居場所
う~ん、サブタイトルって思いつくときは簡単に思いつくのに、思いつかない時は思いつかないものです。
夕方になり、オレは自分の病室に戻る。そこで病院食が運ばれる。オレはどちらかと言えば食べる方なので、最初はこの量で腹が膨れるのか心配だった。しかし、満腹とまではいかなくとも思ったよりは腹を満たしてくれた。
空になった食器に手を合わせ、小さく頭を下げる。ふぅ、と一息つく。すると、那須野さんが食器を片付けに来る。オレがご馳走さま、を言うと良い笑顔を見せた。美人は笑っている方が良い。
那須野さんが部屋を出て行き、オレはベッドに横になる。
そこでやっと思い出す。そうだ、こんなのんびりしている場合ではない。何がどうせやる事がない、だ。早く桜と会い、元に戻らなければならないのだ。
オレは上司を殴り、会社を辞めた男だ。元に戻ったところで待っているのは大した将来ではあるまい。
しかし、オレが上司を殴った事と桜は無関係なのだ。それなのに桜にオレのせいで辛い思いをさせる訳にはいかない。
何としても桜とコンタクトを取らなくてはならない。方法は分からないが、オレたちは元に戻らなければならない。
一度桜の方から会いにくる事は出来ないのだろうか、とも考えた。すぐ無理だと気づく。桜の身体がここまで怪我が少ないのはオレが庇ったからで、それなら庇って轢かれたオレの身体はボロボロだ。
まさか桜は死んだりなどしてはいないだろうか。そんな疑問がふと頭をよぎる。
死んではいない。心のモヤを取り払おうと頭を振る。どうにかして、その暗い気持ちを追い払おうと別の事を考えようとする。ダメだ、やはり気になる。知りたい。オレは元来、知りたいと思った事はその時知らなければ気がすまない性分なのだ。
病室を出て、受付に向かう。オレと同じ場所で事故に遭ったのに、わざわざ別の病院に運ぶ事はないだろう。この病院にいるに違いない。
受付に着く。受付嬢は那須野さんほど可愛くない。もう少し綺麗なのにやらせたら良いのに。
「すいません」
そこでオレがどこにいるか聞いてみる。受付嬢は、少しお待ち下さい、と言いカタカタやりだした。
待っているこの間が惜しい。もしこの病院にいない、或いは運ばれてすぐ死んだ、などと言われたらどうしよう、と嫌な考えだけが頭に浮かぶ。胸の奥が痛む。
受付嬢が振り向く。
「そんな人はいません」
事務的な口調で言う。最初、何て言ったのか理解できなかった。少し間が開き、返しの言葉を理解した。
そんなはずはない、もう一度よく調べてくれ。身を乗り出して詰め寄る。しかし、いないものは居ない、と切り捨てられる。これ以上は聞くだけ無駄だと思い、受付を後にしようとする。
そこで、うっかり小さなカレンダーをひっくり返してしまう。
「す、すいません! 今拾いますんで!」
腰を落としてカレンダーを拾う。木でできた日数のブロックを、オレが上司を殴った次の日になる様にはめてカウンターに置く。
「ちょっと、日にちが違いますよ」
受付嬢が、ため息混じりに日にちのブロックを直す。見ると、あの日から三日経っていた。あれからそんなに経っていたのか。という事は、オレは三日も眠っていたようだ。昔は昼まで寝ていて怒られることがあったが、三日はおろか一日中眠っていたことはない。
力が抜けた。ロビーの長椅子に腰を下ろす。ふと、長椅子の横に新聞が何部か掛けられているマガジンラックが置かれているのが目に入った。そうだ、オレが轢かれた事故に関する記事は載っていないだろうか。
一部適当に引っ掴む。オレは元々新聞はあまり読まない|性質≪たち≫であり、精々尻の方に書かれた四コマを見るくらいだ。しかし、今回は真剣に読んだ。新聞は読まないだけで、文字の塊自体には嫌悪感はない。
読んでいる内に、小さい記事が目に留まった。その記事には、立木桜という女子高生(正確には、四月から女子高生になるようだ)が昨日何者かに自宅付近で殴られ怪我をした、と書いてあった。桜とかいうのも大変だ。そう思っていたが、その桜とはオレの事、オレと入れ替わっている奴の事だと気づいた。立木という姓は、部屋を見る前に病室のネームプレートを見て知った。
