉を切られちゃうから血がいっぱい出てびっくりするけど、別に毒があるわけでもないから絆創膏でも貼っておけば治るしね。
だからそう思って私は、とりあえずティッシュを当てて止血してあげようと思って近づいたんだけど、迫る私に先輩がずりずりと後ずさった。
えーと、近づかないと止血出来ないんだけど……
そう思って先輩をみれば、その視線は私の顔ではなくて、私がまだ左手に持ったままだった『あの子』に向いていた。あー、そういうことか。
だから私は先輩を安心させてあげようと思って、にこりと微笑んだ。
「大丈夫ですよ先輩。『この子』は『シロスジカミキリ』っていうカミキリムシで、日本にいる種の中では最大級大きさなんですけど、ブナとかクヌギの木に穴を空けるくらい牙が鋭いんですけどね、別に毒はないので血が止まれば平気ですよ」
そう言った私の左手で、シロスジカミキリが、
『ギヂギヂギヂギヂ……』とまだ鳴きながら牙を開閉していた。
あ、このままじゃ可哀そうだね。さっき南方君と話していたときに、サササッと透明カップにこの子用の部屋を作ったからそこに戻して……
そう思っていたら、目の前の先輩が血をたらたら垂らしながらか細い悲鳴を上げた。
「そ、そんな気持ち悪いものを、ぼ、僕に近づけるな……お、お、お前……ただで済むと思うなよ……俺はお前を絶対にゆるさない!! この後どうなるか、か、覚悟しておけよ!!」
私からずりずりと遠ざかる様に這っていた先輩が、泣きながら私を指さしてそんなことを宣言。
私はそういわれて、もう頭の中が真っ白になってしまった。
ああ、まただ。
そうまたやってしまったんだ……
また『私の好きなモノ』のせいで人に嫌われてしまった。
そう思ってしまったことで、もう何も身体に力が入らなくなった。そのままその場にストンと座り、そして気が付けばさっきまで掴んでいたあのシロスジカミキリもいなくなってしまっていた。
ああ、もうどうでもいいか。
この人はうちの学校の生徒会長だし、芸能人みたいな人だし、偉い人だし……
これでまた私の話が学校中に広まることは間違いないんだ……
やっぱり無理だったんだよ……
私は普通じゃないんだもん……
「うう……ううう……」
涙が溢れた。もう悲しくて辛くて耐えられなかったから。
渋谷先輩が何を言っているのかはまったく聞こえなかったけど、もう私はその場で嗚咽するしかなかった。
その時だった。
「おっと、失礼……」
そんな声が聞こえた直後、涙で滲んだ視界の先で大きな段ボールを抱えた一人の男性の姿が……良く見えなかったけど、そのぼさぼさの髪の毛は間違いなく彼のものだった。
彼はちょうど目の前、腰を抜かしている渋谷先輩のすぐ横を通ろうとして、少しよろめいた感じのまま、その段ボールの中身を全部先輩にぶちまけた。
ざざーっと、中から黒いたくさんの何かが落ちて行ったのだけれど、あれは……
そう考えたその瞬間、再び渋谷先輩。
「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
新宿の公園のその入り口で大絶叫した先輩の体中には、びっくりするくらい綺麗なあの子たちががまとわりついていた。
「いやあ、すいません。採集していた『ゴマダラカミキリムシ』をこぼしてしまいまして……、あ、すぐ取りますから、じっとしていてくださいね、暴れると噛むかもしれませんから」
そう言ったのは当然この人、南方君。彼はのっそりとしたスローリーな動作で渋谷先輩の身体に手を伸ばし始めた。
先輩はといえば身体や顔を這う大きくてきれいなゴマダラカミキリムシを見つめながら、もう一言もしゃべれなくなっていた。
そしてカミキリムシを集めながら南方君は言った。
「ああ、そうだ渋谷先輩。さっき撫子が持っていたシロスジカミキリはたまたま俺がさっき会った時に彼女に預けておいたものなんですよ。どうも先輩に噛みついちゃったみたいですいませんでした。悪いのは全部俺なんで……」
「え、ちょっと、それは……」
否定しようと顔を上げたところを今度は南方君が手で制した。そして私に何も言わせないままにぎろりと先輩を睨んで言いきった。
「悪いのは全部俺……それでいいですね」
「は、はひ……わ、わかったから、とっととその気持ち悪いのを取ってくれー……」
それから南方君は『本当にすいませんでした』と、反省しているとは思えない口調で言いつつ渋谷先輩の身体からゴマダラカミキリムシを引きはがして集めたのだった。
× × ×