第一章 繰り返される悪夢
第一章繰り返される悪夢
「実はこのようなものがありまして……」
そう言って男性は手に持った風呂敷包みを広げようとした。
それを見て、庚は奥にある応接席へ案内する。
「詳しくはあちらでお伺いします。どうぞ」
二人は店の片隅にある応接席へひとまず落ち着いた。
「まずは、お名前をお伺いしても?」
庚は、相手を見ながら、手にしたチェックシートに筆を滑らせる。
「大変失礼しました。『こんどうたもつ』と申します」
「漢字はどのような字を?」
「新選組の近藤勇の近藤と、保険の保の字でたもつと読みます」
庚はチェックシートに文字をさらさらと書いていく。
「わかりました。私はこの店の店主、響谷庚と申します」
それを聞いて、近藤は驚いた。
「あなたが店主? 随分と若い……」
当然の問いと、庚は回答を返した。
「昨年、先代が亡くなり、私が後を継ぎました。継承すべき事柄はすべて受け継いでおりますのでご安心を」
近藤氏は納得していないような顔をした。
それを見て、庚は一言。
「安心して任せられないとお思いならばお帰りになられて結構です」
その言葉を聞いて、近藤ははっとした。
方々を訪ね歩いて、最後に行きついたのがこの場所だ。
任せられるのは、この正面にいる女性しかいないのだ。
「失礼しました」
近藤は素直に頭を下げた。
「それでご用件は?」
庚の声に、はっとした顔をして、近藤は風呂敷包みに手を伸ばした。
「これを見て頂けますか?」
そう言って風呂敷包みを開けた。
中からは桐箱が出てきた。
紐で四方を結んでいる。
近藤が紐を解き、桐箱の蓋を開けた。
中から出てきたのは、古い丸いものだった。
「これは……鏡ですか? 確認しても?」
そう言って庚は手袋をはめ、中にあった物体を手にする。
戦国時代後期に使われた鏡のようだ。
鏡の裏面には装飾が施されている。
用心深く品を観察する。
特に変わった点は無いように見える。
「一見、普通の戦国時代、安土桃山時代の鏡にも見えますが……。これがどうかしましたか?」
「実は……」
近藤が語りだした。
話の内容としてはこうだ。
二か月ほど前、古い蔵の片づけをした。
もとは古い商家でもあり、豪農でもあった。
それゆえに、物も多く、また年代物も多かった。
それ幸いに、古物商に品々を売ろうとした。
他の品は値段がついて、古物商に引き取ってもらえた。
だが、この鏡だけはだめだった。
なぜか、古物商に見せる段階になると忽然と姿を消し、蔵に戻ってしまう。
蔵の中で価格の相談をしていると、蔵から離れた家の母屋の保氏の母の部屋に移動しているという。
普通、ありえないことが起こっているという認識はあったようだ。
不気味に感じつつ、お祓いや霊能力者に頼ってみたりもしたらしい。
それでも、現象は改善されない。
それどころか事態は悪化した。
隠れ蓑とした保氏の母、清子の部屋に居続けるようになった途端、清子氏が悪夢を見続けるようになったらしい。
「夢の内容としては、着物姿の女の体に乗り上げ、首を絞め、小刀を振りかざしているそうなんです」
そう近藤氏は言葉を続けた。
「毎夜同じ夢を見るそうで。早朝に響く母の悲鳴で、家族は全員朝を迎えます」
疲れ切った様子でそう言葉を口にしていた。
「では、今日はどうやって、鏡を宥めたのですか?」
そう言われて、近藤氏ははたと気が付いた。
「あなたの敷地内から離れるというのに、鏡はあなた手の中にいる。何か原因は考えられませんか?」
近藤氏は、うーんと唸る。
「これといって、変わったことはありません。……そうですね。思い当たることといえば……今回は売り払うつもりで持ち出したのではないということでしょうか」
「なるほど」
