紫苑色の病院
思いの外行き詰ってます。2話でこれって大丈夫なんですかね……。
我に返った所で、ようやく現状が呑み込めた。オレは助けた少女、桜とかいう名前のと入れ替わってしまった様だ。助けたと言っても、突き飛ばしでもした拍子に地面にぶつけたのか、頭には包帯が巻かれている。
さて、では元のオレの身体はどこにあるのだろう。多分桜はオレの身体の中にいるのかもしれない。お互いのためにも、会って話をしなければならないだろう。
頭を怪我した事と、つい
「桜って誰?」
と口に出してしまった事は、むしろありがたかった。医者や桜の両親は、オレが記憶喪失だとみなしてくれた様だ。
ただ、医者というのは面倒なものだ。こっちが記憶が無いと言っているのだからさっさと記憶喪失と片付けてくれればいいのに、いくつも質問をしてくる。まぁ、人の命を預かる仕事ならそうもいかないのだろう。
しかし、これまでの桜についての事は
「分かりません」
の一択で済むのでそう難しくなかった。
桜の母親が言うには、かつての桜は吹奏楽部に所属する文武両道の人気者だったらしい。面倒な奴と入れ替わったものだ。
しかも吹奏楽部か。オレには音楽の心得がないと言うのに。小学校の頃、リコーダーが上手いこと吹けずオレだけ発表会でトライアングルを叩く羽目になったのは苦い思い出だ。
母親が更に何か言おうと口を開いたところで、一度にたくさん頭に詰め込んでは混乱する、と桜の父親らしい男が止めた。それで、これ以上は聞けなかった。
とりあえず後何日か入院する必要があるらしい。目を覚ましたばかりで無理をさせてはいかん、と医者が言うので、桜の両親とスーツの男は今日は帰ることになった。それでやっとオレは落ち着くことができた。
改めて見るとこの桜という少女、かなりの美人だと思う。穏やかそうな二重の瞼にすっと通った鼻、控えめながら綺麗な色と形の唇。肩ほどの黒髪は、よく手入れされているのか艶がある綺麗な髪だった。
オレの学生時代でも、こんな美少女はいなかった。これで母親の言う通り文武両道なら、さぞ敵が多かったことだろう。つくづく面倒な女と入れ替わったものだ。
部屋の外で、桜の母親と男の声が聞こえる。何を言っているかまでは分からなかったが、良い雰囲気ではなさそうだ。
ところで、あのスーツの男は何者だったのだろうか。何か言いたそうにして、結局何も言わなかった。
父親かとも思ったが、父親は母親の隣にいたので違うだろう。事によると、桜は何か大きな事に巻き込まれているのかもしれない。
その内、トイレに行きたくなってきた。両手足が健在なおかげで自由に動けるので、ベッドを降りてトイレに向かう。
ベッドを降りようとして、体勢を崩してしまう。そういえば、白衣の男が病み上がりとか何日も寝ていたとか言っていた。
なるほど、身体を動かしづらいのは入れ替わった不慣れな身体というだけが原因ではないらしい。
それでもどうにか身体を動かし、歩いて病室のドアを開ける事に成功した。
外に出てすぐ、トイレの場所を示す看板が見つかった。これは良かった、と足を速めると、盛大にすっ転んだ。不慣れな身体だと忘れていた。
床にぶつけた膝や肘をさすっていると、
「ちょっと、大丈夫?」
と誰かの声が後ろから聞こえた。振り向くと、若く中々綺麗なナースが心配そうな顔をしていた。
オレはきまりが悪くなり、苦笑いを浮かべトイレに行きたかったのだ、と話す。
ナースは気をつけてね、とだけ言ったので、オレは適当に返事をしてトイレに向かう。ドアを開けようとすると、いきなり手を掴まれる。
何するんだ、と振り返ると、さっきのナースがいた。
「そっちは男用。貴女が使うのはこっちよ」
ナースは女子トイレを指差す。オレが向かっていたのは男子トイレだった。
いよいよオレの頭の怪我を心配している様なので、急いでいてつい間違えたのだ、と言い訳する。ナースは変な顔をしていたが、それ以上は何も言わずに歩いて行った。
