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第六章 自我の崩壊

  第六章 自我の崩壊



 櫻姫を私が刺したことはすぐに表に知れた。

 唯信様はすぐに駆け付けた。

 その惨状を見て絶句する。

「これは……」

 貴姫の部屋が一面血の海なのである。

 当事者のうち、一人が即死し、一人は気を失っている状態。

 何とか意識を保っていた侍女が、唯信様の質問に答えていた。

「櫻姫様が……」


 状況を確認し、唯信様は家来たちに指示を出していた。

 そしてこの部屋を開かずの間とし、別の部屋を貴姫のために準備することとした。

「貴姫……」

 私のありようが、櫻姫を追い詰め、貴女を危険な目に合わせた。

 唯信はそう思っていた。

 先に手を出したのは、櫻姫。

 貴姫はそれを受け、自身の身を守ったに過ぎない。

 だが、嫡男の母を殺したこと、その責は問われるだろう。

「貴姫……」

 唯信様は返り血を受けたままの状態の私を抱きしめていた。


「唯信様?」

 私は別室で目を覚ました。

 すでに衣装は新しいものに変えられ、綺麗な寝所に横たわっていた。

「わたくしは……」

 先ほどのことを思い出す。

 体がぶるぶると震えた。

「わたくしは、わたくしは……」

 震える手を握りしめた。

「……わたくしは、櫻姫を亡きものとしたのですね」

 その言葉に対し、

「貴姫、そなたは我が身を守るためにしたこと。罪に感じる必要はない」

 唯信様はそうおっしゃってくれた。

 が、私は納得できなかった。

「わたくしは、櫻姫に手をかけたのですね? そして桂丸の母を永遠に失わせることになってしまったのですね?」

「貴姫……」

 唯信様は、私を抱きしめた。

 無言で、抱きしめていてくれた……。


 城内では、佐久田家の者が、私の罪を厳しく言及したらしい。

 唯信様は何もおっしゃらなかった。が、私の盾となってくれていたことを侍女たちから聞いていた。

「先に手を挙げられたのは、櫻姫――。貴姫様は御身を守ろうとしただけだと――」

 そう聞いて、夫に感謝したくなった。

 だが、そのままでは、家臣たちに亀裂が生じてしまうことも、私は理解していた。

 何とかしなければ……。


 ――お前の望んだ未来ではないのか? 

 もう一人の私がつぶやく。

 ――櫻姫はもう居ない。唯信様はそなたのもの

 こんな形で手に入れたくはない。そして、あの方は私一人の者ではない。

 ――本当にそうか? あの方の心はそなた一人に向けられる

 いいえ、あの方の心は、領地と人民に向けられるもの。

 ――では、おまえは、一生苦しむのであろうな

 苦しむことはない。それは、わたくしの望みなのだから。

 ――本当にそうか? お前は独り占めにしたいと思っているはず

 そのようなことはない。安寧こそ、我が望み。

 ……ふふふと笑って、もう一人の私は、姿を消した。


 はっと目を覚ます。

 ここは、部屋替えした私の寝所。

 冷や汗をかいて起き上がった。

 隣に横になっているのは、夫の唯信様。

 この方は、何も言わない。

 だが、苦しい立場にいることは、想像できる。

 では、私にできるのは、いったい何なのか――。

 私の頭に浮かぶものは、何もなかった……。


 私は与えられた部屋から一歩も出なかった。

 評定の裁定が下るまで、謹慎をしていたのである。

 佐久田家の者たちは、追及に容赦ない。

 評定の場で、こう言ったそうである。

 貴姫は、我が子櫻姫を殺害する際、笑っていた。

 と……。


 私が笑っていた?

 櫻姫を殺した際に?

 思い出せなかった。

 わかることは、必死に逃げていたこと、そして、咄嗟の行動だったことだ。

 考えに耽っていると、心の内からもう一人の私の声が聞こえた。

 ――お前は、笑っていたのよ

 うそよ。

 私はそう返答した。

 ――いや、笑っていたのだ

 なせ、笑っていたなどと……。

 ――それは嬉しかったからに決まっている

 嬉しい?

 ――そうよ、櫻姫という邪魔者を、己の手で消せることに

 櫻姫は邪魔者ではない。

 ――本当にそうか? お前は櫻姫を嫉妬し、憎んでいたではないか

 え? そんな感情を持った覚えはない。

 ――善人ぶるつもりか?