フムフムと言いながら、庚はチェックシートに記入していく。
「一つ確認したいのですが……」
庚は言葉を吐いた。
「この鏡は、もともと別の箱に入っていたのではないですか? その箱はどうしました?」
それを聞いて、近藤はぽんと膝を叩いた。
「確かにそうです。ボロボロになった箱に入っていましたので、この箱に移し替えを。前の箱は焼却処分しました」
これを聞いて、庚は思わず天を見上げてこう呟いた。
「……ジーザス」
推測ではあるが、おそらくその箱は封印の役割をしていたはずだ。
だから今まで、超常的な現象は起きなかった。
その箱がないとすると……。
元の封印を予測して再度構築する必要が出てくるだろう。
近藤氏の自宅に品を戻す場合は。
「元の箱のかけらもないんですね?」
念を押して聞いた。
「ありません」
絶望的な回答がこともなげに返ってくる。
「……わかりました」
自分がすべきことを考慮して思わず溜め息を吐きたくなった。
どうにかその行動を飲み込み、近藤氏に問いかける。
「この品は、しばらくお預かりしても?」
「もちろんです」
即答が返ってくる。
相手としては、頭を悩ませていた品が手元から去るのである。
即答で返ってくるはずだ。
庚は連絡先を聞き取り、初見料と預かり確認代を相手から受け取り、品を一時預かりとした。
近藤氏からは、品が手元から離れた際の、その後の状況確認を電話で連絡を貰うこととし、第一回確認はこれで終了した。
近藤は何度も振り返り、店に対して会釈をして立ち去ってゆく。
近藤氏自体は悪い人ではないことが、この態度でも良く分かる。
だが、だが――。
この鏡に対しての対応はいかにもお粗末ではないか。
庚はそう言いたくなった。
「どうするのかしら?」
「どうするのでしょうね?」
近藤氏が居なくなると、途端に骨董品たちは会話をしだした。
「お預かりということは、ここで観察?」
「観察?」
ワクワクといった感じで会話をしていた。
「どうなるのかしら?」
「何か出てくるのかしら?」
会話は続く。
あーでもない、こーでもないと会話は尽きず……。
「やかましい!」
庚の本日二度目の一喝がこうして繰り広げられるのであった。
庚は夕飯を済ませた後、店に戻ると応接席に座った。
両手に鏡を掲げ、じっと見つめる。
鏡の中には自分の姿が映っていた。
(お前は、いったい何を言いたい? 何を抱えているんだ?)
そう心で問いかける。
だが、何も回答は返ってこない。
(何が望みだ?)
静まり返った店に、ポツンと庚の姿があった……。
庚には物体の持つ意思を読み取る力がある。
そして悪しきものを封印する力も。
これは、響谷家に代々伝わる力であった。
どのように力を扱えばよいのか。
幼いころから父に叩き込まれていた。
その力があって、響谷家は今に繋がっているのである。
現在その力を使えるのは、後継者は、庚唯一人。
だから、この店を離れるわけにはいかないのである。
応接席のソファで、庚はじっと今回の依頼品の鏡を見つめた。
預かって初日である今日は、鏡に何か変化があるか、直接確かめようというのである。
じっと鏡とにらめっこ。
そのまま朝を迎える可能性もあったが、それも承知の上で、現象を確認しようとした。
結果――
初日は何も起こらず。
じっと鏡を見つめたまま、朝を迎えた。
こういった品は、環境が変わると警戒して現象を起こしづらい。
お互い様子見といったところか。
だが、何か、肩透かしを食らったような印象は否めなかった。
「あら、何も起こりませんでしたのね」
骨董品のティーポットが言う。
それに対して、中国茶器が言葉を返す。
「初日から暴れた場合、相手の力が大きいってことでしょ? 今回はこれでいいのよ」
