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彼女は残虐

 安宿のベッドは座り込むと大きく軋んで埃を立てた。泊まる者がほとんどいなかったのだろう。宿の主人も突然の来客に驚き、食事すら用意できないと言われるほどだった。それでも裏通りにある立地はヒューらにとって都合がいいことこの上ない。彼らはそれを了承して部屋に上がったが、そこがこうまで埃まみれだとは聞いていなかった。


「これは……凄まじいな……」


 窓の縁をなぞると積もった埃で塊が形成される。そんな惨状にイリは先ほどから口元を押さえて苦しそうにしている。


「カビ臭いですわ……」


 嗅覚の強い彼女にとっては過酷な状況なのだろう、苦しそうにせき込むイリを見てセレが急いで窓を開け始めた。


「大丈夫ですか? とりあえず空気を変えましょう」


「ありがとうございます……」


 窓を開け終わると状況は少しではあるが緩和されたようだ。少し視界さえ良くなった気がする。そんな中イリはセレにピタリと密着していた。


「セレ様は本当に人の良いお方ですね。私こんなに優しくされたのは初めてかもしれません」


「人聞きの悪いことを言うな」


「冗談ですよ、ヒュー様の優しさも十分に伝わっておりますわ」


 セレに対する警戒心が無くなった今イリの元来の人懐っこさが存分に発揮されている。スキンシップが過剰なところもあるが、それが彼女なりの親愛の情の表し方なのだろう。しかしセレにとっては馴染みの薄いコミュニケーションであったせいか、少し戸惑い気味だ。


「こ、これくらいは当然のことですよ」


「そんなことありません。私、女同士もいいものだと思い始めたかもしれません」


「だ、だから私はそういうつもりありませんってば!」


 思わずセレはイリから距離をとった。そんな様子を見てイリはクスクス笑っている。


「とりあえず買い物でも行くか。今日の食事も手配しないとな」


 セレから外で食事をとるという提案もあったがやはりそれも却下された。とかく人のいる場所を避けようとするヒューとイリに対してセレも余程の事情があるのだろうと理解し始めたものの、それを聞くことすら許されない状況に苦しみ始めた。


 町では食料品はやはり高額で取引されており、旅に出始めた頃は余裕のあったヒューにも限界が見え始めた。それでも歩みを止めることを許されない彼は旅のための保存食を買い込んだ。隣ではセレも同じように保存食を買い求めているのを見てヒューの頭が疑問符で満たされた。


「ここが目的地じゃないのか?」


 これからまた旅にでも出ようとでも言えそうな買い物の仕方であった。


「あ、え、いえ、し、しばらくここで滞在しようと思っていますので……」


「それならもっとマシな物を買えばいいだろう……」


「そ、その、好きなんです、これが」


 とってつけたような理由にヒューは首を傾げながらも特に追及はしなかった。とりあえず彼は自分の旅を心配する気持ちの方が大きかったのだ。


 今夜分の食事と当面の物資を確保した彼らは再び裏通りに向かって歩き始めていた。既にほとんど人通りはなく、昼間に見た酔っ払いのような人種もいない。彼らは悠々と歩くことができた。


 そんな折、突如としてイリが二人を引き寄せた。あまりのことに声を上げそうになるヒューに対してイリはじっと顔を見つめることで何かを理解させた。


「誰かが尾けています、後ろを決して振り向いてはいけません」


 その言葉でヒューの顔に緊張感が走った。


「確実か?」


「はい、間違いようがありません。宿を出た辺りからずっと同じ匂いが後ろにいます」


「一人か?」


「後ろにいるのは一人です。他にいるかどうかまでは分かりませんわ」


「確実に二人以上で行動しているはずだ。町中じゃ目立つからな、出てから確保するつもりなのかもしれない」


 セレは予想外の状況に頭を働かせることができずに只々呆然としている。ヒューも冷静でいるように見えたがその実心は全く穏やかではなかった。今までは追手をイリの協力の元に撒くことに成功していた。だからこうも接近されることは初めてだった。覚悟はしていた、だがそれが現実となった今、彼の心臓は叩きつけるように強く脈動していた。


