行き過ぎは危険
深い眠りによってヒューは気持ちの良い目覚めというものを久しぶりに経験することができた。既にイリは自分の腕を抜け出して、火の番をしていてくれたようだ。差し込む陽気の中でも燃え続ける火は彼に安心感を与えてくれる。彼女がまた一緒に眠り込んでしまうようなことがなかったという証明だ。
ヒューが起き出して辺りを見回すと自分と同じくらい深い眠りを得ることができているであろうセレの寝顔が見えた。安らかなそれに彼は再び自分の妹の面影を見た。微笑ましさと喪失の悲しみが再び彼の胸に去来する。昨日はほとんど彼女の顔を見ようとしなかったのだ。
よく見ると本当にあまり似ていない、と今まじまじと見つめることで確認することができた。彼がスティの幻影を追うが故にそう見せてしまうのだろうか、それでも彼は確かにセレのそのちょっとツリ目がちな強気な瞳は生き写しのようだと感じずにはいられない。
「欲情、されているのですか」
本人は微笑ましくその寝顔を見ていたつもりだったにもかかわらず、イリがそれを台無しにする言葉を投げかけた。
「バカなことを言うな、万年発情期」
「心外ですわ、いくらカヨートと言えども心は繊細ですのよ」
イリはわざとらしく目に手を当てて泣き真似をしてみせる。勿論そんな見え見えのものに騙されるヒューではない。
「心が繊細な奴がよく今みたいな発言ができたもんだな」
「心配しているのです。セレ様がヒュー様の妹に似ていると仰っておりましたので」
「それがどうした?」
「近親に欲情される性癖なのかと思いまして」
ヒューが極めて冷たい瞳でイリを睨みつける。
「それならば私に指一本も触れないことにも納得行きますわ……それなら私も大人しく身を引きます……」
悲劇のヒロインぶった大げさな身振り手振りで再び泣き真似をして見せる。それに対してヒューは大きなため息で返した。何も言葉が返ってこないことでイリは冗談が過ぎたことを悟る。そして彼の顔に怒りがふつふつと湧いているのが分かった。
「その……今のはですね……ちょっとしたジョークでして……」
慌てて取り繕うがそれでもヒューの冷たい眼差しは止むことがない。
「ごめんなさい……」
耐えきれずにイリは素直に頭を下げた。いつものような飄々とした余裕はない。ヒューは再び大きくため息をついた。
「他のことはいい。スティを侮辱するような冗談は止めろ」
厳しく言い放つ彼に対してイリは小さく「はい」と答えた。彼女がイタズラめいた口調で冗談を言うのは彼の気を引きたいがためであるが、それが行き過ぎた場合には痛い目に遭うのだと思い知ることになった。
そんな中何も知らないセレがタイミング良く起き出した。目を擦って大きく伸びをした彼女にしゅんとした様子で火に背を向けているイリの姿が見えた。
「おはようございます。どうかしたんですか?」
目線をイリに向けながらヒューに向かって尋ねた。
「大したことじゃない。ちょっとした躾だ」
であればまたヒューへの気持ちが空回りした彼女が何かやらかしたのだろうと察せるほどにセレは二人の間柄を理解し始めていた。
「イリさん、大丈夫ですか?」
だが普段よりもその落ち込み具合が強いかと彼女が感じたせいか、声をかけずにはいられなかったようだ。加えて昨日の凄惨な共同作業でお互いに少し打ち解けたというのもあるのだろう。
「セレ様……こんな私に声を掛けて下さるなんて……お優しいのですね」
「そんなことありません。イリさんは私にとって大切な方ですから、当然のことです」
セレがそう言うのはイリによって助けられたことが大きい。彼女にとって恩義とは報いて当然のことであるし、そのためならば己の身も厭わない覚悟がある。それは彼女の師が元々名のある騎士であり、教え子である彼女に対しても忠誠や義と言ったものを叩き込んだせいでもあった。彼女自身も師のことを誰よりも慕っており、その価値観は親よりもその師によって培われたものの方が多いのだろう。
「セレ様……ありがとうございます……ですが……」
ニコリとわらって礼を告げたかと思うと少し顔を曇らせて言葉を詰まらせる。その様子にセレは頭に疑問符を浮かばせた。
「何ですか?」
「セレ様のお気持ちは大変嬉しゅうございますが……私、女同士というものはちょっと……」
突然の言葉にセレは顔を真っ赤にした。
「な、な、何を言ってるんですか! 私はそう言う意味で言ったのでは……」
「そう言った性癖を卑下するつもりはありませんわ。ですが私の趣味ではありませんし、私には心に決めた方が……」
「だーかーらー!」
今までそう言った話題にあまり触れたことの無い彼女は端的に言うと初心であった。勿論イリも本気で言っているつもりもない、彼女はセレのそんなところをお見通しであったが故のからかいであった。
「まともに相手するな、思う壺だ。お前も全く懲りてないんだな」
ヒューがセレの肩に手を置いてイリを睨み付けた。イリは咄嗟に目を逸らした。
「お前には反省というものはないのか」
「えっと……その……」
イリのすぐ調子に乗る悪い癖もあったが、今回の件に関しては流石のヒューも相当ご立腹だったようだ。詰め寄られてイリは俯いていたかと思うと、即座にその身を犬へと変えた。そうして地面にひっくり返って腹を見せて服従のポーズをとった。
「お、お前、それで許してもらおうなんて……」
犬の彼女に対してとことん甘い彼も、それではいけないと強硬な態度を必死で取ろうとする。だがイリは追い打ちをかけるようにひんひんと鼻を鳴らして許しを請うた。
「くっ……!」
魅力的な腹毛に誘われるようにしてヒューはイリの腹を撫でだした。存外彼もちょろかった。無言で撫で続けるヒューを見てセレも彼が躾というものに対して不得手な人間であるのだと理解した。
「あの、そろそろ出発した方がいいかもしれません」
「あ、ああ、そうだな」
すっかり昇った太陽が暗い森さえ照らしていた。今日中にヤキスに辿り着く予定だった彼らとしては明るくなり次第ここを発つのが正解だろう。
「イリ、あまり調子に乗ったことをするなよ? 人の気持ちとかをもっと考えてだな……」
くどくどと言うヒューだったがイリを撫でまわし続ける様子からあまり説得力もない。イリも中々人の身に戻ろうとしなかった。彼が犬の身の自分に大層甘いのは嬉しい反面少し不本意ではあるものの、それをこういう風に都合よく使う自分にも非があるのだという自覚もあった。
「さ、それじゃあ準備するからお前もそろそろ戻れ」
そう言われてもイリにとっては気まずくて人の身に戻るのに逡巡してしまう。
「大丈夫だ、もう怒らない」
その様子を察知したヒューは優しく語り掛けた。この優しさを人の身の時に少しでも見せてくれればいいのにとイリは寂し気に思った。とは言えここまで言われて頑なでいるのは申し訳なく思い、ひっくり返った姿勢を戻すとイリは素早く人の姿に戻る。
「申し訳ありませんでした、慎みます……」
「ああ」
萎縮した様子のイリを一瞥するとヒューは出発の準備に取り掛かった。その様子は照れくさいからのものなのだとセレは感じ取ったが、イリにとっては冷たくされたのだと感じてしまう。普段より静かなイリとヒューは黙々と準備をし始めた。