「同感」
「私たちの場合は、初日から大暴れさせてもらったと記憶しているけど?」
「それはそれ。相手がそれでなければいいのよ」
「自分のことは棚に上げて?」
「まあまあ」
茶器がそれぞれの思いを吐露する。
確かにこの茶器たちは、ここに来た際、初日から大暴れしてくれた。
大陸渡りの力の加減を知らない巨大台風だったわけだ。
「まあ、昔のことですし」
澄まして茶器は言葉を伝えるが、庚は苦笑いだった。
父と庚でこの台風を封じ込めたのである。
大変な作業だったと記憶しているが。
今はおしゃべりが好きな可愛い? 茶器となっている。
「ねぇ、マスター、今日もトライするのでしょう?」
「そうだが」
「私達、観察してもいい?」
茶器がワクワクしたように言う。
「駄目だと言っても観察する気だろう。……かまわない」
「やったあ」
「マスターの苦悶する顔も見れるの?」
「それもまた、悶絶ぅ」
「おい、お前達いい加減にしないか」
庚は疲れた声で茶器たちにそう言葉を返していた。
庚は、近藤に連絡を取った。
静子氏の状態を知るためである。
「今日は正常に睡眠できたらしい。悲鳴も聞こえず、穏やかだったよ」
そう保氏は答えていた。
これからするに、夢の要因は、やはりあの鏡が近くにあったため、鏡の持つ力に引きずり込まれてしまったものと考えてよいのかもしれない。
現象確認は次の日に持ち越しになった。
――二日目
この日も現象の再現は無かった。
よほど用心深い対象のようだ。
鏡は沈黙を通している。
庚は、テーブルにある鏡を凝視した。
自分しか映っていない。
そこであることに気付く。
――あれ、背景は?
自分の顔が映っているが、その背景にある骨董品たちが映りこんでいないのである。
(どういうこと?)
庚の中で疑問が膨らんだ。
昨日まで確かに普通の鏡の状態だった。
保氏も、骨董品たちも映し出されていた。
だが、今は違う。
――もしかして、鏡が力を徐々に発揮しようとしている? となれば、鏡に映しだされた『人物』が現象の対象者となる?
そういう疑問がわいてきた。
保氏は、鏡に何度も触れている。
だが、悪夢という影響は受けていない。
夜間、鏡の近くにいなかったということも原因として挙げられるが。
さて今夜は、何が起こるか?
期待を込めて、確認することにした。
結果――何も起こらず。
意気消沈といったところだが、思い直して考えてみる。
現象が起こっているのは就寝してから。
今までの現象は『悪夢を見る』という内容。
ならば、自分も就寝して現象が再現されるか確認してみるべきではないのか?
明日は寝て確認してみよう。
そう考えた庚だった。
――三日目
応接席のソファを簡易ベッドに変え、庚は横になった。
自分を実験台に、清子氏と同じような体験ができるのか、検証してみようというのである。
もちろん危険があるのは承知だ。
だが、自分は潔斎もしているし、護符もある。
今までの話の内容として、それ以上の状態にはならないだろうという予測もあった。
隣のテーブルには、例の鏡がある。
曇り一つなく、磨かれた鏡。
今は自分しか映らない鏡。
これは私にどのようなものを見せるというのであろう。
店には代々の店主が張った結界がある。
結界外には影響はしないであろう。
毛布を首の部分までたくし上げ、眠りについた。が……
庚は快眠して起きた。起きてしまった。
現象は再現されず。
現象が現れない限り、対応のしようがない。
庚と鏡の根気比べが始まった。
――四日目
またもや、すっきりと起きてしまった。
期待すべきか、半分諦めるか?
それこそ、いっそのこと、母屋と静子氏の要因による現象と結論付けた方がよいのだろうか?
