また一年生になったら
何でこんな冬真っただ中なのに四月の話なんか書いているのだろうか……。
オレが退院して数日後、オレは母親に連れられて高校に来ていた。そこは、桜が入学することになっている柿区毛高校だ。その一室で、オレと桜の母親、そしてオレの担任となる女との三者面談が行われていた。その内容は、オレが殴られて記憶喪失にあった事だった。
オレの担任は若く中々きれいな女で、名前は谷岡といった。母親がオレの記憶喪失の事を話すと、オレに心配そうな顔をした。
実際は母親が谷岡にオレの事を色々話すだけだったので、オレは隣に座っているだけだった。座りながら考える。
そうか、オレは高校に通うのか。オレも昔は高校に通っていた。しかし、残念ながら成績は下から数える方が早かった。勉強らしい勉強など、会社に入ってからやったことが無い。果たしてそんな事でこれから高校の勉強についていけるのだろうか。
そんな事を考えていると、母親が桜の名前を呼んでいた。肩を叩かれて、ようやく桜はオレだったと気づいた。極まりが悪くなり、苦笑いを浮かべる。
大体話はまとまり、あとはオレの意見次第、という事らしい。オレは、自分の『記憶喪失』の事をクラスの連中に全部話す事にした。変に注目されるのはいい気分ではないが、女子高生経験のないオレには女子高生の勝手が分からないので、実質記憶喪失の様なものだ。周囲から変に映る言い訳にもなるし、そんな時に手助けしてくれる者が出来たらありがたい。
二人は不安そうだったが、オレがそういうなら、とそれ以上は何も言わなかった。
その翌日、オレは自転車で高校に向かっていた。親はひとりで行けるかと心配したが、覚える為に一人で行きたい、と言ったら納得した。元々高校はオレが勤めていた会社の途中の道に建っていたので、わざわざついてきてもらう必要は無いのだ。
校門の近くで、オレが事故に遭った日に見かけた剣道少女が学校に入っていくのを見つけた。オレと同じ制服を着ている。あんな所で剣道の練習なんかしているのもおかしかったが、桜とは違うタイプの美人だったので覚えていた。いかにもクールそうな切れ長の目とストレートな黒髪の、まさに剣道少女といった感じの美少女である。この時間に学校に来るという事は、アイツもオレと同じ一年生だろうか。
しかし、このセーラー服というのを着るのは中々気恥ずかしい。まさかオレがこうして女子の服装を着て外に出るなど、少し前のオレに話しても到底信じてはもらえまい。
当然オレにはセーラー服を着た経験はなかった。着方はすぐ分かったが、着るのを躊躇っていたオレを見た時の母親が『記憶のない桜』を世話するときの顔になって変に世話を焼こうとするものだから、そのせいで余計な時間を食った。
髪を乱雑なポニーテールにしたのは、着付けに色々とうるさかった母への申し訳程度の反抗だ。変に着付けに時間をかけるものだから、少し急ぎ足になった。オレがこの道に慣れていたからよかったものの、本当に記憶喪失だったら道を覚えられず焦ってしまい、どうなっていたことか。
駐輪場に自転車を止め、玄関に向かう。玄関にクラス分けが書いてある大きな用紙が貼られていた。それを見ると、どうやらオレはB組らしい。クラスは五つあった。
一度元のオレの名前を探してしまった。当然見つからなかったので焦ったが、その時強い風が吹いた。それでスカートを押さえ、ようやく思い出した。ふぅ、と小さくため息をついて頭を横に振る。もう一度用紙を見ると、次はすぐに桜の名前が見つかった。
教室に向かう途中、誰かに呼び止められた。振り返ると、谷岡だった。
「立木さん、昨日はあぁ言ったけど、本当に大丈夫?」
心配そうな顔で尋ねる谷岡に、
「はい、私は大丈夫です」
オレは答える。自分の事を『私』と呼ぶことに抵抗はない。大学時代から就職活動やバイトの接客で使っていたからだ。大丈夫だ、答えると、谷岡は安心したらしく、やっと笑顔を見せた。やはり、美人は笑顔が良い。
一年生の教室は校舎の四階にあるそうだ。やたらと階段を上らされる。階段を上る位で疲れて動けなくなることはないが、面倒くさく感じるのは変わらない。
荷物を置いて、体育館に向かう。体育館には椅子がやたらに置かれている。クラスごとにその椅子に腰を掛けていく。オレの席は丁度B組の真ん中辺りにあった。腰を掛けようとするが、今まで通りに座るとスカートが変なことになる。それで他の女子に倣ってスカートを抑えて座る。このスカートとかいうのは中々面倒だ。当然オレにはスカートをはいた経験はないので、どうしても違和感を覚える。
しかし、お偉いさんというのはどうしてこう話が長いのだろうか。式が始まったが、長いわりに話が面白くない。どこかで聞いたような事しか話さず、おまけに何というかオリジナリティに欠ける。何かそういう式用の長話のマニュアルでもあるのだろうか。
入学式が終わり、再び教室に戻る。そこで担任から色々渡され、また何か話を聞くのだ。今日から高校生だから高校生らしい行動をしろとか、学業が本分だとか、これもお決まりの台詞だった。どうやら都会でも田舎でも教師の言う事は同じらしい。
