健康管理は大事
ヒューが黙りこくってしまったために辺りは静寂に支配される。セレもそれに対して無理に口を開かせようとはしなかった。それは諦めや面倒といった理由ではなく、彼が何かを考え込んでいるのだと分かったからだ。
「遅くなりました」
ガサガサと音を立てながら先ほど向かった茂みとは逆方向からイリが姿を現した。
「ひいっ!」
セレが再び素っ頓狂な声を上げたのは姿を見せたイリが血塗れだったからだ。動物を解体する事ができるらしい彼女が血を見ただけで悲鳴を上げるはずもない。血に塗れたイリの姿があまりに恐ろしかったのだ。主に口元にそれは集中しており、如何にして獲物を仕留めたか想像に難くない。そんなイリに流石のヒューも顔をしかめている。
「今日は随分な登場じゃないか」
「申し訳ありません。いつもなら簡単に血を落としてくるのですがやはり鮮度が命かと思いまして」
そう言い放つ彼女の両手には同じ色の血に塗れた兎が二羽握られていた。
「ご所望の物で御座います、セレ様」
ニコリと笑って獲物を彼女の前にドサリと放り投げた。それが悪意に満ちた行動なのか、純粋な善意であるのか、セレに計り知ることはできない。
「あ、ありがとうございます」
どちらにしてもその贈り物を拒否する理由はない。自分が望んだ物であるし、今夜の彼女の腹を満たす物でもあった。
「ほ、本当にどうにかできるものなのか?」
動物の死骸を前にたじろぐヒューとは対照的にセレは自分の鞄から大きめのナイフを取り出して捌く準備をし出している。
「この程度ならすぐに済みますよ」
そう気軽に言い放ちながら、獲物を掴んで場所を離すと、早速兎の腹に刃物を当てて引き裂き始めた。ヒューはそれを見ないようにと目を逸らしている。彼が獲物を捌くことができないのは、技術云々より前に毛皮のある動物全般が好きだからであるが、セレはそんなものは御構い無しに作業を続けている。
腹を開き、内臓を除き、皮を引き剥がして肉をこそいでいく。淡々とこなすその様子をイリが興味津々に覗き込んでいる。
「なるほど、そういう風にすればヒュー様にも召し上がって頂けるのかもしれませんね」
「はい、これなら調理もしやすいですし…」
そう言う彼女の手には剥き出しの兎の足が握られていた。
「そうですね、私も覚えるべきなのかもしれません」
「あ、それならもう一匹はご一緒に捌きませんか?簡単にではありますがお教え致しますよ?」
セレがそう言うとイリは顔をパアッと明るくさせた。
「本当ですか? それでは是非ご教授願いたいです」
先ほどまでの確執など無かったかのようにイリはセレの隣に座って目を輝かせている。うら若き女性が二人囲んで行う行為が血みどろの儀式であるとは皮肉なものだと目を瞑りながらヒューは心の中で毒づいた。
小一時間もすればそこには手頃な肉塊が彼らの前に鎮座することになる。ヒューはそれらを見ながら必死で生前の姿を思い出さないようにしている。
「お前はどうするんだ? このまま食うのか?」
ぶつ切りの肉切れを掴みながらヒューがイリに向かって尋ねた。
「どうせなら皆様と同じように召し上がりたいところです」
「そうか」
特に面倒という訳でもない、この場においては肉は焼くしかない。贅沢なことにセレが香辛料の類を持ち歩いていたために豊かな味付けも可能となった。
簡単な調理、簡単な味付けではあるものの、兎の肉はセレとヒューにとって束の間の贅沢をもたらすことになり、一口頬張るごとに満足げに頷いた。それとは対照的にセレはしきりに首を傾げていた。
「お口に合いませんでしたか?」
「そういう訳ではありませんが……ただ」
「何だ?」
ヒューとしてはイリに人好みの味付けというものを心得て欲しいという願望もあってのことだ。