そう思ってしまった庚だった。
が、まだ始まって一週間も経っていない。
諦めるにはまだ早い。
結論を急ぐべきではない。
自分しか映っていない鏡を改めて見る。
ターゲットは自分であると思われるのに……。
動き出さない相手に庚はどう対策をすべきか案を講じる。
今夜も現象の再現にトライすることを決め、ソファベッドで休むことにした。
――五日目
それは突然に変化が起きた。
「ねえ、あれって何なのかしら?」
ソファベッドの様子をうかがっていた茶器が、こそっと言葉を吐く。
「あれって、あれのこと?」
鏡からもやのようなものが出ていることに気が付いたからである。
「あのもや、やばくないかしら?」
「でも、マスターはそれを承知で今回の件トライしているのよね?」
「このまま放置でいいんじゃないの?」
リーダー格の茶器が言った。
「あれ、まずいわよ。わたしたちの奥底にある暗い部分に共鳴している。この反応ってことは、元の私たちの同類って事かもよ」
「じゃあ、マスターを起こさないと……」
茶器たちは、青くなっていた。(感情を茶器から読み取れればのことだが)
「みんなで声を合わせるわよ」
(せーの!)
「マスター!!」
その声の大きさにもやが一瞬ひるんだ。
そして庚が目を覚ます。
目の前のもやを見つけると、もやと正対した。
すると、もやはスーッと鏡の中に消えて溶けた。
「お前達!」
庚は茶器に対して言う。
「これは待ち望んでいた現象だというのに、水を差すか!」
「ですが、あれは危険です」
茶器たちは負けずに反論する。
「あれは私たちと同調しようとしました」
「それができるということは、わたしたちと根本が同じというわけでは?」
「ならば、マスター一人で対処するのは危険です」
それを聞いて、庚は一言。
「つまり、お前たちは自分が狂暴だったという自覚があるのだな?」
「はいぃ!」
茶器たちは声をそろえて返事した。
庚は頭を抱えた。
「わかった。では、対応策を考えて、改めてトライすることにしようではないか」
茶器たちの言葉を信じ、明日(すでに今日か)改めて対策を練ることとし、現象を起こしかけた鏡を箱にしまうとテーブルに置き、庚は店内から自室へ移動した。
――不足した睡眠を取るために。
庚は、不足分の睡眠を補充すると、知人の霊能力者に連絡を取った。
「法人、あの、私だけど……」
電話口で言葉を続けようとしたが、大声で遮られた。
「庚! お前! 無事か!」
「はぁ?」
思わず聞き返した。
久々の連絡の第一声がこれである。聞き返したくもなる。
「ちょっと、いったい、何のこと?」
「いいか! お前の親父さん、榊さんが今朝、俺の枕元に立った。庚のバカが突っ走っているから、助けてやってくれとさ。頼むと頭まで下げられた。あの親父さんにだ。……お前何をやっている?」
亡き父親の榊が、法人の枕元に立った?
驚くべきことであったが、納得できないこともある。
バカが突っ走っている?
言い様にもほどがある。
バカをしているつもりは無い。
通常の手順を踏んでいるつもりだが。
それを納得できないというのであれば、法人の元ではなく自分の枕元に立つべきだろうが!