しかし女子トイレ。男のオレが入ってしまって良いものか。いくら身体は女とはいえ、悪いことをしている様だ。入った途端に
「何で男が女子トイレに入るんだ!」
などとは言われまいが、やはり抵抗がある。しかしいつまでもトイレの前で立ち往生している訳にもいかない。
どうか誰も入っていないように。そう願いながらドアを開ける。
これでやっとスッキリした。せめて誰もいなければ幾らか背徳感も薄れるだろう、と思っていたが誰もいなかったため、心配は杞憂に終わった。
冷静に考えれば、女と入れ替わった男が女子トイレに入って来るなんて普通は思わない。最初からいらぬ心配だったのだ。
男と女で勝手は違ったが、どうにか用は足せた。やれやれ、と安堵の息が漏れる。
手拭き用の薄紙で手を拭きながら、何の気なしに鏡を見る。鏡の中では、少女が一人手を拭いている。それがオレだと分かるのに少し時間がかかった。そうだった、と溜め息をつきながら頭を掻く。
その時、男が一人オレの後ろにいるのに気づいた。いつ入ってきたのか。ドアが開く音など聞こえなかったが。それに、ここは女子トイレの筈だ。現に桜と入れ替わったオレがナースに連れて来られたのだから。
オレの親父より少し若い位の男だ。まだボケる様な年齢には見えない。ならオレと同じで異性と入れ替わった元女か、と思ったが、コイツは違う。まとわりつく様な気持ちが悪い笑みを浮かべ、オレのことも舐める様に見ているコイツが元女だなんて、世の女に対する侮辱だ。
男はオレに顔を近づけ、身体を触ろうとした。
「何だテメェ!」
男の気持ち悪さが我慢できず、つい大声を出してしまう。男は驚いた様で、跳び上がった。そのまま逃げてしまう。いい気味だ。
都会という所は、つくづく変な奴が多いと溜め息をつく。しかし、確かにこの桜という少女、触りたくもなる位の美少女だと鏡を見て思う。
単に顔がいいばかりではなく、胸など豊かであるべき所は豊かで、引っ込むべき所は引っ込んだ女性らしく発達した肢体だ。
尤も、その劣情を理解はしても、納得してやるつもりはない。オレの心は男であり、男にいいようにされるのは嫌だ。加えてこの身体は、オレの身体ではないのだ。訳の分からない男にベタベタ触らせては、桜にも申し訳ない。
ドアを開けると、さっきのナースが立っていた。話を聞くと、大声が聞こえたのでどうしたのかと思ったそうだ。
オレは、さっきの男のことを話す。しかしナースは、そんな男は出て来なかった、と言う。
そんなはずはない。声を聞いて駆けつけたのなら、出会っていないはずはないのに。
本当に知らないのか、と顔を近づけて詰め寄ると、
「那須野さぁん」
別のナースが手招きして呼んでいる。那須野と呼ばれたこのナースはもう一人の元に向かったため、これ以上は聞けなかった。
どうせ部屋に戻ったところでやる事はないのだ。しばらく病院探索と決め込むことにした。
フラフラ歩いている内に、変な男を見つけた。清潔であるべき病院には不似合いな、薄汚い男だ。服など江戸時代の町人が着るようなのを汚したようなボロで、頭には白が数本。あんな奴、よく病院に入れたものだ。
その男が、病室へ入っていくのを見た。あんな男、入った時点で見舞いの者なり医者なりに追い出されそうなものだが、その病室から特に騒ぎ声が聞こえない。
奇妙なものだと思い、つい男が入った病室から目が離せなくなる。
そのまま歩いていると、何かとぶつかった。オレは尻餅をつく。
「す、すまない。大丈夫か?」
顔を上げると、前に公園で見かけた剣道少女が心配そうにオレに手を差し伸べる。
「あぁ、大丈夫だ。こっちこそごめん」
その手を握り、ゆっくり立ち上がる。またコイツと会うとは、何かオレとの間に縁でもあるのだろうか。
それ以上何かを話す事はなくそのまま別れた。
皆様の肩に白い手が、などどいう事がありませんように。
ちなみに那須野さんの下の名前は"にもの"さんです。私は茄子は嫌いですが……。