 そんな……。

 ――確かにお前は櫻姫を嫉妬し、憎んでいた。

 ……。

 ――お前は喜んでいたのだ。その手でその相手を殺すことが出来て

 うそよ。

 ――歓喜していたのだ

 うそよ!

 ――だから、笑えたのではないのか

 私は、笑って、いた?

 その時の情景が目の前に広がっていた。

 もう一人の私の声で、呆然としていた姿が、笑みをたたえた姿に切り替わる。

 ……私は、笑って、いた?

 笑って、いた……。

 心の内のもう一人の暗き声は、くつくつと笑っていた……。


 私は、食事が喉を通らなくなっていた。

 薬湯で体を持たせていたようなものだ。

 そして、私の中のもう一人の声が、日増しに大きくなってゆく。

 狂った声で、私をなじる。

 ――人殺し!

 また声が私に届く。

 ――お前は、人を殺す喜びを味わえたのだ

 喜んでなどいない。

 ――そうか? ではなぜ笑えたのだ?

 笑った覚えなどない。

 ――本当にそうか? 自分でそう思いたいだけではないのか?

 ……違う、違う!

 ――お前は、人を殺して喜んだのだ

 違う!!

 ――否定すればするほど、それは真実となってゆくのう

 ……。

 ――ふふふ、人を殺した事実は消えぬからのう

 ……。

 ――お前は、鬼の仲間入りをしたのじゃ。認めねばのう

 鬼、だと言うの……?

 暗き声は、私の暗い部分をつき、囁く。

 私は、心が大きくきしみだしていたことを感じていた。


 唯信様は、私の居室に入ると大きなため息をつかれた。

 お疲れになっているのだ、それも私のことで。

 申し訳なく思う。

 毎日、毎日、私のことを悪しく言う家臣を落ち着かせるために必死なのであろう。

 ……私はこの方の足枷にしかならない。

 このことを認めなくてはなるまい。

 この方の理想の治世を造るためには、私は存在してはならないのだ。

 私は、黒き汚点。

 穢れはあってはならないのだ。

「どうした、貴姫?」

 無言でいた私に、唯信様はそう問いかけられた。

 私は何も言えなかった。

「貴姫?」

 再度問いかけられる。

 私は両手を握りしめ、言葉を紡いだ。

「……わたくしを、捨て置かれませ」

 唯信様は虚を突かれた顔をされた。

「何?」

「わたくしを捨て置かれませと、そう申し上げました」

 私は顔を上げて、唯信様を見てそう言った。

「そなたは……何を言っているのかわかっているのか?」

「よく存じております」

 すかさず、そう言った。

「私は言ったはずだ、私の正室はそなたのみだと」

「はい、覚えております」

 忘れもしない。あの言葉は、私にとっての宝物だ。

 だからこそ。

 それを無かったことにしなければならないのだ。

「わたくしが貴方様の正室である限り、常に佐久田家の離反について考えなければなりませぬ。佐久田家は阿津宜氏の重鎮、手放すことは出来ませぬ。であるならば、わたくしを捨て置き、新たな正室を迎えられませ」

「……できぬ」

「わたくしは既に穢れたもの。貴方様の隣には立てませぬ」

「……認めぬ」

「できる出来ない、認める認めないの段ではなく、これは事実でございます」

「貴姫!」

「これはお家のためでもございます。どうぞ、わたくしを放逐くださいませ」

「貴姫……」

 私は泣き笑いに近い表情になっていた。

「わたくしは弱い人間でございます。もう、わたくしのことで悩む貴方様を見ていられないのでございます。そして、わたくし自身、人殺しの名を背負って、この城の奥を率いること、この城にいることが耐えられなくなっているのでございます。わたくしが居ては、家臣はついて来ませぬ。……わたくしのことなど放逐し、新たな正室を迎えられませ」

 私は、唯信様に向かって両手をつき、頭を下げた。

 顔を上げることは出来なかった。

 唯信様が静かに部屋を出ていくのがわかった。

 それでも、顔を上げることは出来なかった……。


 あれから何日がたっただろう。

 唯信様は私の部屋へ寄らなくなった。

 城の者たちの噂も耳に入ってくる。

 ――ご正室が、見限られたらしい、と。

 それでよいのだと思う。

 私はあの方の元には居られない。

 居られないのだ。

 これからの身の振り方を考えなくてはならない。

 そうしているうちに、また、もう一人の私が顔を出してくる。


 ――ふふふ、見限られたらしいな

 それは、私が望んでのこと。

 ――本当にそうか?