不満が囂々と出てくる。
よりにもよって、法人の元に出るとは。
心配性なところもある法人。このまま大丈夫と言っても引き下がらないことは目に見えていた。
「今やっていること? ちょっとした調べもの」
「で?」
「で? とは?」
「続きを言えと言っている」
「何で? 依頼を受けたのは私よ」
「榊の親父さんの頼みだ。引き受けないわけにはいかない。続きを」
「だから、依頼品を預かって、調べようとしただけよ」
「かーっ、要領得ない。よし、分かった。今からそっちへ行く。出かけるなよ、いなくなるなよ、逃げるなよ!」
「何なのよー!」
そう言っている間に、プツリと電話が切れた。
法人がああ言った以上、すぐにこちらに向かっているはずだ。
庚は無視したい気持ちも少しあったが、黙って紅茶を入れ、飲みながら待つことにした。
二時間後――
法人はケーキの箱を手にして響谷骨董具店のドアをノックした。
「庚~、開けてくれ~」
その声にドアを開けると……。
大荷物を持った法人が姿を現した。
「……なに、この荷物」
「いや~、長丁場になるかもしれないと思ってさ、とりあえず生活必需品、トランクに突っ込んで持ってきた」
「ちょっと、寺の三男坊が、いいの? 寺のおつとめは?」
「三男坊だから、いーのいーの。兄貴たちがちゃんとやってくれるだろうし。ほら、俺、あてにされていない三男坊だから」
かんらかんらと法人が言う。
威張って言うことかと庚は突っ込みを入れたくなったが、まずは、一息入れてもらおうと、店の中に案内した。
「いや~、庚の入れた紅茶ってうんめえ!」
「……あっそ」
法人が購入してきた、差し入れのケーキを食べながら庚が言った。
「褒めても何も出ないわよ」
「別に、紅茶をもう一杯入れてもらえば……」
庚は溜息を吐いて、紅茶を入れてやった。
「で? お前の調査の対象とは?」
「……お茶が終わったら話すわ。とりあえず、さっさと食べてね」
「おう!」
法人はケーキをパクパクと食べ、お茶を楽しんだ。
庚は法人のお茶の時間が切れたのを見計らい、今回の依頼のことをかいつまんで話した。
「んで、その品とは?」
「これよ」
二重の封印をしてある棚から、庚は鏡の入った箱を取り出した。
応接テーブルに箱を置くと、紐を解き放ち、蓋を開けた。
「これが、その鏡か」
「そうよ」
「どれ、俺も見せてもらうか」
法人も一応手袋をはめ、箱の中から慎重に鏡を取り出した。
「おい、これが鏡? 見た目はそうだが、何も映ってないぞ」
「やっぱり……」
「やっぱりって、こりゃ、どういうことだ?」
疑問を呈する法人に、庚は無言で近づいた。
「庚?」
庚は法人の後ろに回ると、肩越しに鏡を覗き込んだ。
庚の姿は、鏡に映りこんでいる。
「こりゃあ一体……」
法人は鏡の角度を変えてみるが、やはり庚しか映らない。
「どうなっているんだ?」
「さあ? 面白い現象でしょ?」
種も仕掛けもございません。鏡の意思です。
そういう問題だった。
「鏡に映っていなかったあの子たち(茶器)は、もやの影響を受けてないのよ」
「?」
「で、鏡に映った私は、もやに取り込まれようとしていたと言う訳。そのまま取り込まれていたら、現象を確認できたと思うのだけれど、あの子たちが止めたのよ」
茶器を見ながら、庚がそう言った。
「まあ、人生の先輩だからな、彼女たちは。なんせ付喪神だ。ありがたいじゃないか」
法人が言う。
付喪神とは、別に「九十九神」とも書き、長い年月を経た古い物品や長く生きた依り代に神や霊魂などが宿ったものを指す。荒ぶれば禍をもたらし、和ぎれば幸をもたらすとされる、言ってみれば、神の名の付く妖怪の類である。
ここ、響谷骨董店にある骨董品は、和ぎれたものたちである。
「さあ、どうでしょ。でもあの子たちの意見は尊重して、あなたに声をかけたのよ」
「なるほど」
そんな会話をしていると、茶器たちがワイワイと言い出した。
「人生の先輩なんて、いいこと言うじゃない」
「先輩って、いい響き」
「霊能力を持つ法人に言われるのって、いい気分だわ」
「言えますわねぇ」
「全くですわ」
「うふふふふ」
「何? 気持ち悪いじゃない」
「先輩という響きを堪能していたのですわ」
「ほほほ」
それを聞いて、庚が一言。
「やめんかい!」
結局、このような一喝を受けることになるようだった。
庚は、久しぶりに二人分の夕食を作っていた。
母は早くにがんで亡くなり、父は去年他界した。
それ以降、一人での食事が続いていたのである。
二人分の食事。
少しくすぐったくて、でも嬉しくて。
相手は超常現象繋がりの悪友? の法人という存在ではあったが、少し手の込んだ料理を作ってみようと台所に立っていた。
今日は何にしようか?