面倒なことにこの谷岡という教師、自己紹介をしろと言いだした。なんでもオレたちの事を早く知りたい、また知ってほしいのだそうだ。
出席番号順らしく、窓側の一番前の少年が嫌そうに立ち上がる。その少年が相藍会雄というのだけは覚えているが、他は覚えてない。まあどうせたいしたことは言っていないだろう。
オレの席は七列あるうちの四列目。その最後尾という良いとも悪いとも言えない席だった。ただ、教室の後ろにいる父兄の中で、桜の母が心配そうにオレを見ているのは少し極まりが悪かった。
何人か紹介をしていき、窓際の前から四番目、つまり四人目は例の剣道少女だった。剣道はすっ、と立ち上がる。何というか、立ち上がった瞬間教室の空気が変わったような気がした。
「空樹雪花です」
他は好きな物や入りたい部活の話を簡単にしたのに、名前だけ言ってさっさと座ってしまった。あの空樹とかいう剣道、人を近づけまいとする何というかオーラを放っている。緊張とか、そういう類の話し方ではない。
それから教室は静まり返ってしまい、その次のの生徒は立ち上がりにくそうだった。それでも何とか自己紹介は進んでいき、いよいよオレの番になった。
椅子から立ち上がると、一気にクラスの視線がオレに集まる。その視線に押しつぶされそうだ。その中でも、特に頭への視線が多かった。やはりこの包帯が気になるのだろうか。そして男子連中。そう胸なり足なりじっくり見るな。
「立木桜です。中学までは田舎の方にいたらしいのですが、家の都合で先日東京に引っ越してきました」
少し教室がざわつく。オレが言った『らしい』の部分が気になるらしい。尤も、オレも東京に引っ越してきた事情を知らない。母親は色々あってね、と言いにくそうにごまかすのだ。だから、適当にこういう事にしておいた。
谷岡と目が合う。教員は言いにくいなら別に言わなくても、と心配そうな視線を返した。確かに、黙っている事も出来る。
勝手知らずのせいで変に映るだけで、別に何かできなくなっていることがある訳でもない。だから本当は話す必要もないだろう。しかし、あんな気になる言い方をしては説明しない訳にはいかない。それに、これはオレのためでもある。
オレは、入院している間に元のオレの身体が死んでもう元には戻れないことを悟った。オレがオレと思われなくなるのは辛いが、こうして人の身体で再び生を得た以上、桜として生きてやると決心した。
しかし、オレにはまだ桜として、他人として生きる覚悟がまだできていなかった様だ。昨日母親に呼ばれて気付かなかったことや、クラス発表の紙で桜ではなくオレの名前を探してしまったのがその証拠だ。
オレは、記憶喪失の事をオレの事として話さなければならない。クラスの連中のためではなく、谷岡や母親のためでも当然ない。桜として生きる覚悟を決めたつもりでいた、オレの尻を蹴飛ばす為に。
すぅ、と大きく息を吸い、静かに吐く。
「実は私は入学前に事故に遭い、その後遺症で今までの記憶を失ってしまいました」
そこまで言うと、再び教室がざわつく。谷岡が静かにするように呼び掛けると、教室は静まり返る。
「なので色々と勝手が分からないこともあって皆さんに迷惑をかける事があるかもしれません。
厚かましいお願いではありますが、そういう時には何か適当に助言を頂けると助かります。なるべく面倒はかけさせませんが、その時はよろしくお願いします」
そこまで言ってから軽く頭を下げ、席に座る。再び谷岡の顔を見ると、安心したような、よく頑張った、とでも言いたげな顔だった。オレは、それの返事として小さく谷岡に頭を下げた。
家に帰ると、その日の夕食はオレの入学祝という事で中々に豪華なものだった。しかし、食卓を取り囲む空気は相変わらずだった。尤も、今日は豪華な夕食を楽しむのに夢中で殆ど気にしなかった。そんな姉の無神経さが頭に来たのか、或いは入学でちやほやされるのが気に入らないのか、箸をテーブルに叩きつけて先に部屋へ行ってしまった。
オレも両親の喜びようには入学式位で大げさな、とは思ったが、散々危険な目に遭っていた娘が無事学校のイベントを終わらせることが出来たのだ。嬉しくもあるが、それより安心の気持ちが勝るのかもしれない。
何にしても、今はテーブルの中心に置かれた大皿のエビフライをゆっくり楽しみたい。やはり揚げたては美味しい。サクサクの衣を、中のエビもろとも歯で押しつぶす。オレの様にろくに自炊をしなかったズボラ人間には、こうして出来立ての美味しさを楽しむ、という行為はとてもできない。
あまり美味かったので、尻尾まできれいに食べてしまった。パリ、パリ、と心地良い音をさせていると、両親が変な顔をしていた。
つい、いつものオレらしく食べてしまった。苦笑いを浮かべながら頬をかく。妹との関係と言い、食べ方と言い、色々気を使うことになりそうだ。この先こんな風でやっていけるのだろうか。そんな事を思いながら、オレはこっそり妹が食べなかったエビフライを失敬した。
明日の夕飯はエビフライがいいなぁ。