 あの方のためにならないことは、私にはできぬ。だから、私から申し出た。

 ――そうなのか? てっきり見捨てられる前に自分から切り捨てたといったように見えるが

 何とでもいうがよい。私の道はこれでよいのだ。

 ――そうか? 未練があるように見えるが?

 黙れ!

 ――ふふ、図星であったようだの

 ……。

 ――さて、そなたの夫はどのような決断を下すかの?

 あの方は正しき決断をして下さる。

 ――そうかの? 人は時に愚かな決断をするものだて。それをあの者がしないという保証はないぞ

 ……。

 ――楽しみに結果を待とうかの

 私は何も言えなかった。


 唯信様が私の部屋を訪ねてきた。

 私が放逐を迫って以来のことだった。

 私は両手をつき、頭を下げて、唯信様を迎えた。

 そして頭を下げたまま、動かなかった。

「貴姫」

 唯信様が私に語り掛けた。

「そなたは既に奥を支えている身。これからも支え続けよ」

 この言葉に、私は目を見張った。

「そなたは私の正室、この城では、もう『お方様』なのだ。それを忘れるな」

 私に、このままここで在り続けよと言う。

 それでは家臣たちが納得しない。

 私は顔を上げた。

「唯信様……」

「貴姫」

 呼びかけの声が重なった。

 私は、唯信様に言葉を譲った。

「佐久田には何も言わせぬ。言わせはせぬ。櫻姫は乱心し、そなたは、ただ自分の身を守ったにすぎぬ。堂々としていればよい。……よいな」

「唯信様……」

 それでは駄目なのだ。

 佐久田家は身内が殺されたのである。

 戦場ではなく、城内で。

 娘が、妹が、仕えるべき主人の妻の手によって。

 唯信様は佐久田家を抑えるつもりでおられるが、それは難しい。

 反感を持ちながら、その相手に仕えるなど、できるのであろうか。

 常に裏切りの種を懐にしまっているようなものだ。

 これでは綻びが出来てしまう。

「唯信様……」

 私は唯信様に呼びかけた。

「今のお話、わたくしは首肯いたしかねます」

「貴姫、もう決めたことだ」

「わたくしが争いの種になってはならないのでございます」

 私は手をつき、頭を下げた。

「どうか、ご再考を」

「もう決めたことだ」

「ご再考を」

「くどい!」

 唯信様は言葉をばさりと切った。

「そなたは、我が正室として、私の側に居ればよい。よいな」

「唯信様……」

 唯信様は私を抱きしめた。

 ありがたく、喜ぶべき言葉なのに、私は素直に頷けなかった。

 嬉しさをそのままに、是と言えたのなら、どれほど楽だったろう。

「もう、泣くな」

 唯信様はそう言い、私の涙を拭った。

 嬉し涙だったら、どれほどよかったか……。

 私は、唯信様の言葉から、自分の取るべき行動を見定めていた。

 それは、取りようによっては卑怯な逃げかもしれなかったが、その道しかなかった。


 唯信様が仕事で表に出ている間、人払いをし、自室に一人籠った。

 尼僧になることもできず、城を出ることも許されなかった。

 自分が何をなすべきか。それはわかっていた。

 自分の正面にあるのは化粧台。

 その真ん中には鏡があった。

 自分の顔をじっと見、化粧をし直す。

 口に紅を重ねた。

 これが、己を見る、最後の時か……。

 そんな思いが交錯する。

 最後に見たものに、自分の想いが宿ると言う。

 ならば、私の想いが宿るのは、この鏡なのであろう。

 しばらくじっと見つめて、席を立つ。

 そして、部屋の真ん中に座した。

 懐から出したのは、懐剣。

 嫁入りの際、嫁入り道具と一緒に持参したものである。

 それを鞘から抜き出した。

 鋭い刃だ。よく切れるであろう。

「唯信様、わたくしは貴方のお言葉に添うことは出来ませぬ。許せとは申しません。ただ安らかに、桂丸様とお過ごしくださいませ……」

 そう言うと、勢いよく、首筋を切った。

 血があふれて出てくる。

 遠のく意識に私はふわりと笑った。

 ――これで解放される

 広がる血だまりの中でそう思った。

 ――鏡よ、我が一族を見守っていって……

 私は、こと切れた。

 そして思いは、鏡に託される。


 だがそれは、その時を境に、私のあるべき心が沈み、裏の心の立場が逆転し表面に途上してきた。

 ――鏡は狂気をはらんでいたのである……。




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