玉ねぎにひき肉、パン粉、クルトンにレタス、豆腐に油揚げがある。
思いついたのはハンバーグとシーザーサラダ。
ご飯はすでに炊飯器のスイッチが入っている。
あとは味噌汁だろうか?
「おーい、何か手伝えることあるか?」
台所の入り口に手をかけて法人が言った。
「じゃあ、大根おろし擂って。和風ハンバーグにするから」
そう言って皮をむいた大根とおろし金をどんとテーブルに置いた。
「へーい」
法人は椅子に座ると、おろし金で大根を擂り始める。
「でも、なあ。これって……」
法人は言葉を区切った。
「?」
庚にはその続きが読めない。無言で促した。
「……これって、見ようによっては『新婚夫婦』っぽくないか?」
それを聞いて、庚は背中がぞくっとした。――好感ではなく、悪寒が走って。
手にしていた包丁をくるりと法人の方に向けると、切っ先を法人の喉元に向けた。
「今、何と?」
これには法人も冷や汗たらたらである。
「だから、ええと……」
言葉が続かない。
「……なんでもありません」
「よろしい」
二人は無言で作業を続けていた。
出来上がったおかずをテーブルに並べる。
そして、常材として冷蔵庫に保管しているおひたしやあえ物も加えた。
ご飯、味噌汁も盛り、テーブルに置く。
法人は大盛りだ。
「いっただっきまーす」
「いただきます」
そう言って二人は食前に手を合わせ、箸を取る。
法人は出来立てのおかずに手を付けた。
「うんめえ」
そう言われて悪い気はしない。
庚はうっすらと笑みをたたえると、自分も食事に移った。
「和風ハンバーグのこのあんかけソース、どう作るんだ?」
とか
「ほうれん草の胡麻和え、ごまの量が適量でいい」
とか
「シーザーサラダのこの半熟卵、加減がいい。どう作るんだ?」
とか、いちいち食材に口をつけては感想を言ってくれる。
いつもは無味乾燥な食卓が華やいでいた。
食事の後、ひと風呂浴びた法人は、Tシャツとジーンズに着替え、勝手知ったる何とやらで、響谷家を歩き回っていた。
仏間にたどり着くと、仏壇の前に座り、そっと手を合わせる。
仏壇には若かりし頃の榊とその妻が写った写真が飾られていた。
(親父さん、俺に何をさせたいんだ?)
そう問いかける。
自分の枕元に立った榊。
法人は写真をじっと見た。
写真は法人に語りかけることもなく、笑顔で笑いかけていた。
「法人、私もお風呂あがったけど……」
そう言って庚が仏間に入ってきた。
部屋から立ち去ろうとして立ち上がっていた法人は、その姿にドキッとする。
普段は髪を結んで上げている庚が、今は風呂上がりで髪をおろしている。
庚の髪は、黒光りするようなストレートで艶があり、腰付近まで長さがあり、切りそろえられている。
そして湯上りの肌は、いつもより赤みを帯びている。
背は自分より低いため、見上げるような形になっている。
女性という部分を垣間見せられた気がして、法人は慌てた。
――あれは、『あの』庚だ。焦るな自分!