という事は、桜は三日前に事故に遭いかけた所を助かったと思ったら二日後に誰かしらに殴られて入院していたのか。これは運が良いのか悪いのか。
そのまま読み進んでいく。その内、思わず変な声が出る。記事の続きには、桜は三日前に事故に遭ったが一人の会社員が庇ったため助かった事、その会社員は死んだことが書かれていた。そこに書かれた会社員の名前はオレと同じ名前で、年齢もオレと同じだった。
いや、まさか。これは何かの間違いだ。もう一度読めば、内容が変わっているかもしれない。変わっていてほしい。オレではない、別の誰かの名前と勘違いしただけだ。ここは東京。事故なんて珍しい事じゃあない。自分に言い聞かせながら、何度もその記事を読み直す。
分かっていた。いくら何でも自分の名前を読み間違えるようなことはしない。二十年以上使ってきた名前なのだ。ただ、認めたくなかったのだ。そんな希望を、あっさりとこの記事は裏切ってくれた。
オレの身体が死んだという事は、オレと入れ替わった桜も死んだと考えた方が良いのだろう。これで、オレが元に戻るのは不可能だと分かった。三日前に事故で死んだという事は、恐らくオレの身体は今頃故郷の墓に埋められているのだろう。
しばらく胸に穴が空いていた。草一本生えていない荒野に、冷たい風が吹いているような気分。辛いのか、苦しいのか、悲しいのか、もはやそれすら分からない。
気が付くと、オレの頬には涙が伝っていた。思うに、東京に来てから初めて泣いたと思う。変に目立つことがあまり好きではないオレには、今ロビーに誰もいなかったのは幸いだった。
新聞をマガジンラックに戻す。泣いているオレを、受付嬢が変な目で見ている。オレは乱暴に涙をぬぐい、自分の病室に戻る。
ベッドに腰掛ける。また涙が出た。大の男がこんなに泣いている姿は、傍から見れば見苦しい光景だ。議員じゃあるまいし。
オレは元々居場所と呼べる物がない人間だった。別に家族に所謂虐待という奴を受けていたわけではないが、どこか疎外感を覚えていた。学生時代にはスポーツクラブや部活、サークルと色々手を出した。そしてつい三日ほど前、あの事故まではあるつまらない会社に勤めていた。しかし、そこでも同じように疎外感を覚え、居場所があったとは言えなかった。
それでも職場や実家は、建前上でも居場所であってくれた。しかしこうして入れ替わり、元に戻れなくなった今、それすらなくなってしまった。オレの居場所は、もうどこにもないのだ。
オレが何をしたというんだ。オレに辛うじて残っていた、オレの居場所を何故奪った。両手で顔を覆う。その手の細く頼りない事。オレはオレでなくなったと、教えてくれている。そうか、自分が自分ではなくなる恐怖もこの涙には含まれているのか。居場所がなくなった悲しみや苦しみ、居場所を奪った理不尽への怒り。そして変わってしまった恐怖が、オレの心を占めている。涙が溢れてくる。いや、色々な感情が涙を眼の外に次々と押し出している。
一頻り泣くとスッキリした。ふぅ、と大きな溜め息をつく。やはり、オレはこれから桜として生きていくしかないのだろうか。彼女というものがいたことが無いオレに、女子高生の真似事が務まるのだろうか。
しかし、却って死んで良かったのかもしれない。居場所がない人間の良い所は、居なくなって誰かを悲しませることが無い所だ。オレの立場が必要な人間がいても、オレという人間自体を必要としてくれる者などいないだろう。
ならば、桜として生きてやる。桜の代わりはオレには無理だ。あの日の事故まで、この女の事など一切知らなかったのだ。だから、申し訳ないが桜の代わりをする気はない。しかし、その代わりと言っては何だが精いっぱい生きる。もう泣き言は言わない。
そして、この新しい人生で今度こそ『オレの居場所』を得て見せる。桜の居場所に甘んじるのではない。オレが居場所を作り、それを守ってみせる。
「生きるぞ」
オレは、はっきり言った。
連載物は三話目が大事。この話で少しでも読んで下さった方の心がつかめていると嬉しいのですが……。