「どうするか……」


「捕まえて他の仲間がいるか吐かせましょう。それが早いでしょう」


 落ち着き払ったイリが何の造作もないことのように言い放つ。彼女はこの状況を待っていた。自分の力を遺憾なく発揮できる機会を。


「できるのか?」


「ええ、ウサギを捕らえるのと変わりありませんわ」


 ヒューの目にイリが頼もしく映った。


「それではそこの角を曲がったところで仕掛けます。お二人は何もなかったように歩いていて下さい」


 そう言われて三人はさっきと同じような距離で歩き始める。だがヒューとセレはぎこちない歩き方だ。突然降って湧いたようなピンチに冷静でいられるはずもない。今頼ることができるのはカヨート少女一人だけだった。


 ヒューとカヨートの女を追いかけていた男にとって横を歩く赤髪の女は予定外の存在だった。だが彼にとっては関係のない話だ。その身に帯びた指名のために女二人には死んでもらうつもりだった。狙うのはヒューという男の身柄だけだ。


 一度見逃したはずの目標を偶然寄ったこの町で見つけた時からずっと追いかけ続けていた。そしてチャンスが来るまでそれを止めるつもりもない。闇の中を音を立てることなく、素早く影のように動き回る。イリでなかったら気付くことはできなかっただろう。


 熟達の男は三人が裏通りの角を曲がったのを見て距離を詰める。入り組んだその道では見逃す可能性があったからだ。角から覗き込むと彼の予想外の光景がそこには広がる。


 一人、少ない。


 そう思った瞬間に彼の完全な死角から一つの影が飛び込んだ。不意をついたことと視認することすらできなかったためにその影は狙い通りに彼の首元に肉薄することに成功する。そしてその勢いのままに男の衣服の襟元に食らいついて地面に引き倒す。


 月明かりに照らされてようやくはっきりと映るその影の正体はベージュ色の獣、イリが角を曲がってすぐに犬へとその身を転じ、暗がりに潜んでいたのだ。


 反応することすら許されずに男は地面に横倒しになる。そしてやっと意識が追いつき、それを逃れるべく体に力を込めるも、既に獣の姿はなく、代わりに一人の女が自分をとんでもない力で押さえつけていることに気が付いた。


「な、何だ!」


「大人しくして下さい。首をへし折るのは容易ですがあまり好ましい音ではありませんので」


 押さえつけられながら彼女の手が頭に行くのを男が感じてたまらず悪寒が走った。


 そこへヒューとセレが踵を返して戻って来た。あっけないほどに簡単な決着に胸をなで下ろしている。刺客の男はヒューの顔を見てようやく自分が陥れられたことに気付いた。


「クソッ!」


「お静かにお願いします。質問がありますので」


「誰が答えるか!」


 何らかの使命を帯びたであろう男の意思は固そうだ。


「この町にあなたのお仲間がいらっしゃいますね?」


 男はそれに沈黙で答える。


「答えなければ……」


 冷たい声がイリの口から鳴り響く。そして強靭な力を秘めた右腕が男の指へと移動した。


「へし折ります」


 場に緊張が走った。ここにいる全員がこの繊細そうな少女にそんなことができるわけがないと思った。だがそれでも残酷な尋問の気配を感じさせるほどにイリの言葉には凄みがあった。


「やってみやがれ、クソが」


 男は引き下がるつもりもなかったし、そうするわけにもいかなかった。


 その瞬間にイリは自分の衣服の端を千切って丸めると、それを男の口に入れた。


「お覚悟を」


 小枝を折るようにしてイリが男の指をあらぬ方向に捻じ曲げる。乾いたわずかな音が、それでも本能的に耳を塞ぎたくなるような不愉快な音が響いて、男がくぐもった苦悶の叫びを上げた。

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