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ソウセキ2017  作者: 多田野 水鏡
20/34

猿は一人、海を渡る

何とかして、夏までに前半パートを終わらせたいです。

 空樹を殴り、オレは帰路に着いた。頰が痛む。頰に触れると、またイラついてきた。

 自転車を引きながら、巣鴨通りを歩く。今日は市はやってないが、それでもここは年寄りの町。こんな所を自転車で走れば、事故を起こすに決まっている。このまま帰ってもつまらないが、買い食いをするには少し遅すぎる。夕飯が食べられない。さて、どうするか。巣鴨通りを出て、踏み切りが上がるのを待ちながら考える。

 そうだ、池袋にでも行こう。踏切が上がる直前にサドルに腰を下ろし、上がると同時にペダルを踏んだ。


 池袋の裏の方。そこに、ある店が建っている。その店は、所謂同人グッズというものを取り扱っているのだ。桜と入れ替わってからは来ていない。面白いものが増えているかもしれない、久しぶりに覗いてみよう。


 店から出たオレの手に握られた袋の中身は、CDだ。マフラーを巻いた少女が雪景色で微笑んでいるイラストがケースに描かれたそれは、オレが好きな同人グループの最新作だ。正確には三月の終わりごろに発売されたものらしいのだが、忙しくて買いに行くどころではなかったのだ。

 それに、好きなグループなどと言っていながら、最近歌らしい歌を聴いていないのだ。このグループのボーカルの、明るくて可愛い歌声を、久しぶりに聞くことになる。

 それと、漫画が一冊。あの店では、同人関係のみならず、他の本屋でも売られているような普通の漫画も売られている。尤も、その対象年齢は少しばかり高いものが殆どだが。

「おい」

 声をかけられたので、後ろを見る。そこにいたのは、例の『御前さん』だ。

「何をしている?」

 迂闊だった。今のオレは、女子高生だった。久しぶりに喧嘩をして元の口調で喋ったので、つい気が大きくなってしまったのだろうか。休日の昼間ならともかく、夕方に制服姿でこんな所を歩いているのはあまり褒められた姿ではないだろう。

 別に寄り道をやめる気はないが、オレは一度生徒指導に呼び出しを喰らっているのだ。生徒会副会長とやらの眼に止まったのなら、確実に再び呼び出しを喰らうだろう。面倒なことになった。

「それは何だ?」

 御前さんはオレの手を指さす。

「いや、な、何でもないっす」

 背中にCDの袋を隠す。オレの背後に回ろうとする御前さん。回られまいとするオレ。少しばかり、応酬が続く。

「あ、先生。実は今この一年生に指導を……」

 突然、御前さんがオレの後ろに向けて話しかける。何、まさかこんな所に教師まで来ていたのか。オレは、思わず後ろを振り返る。そこには、誰もいない。その隙をつかれ、袋を奪われる。

 オレとしたことが、さっき自分が使った手にひっかかるとは。とんだ粗忽だ。

「漫画と……」

 袋から漫画を取り出しながら、オレにも冷たい視線を向ける。

「……ってぇっ!」

 突然、変な声が聞こえた。当然、声の主はオレではない。オレのすぐ近くで聞こえたものだ。視線を御前さんに向けると、そこにはトマトの様に顔を真っ赤にさせた御前さんが。さっきまでオレに向けていた視線が嘘のようだ。もはや『橘御前』と恐れられた氷の女はどこへやら、ただの一人の少女だ。

 トマトの手には、オレが買ったCDが。別に赤面されるほどのいやらしい物は買っていないので、そんな顔をされる覚えはないのだが。

「こ、今回の事は黙っておいてやる。い、以後慎むように……」

 赤い顔で、オレに袋を差し出す。その赤い顔のまま、どこかへ歩いていく。裏返ったのか、さっきまでの冷たい声ではない。高く可愛い声、これをあの『御前さん』が出したのか。

