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現代人はとかく『忙しい』
それはまさにその字のごとく、『心』を『亡くす』様なのであろう。
寝食を別にすれば、人々は学業に仕事に、そして趣味にと、何かに追い立てられてでもいるかのように、過ぎゆく時間を気にしながら心をすり減らしつつ日々を過ごしていく。そうすることで得られる安心がこの世の何よりも優先されるとでもいうかの如く、人々は様々なものを目の前から取りこぼしながら毎日を満喫するのだ。
まるで、自分だけで世界は完成されているとでもいうかのように。
だが、そんな忙しい人々にも『安らぎ』というものは必ず訪れる。それはまるで儚い物語の様に唐突に、自身が取りこぼしてしまっていた『あの日の姿』をともなって目の前に現れたり……。
そんな光景がここにあった。
朝の込み合う駅のホーム、そこに所狭しと並んだ利用者たち。
上りも下りも大勢の人でごった返したそのホームには先ほどから何度も電車が滑り込み、人々はただ黙してその中へと吸い込まれていった。
良いも悪いも何もない。
人々にとってこうすることが日々の日課であり、彼らにとっての最上の選択に他ならなかったのだから。
そんな鮨詰めのホームにいた彼らはそれを見た。
反対ホームに滑り込んできた電車……それに乗り込んで消えていった反対ホームも乗客たち。電車が車掌の笛を合図に走り去った後のそのホームは、先ほどの人混みがまるで嘘のように閑散とした様相が一時として広がる。
そう、それは当たり前のことだった……
でも、そこに彼らは見た。
ただ一人、ホームに残ったその彼女のことを。
淡い春の日差しに照らされたそこに佇むのは、長い黒髪を揺らし優し気に微笑む一人の少女。その制服から、二つ先の高等学校の生徒であることと、スラリと背も高く綺麗な顔立で美人と評しても差し支えが無い存在であるだろうということをこの場の誰もが察することが出来た。
しかし、今彼らが目を、心を奪われたのはそのことではなかった。
そこには彼女の他にもう『ひとつ』、彼らの心を奪い去った存在があったのだ。
それは一匹の大きな『アゲハチョウ』。
ひらひらと優雅に飛ぶその見事な黄金色の羽ばたきのままに、そのアゲハチョウは黒髪の君の周りを、まるで楽しく遊んででもいるかのように舞ったのである。
それを観止めた彼女は柔らかく微笑み、ふわふわと飛ぶアゲハチョウを静かに目で追い、そして彼女がスッと人差し指を伸ばしたままに腕を上げると、その先にあの黄金色が静かに留まった。
彼女は暫く、羽を開いたり閉じたりして休んででもいるかのようなその可憐な存在と見つめ合い、そしてゆっくりとホームの向こう側、柵の外側に茂る木蓮の梢にむけて、そっとその細い腕を伸ばした。
アゲハチョウは暫く彼女の指に留まったままだった。それはまるで、彼女の傍から離れたくないとでも言っているかのように……
それでも何度か羽を開いた後で、チョウは飛び立ち、木蓮の梢の周りをまた楽しそうな様子で飛び回った。
彼女は、やはりそれを優し気に見つめていた。
人々はその情景に心を打たれたのである。
それは自然と人とが織りなす美のワンシーンであり、いつか体感した幼かったあの日の再現であり、疲弊しすり減った自身の心の隙間を埋める光景であった。
この後人々は、ぎゅうぎゅう詰めの満員電車へと吸い込まれることになる。
だが……
そこにいた誰もが、今日この時ばかりはほんの少しだけ、心が軽くなっていた。
× × ×
「よっし!! 完璧ね!!」
私は先ほどのアゲハを駅のホームから逃がした後で、ハンカチでよく手を拭いた。
別に毒があるわけではないけれど、虫を触ってしまったのだ。衛生面から見ても当然こういう処置は必要だと思う。それに、虫を触ったことで何か変なにおいがついてしまっても敵わないし。まあ、アゲハなら問題はないのだけどね、幼虫ならまだしも。
なにしろ今日は私の再出発の大事な日。
もう今までの私ではないのだから、ここでヘマだけは絶対にしたらダメ。
だから今、目の前で発車しようとしている電車を見送ったんだもの。こんな風に慌てて飛び乗るのは『女性』としてはダメダメよ。女性はもっと『お淑やか』であるべきなのだもの。
そう、それは間違いない。
粗野な感じの女性よりも礼儀正しくたおやかな女性の方が男性に好まれるって、デ○ィ夫人も言ってたし!!
そんな風に満足しつつ、次第と次の電車を待つ人が増えてきたなぁとか思っていたら、不意に背後で声がした。
「なんだ逃がしたのか」
「え」
それはまだ若い男の人の声。慌てて振り向いてみたけど、そこにはたくさんの電車を待つ人の列。サラリーマンの人やOLさん、私と同じ学校に通っているのだろう制服を着た学生さんたちが無数にいて、誰が言ったのかはまったくわからなかった。
でも一人……
髪の毛がぼさぼさで禄に手入れもしていない感じの男子生徒に目が留まった。
彼は、人ごみを縫うように私から遠ざかっていったのだけれど、その背中が無性に気になった。
どこかであったことがあるような……
そんな気がしたから。
× × ×
「では、今日は転校生を紹介しますね。では【堤】さん、こちらへどうぞ」
先生のその声を受けて、教室入口で立っていた私は緊張の極致だった。もう足はがくがく震えるし、どんな表情をしているのかもわからないで、でも、朝一生懸命に今流行りと言われているコスメで、うすくうすーく、でも、きっちりと今流行りの女子高生に見えるように頑張ってお化粧もしてきていた。そうそう変な顔ではないとは思うのだけれど、『約2年ぶり』の『教室』はやっぱり怖かった。
大丈夫、落ち着こう私。
ここには私の知っている人はいない……はず。
もう誰も私の過去を知っている人はいないんだ。だから心配ない。うん、大丈夫心配ない。
一つ大きく深呼吸をしてから私はクラスのみんなの前に立った。そしてざわざわとクラスメイトが色めき立つことが分かったけど、そこは仕方ないことだと諦めて、そのまま覚悟を決めて口を開いた。
「わ、私は【堤撫子】です。都内の○○定時制高校に通っていましたが、今回こちらの府中南高校に編入することになりましたーーーー」
「ちょっと堤さん? 別に言いたくなければ言わなくても大丈夫よ?」
そう先生が優しく声をかけて来てくれた。
私はそれにホッと一息入れてから答えた。
「大丈夫です先生。私みんなにあまり隠し事はしたくないので」
そう答えた瞬間にクラスのみんながワッと沸き立った。
『気にしなくて大丈夫だよ』『心配ないよ』『困ったら助けてあげるよ』
口々にそう言われ、私の胸もスッと楽になったような気がした。
だから、私も頑張って、もう少しだけ踏み込んだ。
「あ、えっと……、す、好きなテレビ番組はせ、『世界の果てまでイッテ恋!!』です!!」
「好きなタレントは?」
前の方の席のショートカットの子にそう声をかけられて即答。
「あ、はい、好きなのは『ミヤボンちえぞう』さんです!! あ、あと、ジャニ○ズジュニアも……」
『あたしも超好きだよ!!』と、その子が笑顔で言うと、まわりの子もみんな口々にそう答えてくれた。
私はそれを見ながら、宜しくお願いしますと大きな声で言って頭を下げた。すると、パチパチと拍手の音がなりはじめて、気がつけばみんなが私に拍手をしてくれていた。
こうして私は、転校初日の最初の難関をくぐり抜けたのだった。