そう言い聞かせて、庚に言葉をかけた。
「おう、それで、いつやるつもりだ?」
法人の焦りにも気づかず、庚は平然として答えた。
「十二時ころかしら。余裕を持ってやりたいわ。大体もやが出始めるのは丑三つ時だし。実体験して目覚めるのは、四時か五時ってところじゃないかしら」
「わかった、準備しとくぜ」
「準備?」
「護符や、独鈷杵、結界針とか、用意しなきゃなんねーだろ。万一に備えて」
「あ、そうか。あなたの専門分野だものね。お願いするわ」
そう言って、首にはタオル、上はTシャツ、下はジャージ姿の庚は、部屋を後にした。
「し、心臓に悪い……」
ずるりと部屋に座り込んで、法人はそうこぼしていた。
濡れた髪を乾かして、庚は店の方に顔を出していた。
すかさず茶器が声をかけてくる。
「マスター、今日も検証するのですか?」
「見ていてもいい?」
「いいですか?」
ワクワクという言葉がよく当てはまるようなテンションである。
「うーん、今日は法人様もいるし。眼福だわ」
「そうですわねぇ」
「幸せですわ」
その言葉を聞いて、庚の頭にはクエスチョンマークが飛び交っていた。
「ちょっとお前たち、聞くが……」
茶器にそう問いかける。
「なんですの?」
「私たちにご質問ですか?」
これもまた、ワクワクといった言葉が合う問いかけだった。
「……法人がいると、眼福? なんで?」
庚は訳が分からないと言った顔で、茶器たちに言った。
「まあ、マスター、法人様は目鼻立ちもいいし」
「体つきもがっしりとして男前の青年だし」
「いわゆるイケメンではございませんか」
「キャーっ」
茶器たちが騒ぐ。
――イケメン? 誰のことだ?
「どこがイケメン?」
ぼそっと呟いた庚に……。
「まあ、これだからマスターは」
「いい男が目の前にいるのに気づきもしないなんて」
「選美眼を疑いますわぁ」
「疑いますわぁ」
そろいもそろって、言いたい放題。
「彼は、霊能力を持つ悪友! それ以外にあるか!」
庚は言う。
「全く困ったマスターですわねー」
「そーですわねー」
救いようがないと言った感じで、茶器たちにこう言い切られた庚だった。
時間をおいて。
道具の手入れを行っていた法人が、店の方へ移動してきた。
「おい、準備はいいか?」
「ええ、私の方は寝るだけなので」
鏡を箱から出しテーブルに置き、ソファをベッドの状態に変え、毛布を持ってスタンバイしていた。
「俺はここで気配を消して様子を見ている。気配を消す結界を張るから、鏡のもやの存在は俺に気付かないと思う。いざとなったら無理やりにでも起こすから、安心して寝ていろ」
「わかった」
そう言うと、庚はソファに横になり、毛布を体にかけると寝る態勢に入った。
暫くすると……。
スース―といった寝息が、庚から聞こえ始めた。
(ここまで安心して寝られるってことは、俺、男として見られてないってことだよな?)
喜ぶべきか、悲しむべきか。
法人はわからず、静かに溜め息を吐くと、庚を見守る体制に入った。
そしてしばらく時間が経ち……。
魑魅魍魎が跋扈する丑三つ時に差し掛かった。
椅子に片膝を立て、庚をじっと見つめていた法人は、微かな異変にピクリと反応した。
――あれは一体なんだ?
鏡から、黒いもやもやしたものが出ていることを目で確認した。
そのもやはどんどん大きくなり……。
濃い塊となって、黒い人影となった。
体型からして女性だろう。長い髪を肩下で一本にまとめているように見える。
戦国時代の姫君の装束のようだ。
その影が、庚を見て、にいっと笑った。
ぞっとするような不気味な笑い顔であった。
そして両腕を上げると、二つの手で庚の顔を挟んだ。
ふふふと笑うと、影は庚の顔に自分の顔を近づけた。
「我の歓喜を、狂気を味わうがよいわ」
そういうと庚の額に右手の指が触れた。
途端に、庚の顔が苦悶に変わる。
「うーん」
唸り声が聞こえ始めた。
「そして、我の苦しみと絶望を体験してみるがよい」
女は庚の側を離れず、近くから苦悶の顔を覗き込んでいる。
庚は毛布を握りしめ、手は白くなっている。
顔には脂汗が出て、いかにも苦しそうだ。
「この娘の心は誠に純粋。最高の贄じゃ。今までの夫人では飽き飽きしていたところ。心踊るではないか。この娘の心が黒く染まるさまをじっくりと味合わせてもらわねばのう。最高の美味じゃて」
片方の手の指を舌なめずりする。
法人の目から見て、悪鬼以外の何物にも見えない。
すでに庚は悪夢を見始めているのであろう。
脂汗がどんどん増えていた。
――介入するか?