 まぁ、何にしても助かった。安心したからか、口から息が漏れる。しかし、いつまでも喜んでいられない。一介の女子高生にとって、この時間帯の池袋はそう安全とは言い切れまい。変な奴に声を掛けられでもしたら面倒だ。それこそ、本当に生徒指導と会いでもしたら面倒だ。駐輪場から自転車を引き取り、さっさと帰る事にした。

 駐輪場に着き、ポケットから自転車の鍵を取り出そうと手を突っ込んだところでふとその手が止まる。あの声、どこかで聞いたような気がする。どこだっただろうか。

 

 家に帰ると、やはりというか、空樹に殴られた跡を母親に見られて問い詰められた。結局喧嘩した事がばれて、またも叱られた。オレとしては、それどころではない。『御前さん』の声が、どうしても気になるのだ。

「桜! 聞いてるの!」

 母親がいきなり大きな声を出す。当然、オレは母親の話など聞いていない。さっきの『御前さん』の声、あれをどこで聞いたかが気になって仕方がないのだ。とても説教なんて一々聞いていられない。

 それに声も気になるが、『御前さん』があそこで見逃してくれたことも気になる。柚菜たちの話では、かなり厳しい人物との事だ。そんな女が、オレだけを特別扱いしてくれる訳がないだろう。さっきは助かったと安直に考えていたが、改めて考えると少し気味が悪い。

 

 ようやく説教から解放されて、オレは部屋に戻ってこれた。部屋から戻ってすぐにオレは、鞄に手をかける。そこから取り出したのは、ノートや教科書なんかではない。今日の戦利品だ。CDを取り出し、早速パソコンに挿入する。

 桜がパソコンや携帯電話を買ってもらったのが、高校に入学してからで良かった。入れ替わる前だったら、当然パスワードなど知らないのだからパソコン等を使えないで苦労しただろう。

 イヤホンを挿し、音楽を聴く態勢が整った。ピアノの穏やかな前奏が十秒ほど続き、歌が始まる。この明るく可愛い歌声と前向きな歌詞が、このグループの持ち味だ。さっきまでの嫌な気分が、すっかり晴れてしまった。

「あぁ!」

 思わず、大きな声が出てしまった。そうだ。この声だ。さっき聞いた『御前さん』の声は、このボーカルの声に似ているのだ。これで、胸のしこりが取れた。

 もしかすると、本人かもしれない。と一瞬考えてみる。聞けば聞くほど似ている気がする。ただ高いだけならともかく、ここまで高くて可愛い特徴のあるものと似ている声がざらにあるだろうか。オレの生まれの田舎町ならともかく、こういう東京という人の集まる場所ならもしかしたら。

「アホか」

 小さな笑いが漏れる。いくら何でも似ているだけで本人なんて事はないだろう。もしそうだとしたら、あまりにも世界が狭すぎる。いくら無名のグループとはいえ、そんな身近に歌手グループなんているものか。

 何より、イメージに合わなすぎる。昨日のオレと不良グループとの喧嘩を止めたまさに『冷酷な女帝』と言わんばかりの『御前さん』と、このいかにも女の子らしく可愛いボーカルが同一人物なんて、へそで茶どころかシチューでもできてしまいそうだ。

 一通り聴き終わったところで、音楽プレイヤーにCDの音楽を同期させる。入れ替わりの弊害とでも言おうか、このプレイヤーに入っているのは桜の好きな曲でオレの好きな曲ではない。オレはあまり興味の無いものが身近にあるのを不快に感じる人間なので、元の曲を消してしまおうと思っている。しかし、それではプレイヤーの中身が寂しくなってしまう。元のオレのプレイヤーの中身をある程度取り戻すまでは、肥やしとして取っておこう。

 同期している間に、今日買った漫画を袋から取り出す。桜は殆ど漫画を読まないのか、オレがこうして買うまでは寂しい本棚だった。これから桜として生きていくのなら、オレらしい本棚、プレイヤーにしていこう。なんて決意をした時、丁度同期が終了した。

また池袋に行きたいなぁ。

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