「正直普段との違いが分かりません」
ヒューはガクリと項垂れた。イリの料理下手は好みの違いや人とカヨートの味覚の違いであるのだと彼は思い込んでいたが、どうやら彼女個人の問題であるらしい。これからも彼女の料理には不安を抱かなければならないようだ。
二匹の兎とは言え、三人で分ければその量は大したことがない。食事はすぐに終わるが彼らには十分な満足感が与えられた。連日の睡眠不足のせいか、食事が終わるとヒューはすぐに大きく欠伸をした。
「さて、ヒュー様。今日は何が何でも睡眠をとって頂きます」
彼の前に鎮座しながら笑みも浮かべずにイリが厳しく言い放った。
「寝てないんですか?」
昨夜は天変地異が起きようとも目覚めないであろう程に深く眠っていたセレは、彼が目を閉じて覚醒したまま一夜を明かしたことなど知る由もない。
「それでは私が火の番を致しましょう。どうぞ、お眠り下さい」
「いや、君にも眠ってもらえるとありがたい。番はこいつがする」
言いながらヒューは妙にそわそわしている。その理由にセレは思い当たる節は全くない。
「さ、それでは」
言うが早いかイリは再び獣の姿をとろうとする。
「ま、待て待て」
それをヒューが焦り気味に止めたと思うと毛恥ずかしそうにセレの方を見た。
「どうかされましたか?」
目線を送られたセレ本人はキョトンとしている。
「いいじゃありませんか、見せつけて差し上げましょう!」
「や、やめろ!」
制止も聞かずにイリの姿が犬に変わり、そのままヒューの胸元に飛び込む。彼は諦め気味にそれを素直に受け止めた。
「どうしたんですか?」
何も察せずにセレは頭に疑問符を浮かべている。ヒューは何も発せずに押し黙っている。
「その……」
犬を抱いていないと安眠できないなど、20を超えた男がはっきりと言えようはずもない。
「悪夢を見るんだ……」
「はあ……」
その言葉だけでは今の彼の行動の理由付けにはなり得なかったようだ。
「だから……その……こいつを抱いて寝ると夢見が良くてだな……」
恥ずかしさを表すように顔を赤くしながらたどたどしくヒューが説明すると、ようやくセレにも合点がいったようだ。
「ああ、ええ、はい。どうぞ、楽になさって下さい」
彼の恥じらいの意味も分かり、少したじろいで的の外れた言葉をセレは発した。自分よりも年上と思われる男性が犬を抱かなければ眠れないなんて少し可笑しく思えるとともに、彼女の母性がくすぐられるような思いだったが、それを表面上に出すことは彼にとって好ましくないことだと思いセレは無表情を決め込んだ。
ヒューの方も今更取り繕う事もできず、自分の体が眠りを求めていることを強く感じていたため、迫り来る睡魔を両手を広げて受け入れた。結果セレが驚くようなスピードで寝息を立て始めた。
その寝顔は安心しきったような表情だ。それはセレが羨ましく思うくらいにイリの毛皮が心地良いのだろう。そんなヒューの顔を覗き込んでいるとぎょろりと目だけを動かすイリの視線とぶつかる。犬となってしまった彼女の言葉を聞き取ることはできないが、その目は自分も早く寝るべきだと訴えかけてくるように思えた。
そしてそれは間違ったことではないと彼女自身も思った。既に足の裏はボロボロで、全身の筋肉は強張り、所によっては軋むように痛んでいた。旅という物が如何に過酷なものであるか、彼女自身がそれを思い知っていた。決して甘く見ていたわけではない。だがその覚悟を上回るほどに彼女にとってその旅が残酷で恐ろしいものであった、ただそれだけのことだった。
毛布にくるまって薄れ行く意識の中でセレは考えた。ヒューの見る悪夢とは一体どんなものであるのか、それはどこから生まれたのか。その一端を担うのは、処刑されたという彼の妹にあるのであろうことは想像に難くなかった。