そんな考えがちらりと浮かんだが、腕を握りしめてそれに耐えた。
今はまだ手を出すべき時間ではない。
庚は、清子氏と同じ体験をしたいと言っていた。
ならば、もう少し様子を見るべきだ。
いざとなれば、木端神を使って、あの悪しき姿の存在を木っ端みじんにすることが出来る。
法人はそう決断し、同じく苦しい時間を耐えていた。
暫くすると……。
夜が明けてきた。
それと共にもやで形作られてきた姫姿が瓦解してゆく。
「何だと? 今日はこれで終わりじゃというのか? 何とも惜しい。悔しや……」
そう言ってもやは徐々に消えていった。
もやが完全に消えたことを確認し、法人は結界を解くと、庚に近づいた。
法人にとってもこの『見守る』という体験は、相当な忍耐を必要とする出来事だった。
「おい、庚、庚!」
頬を軽くたたく。
「庚!」
その言葉に
「聞こえている、ちょっと待って……」
力のない言葉が返答してきた。
のろのろと起きだして、ソファに座り込んだ。
庚は青を通り越して白い顔をしていた。
「大丈夫か、庚」
「……何とか。最悪なものを見せられたわ」
ふうと溜息を吐く庚。
その様子を見て、法人はミルクティーを入れてきた。
「お前ほどの腕じゃないが、ほら、飲めよ」
両手にマグカップを抱え、ゆっくりとミルクティーをこくりと飲んだ。
「ありがとう、落ち着いたわ」
「そうか」
ほっと息をする法人、その彼に庚は爆弾発言をした。
「私、人を殺したわ」
近藤家の清子氏は、いつも人に対し刀を振りかざすところで心が耐え切れず悲鳴を上げて起きていた。
だが、庚は精神鍛錬もしている。その先も見てしまった。
寝ていた女性に馬乗りになって、左腕で首を絞め、もう片方の右腕で小刀を振りかざし、相手の女の頸動脈をざっくりと切り裂いた。
それでは飽き足らず、心の蔵も一突きすると、腹を裂いて腸を出し、かき回すと、血まみれになっていた小刀をゆっくりと舐めていた。……微笑みを浮かべて。
庚は力が強い。
だから自分が体験したような錯覚に陥りやすい。
メンタルのケアが必要だった。
「お前は人を殺してはいない。俺の前でソファで寝ていたんだ。……わかるな? 鏡の記憶に引きずられているだけだ。お前は何もしていない。何もしていないんだ」
庚の細かく震える手に、法人は手を添えた。
「お前の手はきれいなままだ。悪夢から覚めろ、庚」
その言葉が、じっくりと染み渡っていた。
「……本当に?」
「本当だ」
言い切った法人に安心する。
「法人……」
「ん?……なんだ?」
「ありがと」
そう言って庚は自分の手に添えられていた法人の手に片方の手を重ねた。
「ありがと」
改めてそう言うと両足を着いて立ち上がると深呼吸した。
「これを毎夜見せられた清子氏はたまったもんじゃないわね。繰り返される悪夢によく発狂せず過ごしてこれたものだわ。最後まで見なかったのが自己防衛本能だったのかもね」
ふーっと息を吐いた。
「さあ、夜が明けた。今日の始まりね。朝ごはん作らなくちゃ。リクエストは?」
ガラッと変わったテンションに驚きながらも、法人は希望をしっかり伝えた。
「ベーコンエッグで」




