思いは複雑
太陽の照る時間を通して歩いてもヤキスまでは未だに辿り着くことはできない。かと言って日が落ちてから動くことはイリにとっては容易なことであっても、ヒューとセレには危険なことこの上ない。よって今日もこの暗い森で一夜を明かすことになる。
ヒューの見込みではあと1日もあれば辿り着けるはずだった。そして示し合わせたように食糧も今日の分で尽きる見込みだ。少し余裕を持たせてはいたが、セレの訪れで帳尻が合う形になった。
「それでは軽く食糧の調達に行って参ります」
火の準備をヒューがしているといつものようにイリは少しでも食事を華やかにする為に外出をする。手持ちの少なくなった彼らにはありがたいことだ。
「すまない。だがあの木の実はそんなにいらない……」
昨日の食事にもなっていた黄土色の木の実のことだろう。彼がそう言うのは強烈に苦いからだ。
「あら、栄養満点ですのよ」
元々森の住人であった彼女はそう言ったものに詳しい。それはこの旅を支える知識ではあったが、カヨートと人の味覚の違いの壁というものはどうしようもない。
「食えなくはないが食い過ぎると舌が麻痺するんだ。未だに本当に食っていいものかはっきりしない」
「毒では決してありませんよ。きっと栄養が豊富過ぎますのね。それでは程々にしておきますわ」
「ああ、お前も食事して来るといい」
「そうですね、手頃な物がいましたら。セレ様も如何ですか?ここらのウサギなどは中々美味でございますよ?」
「えっと……」
イリは決して意地悪で言っている訳ではない。
「やめておけ、腹を壊すぞ」
イリは例え生肉であったとしても平気な胃袋を持っているが、人ではそうもいかない。加えて彼らにはそれらを捌いて調理する技術もない。ヒューも挑戦してみたことがあったが死骸に手を触れることすらできずに結局イリの腹に収まることになった。セレにもきっとできないだろう、彼はそう考えた。
「あ、あの……あまり大きい物でなければ是非……」
「捌けるのか?」
「はい、小さい物でしたら」
ヒューは面食らったような顔になる。
「どうして貴族が獲物の捌き方なんて知ってるんだ?」
「私の師は単なる知識だけでなく様々な事を外で教えてくれました。まさか本当に役に立つ日が来るとは……」
セレはどうやら世間一般に想像されるような貴族のご令嬢とは一線を画した存在であるらしい。その師とやらの教えのおかげで家を出てからも無事でいられたのかもしれない、ヒューはそう考えた。
「しかし肝心の獲物を捕まえる術は習えませんでした」
残念そうな顔つきでセレはため息をついた。それができていたなら行き倒れ寸前になることもなかったかもしれない。
「まどろっこしいことをせずにそのままかぶりついたらよろしいのに」
「人間様の胃袋をあまり過信しないでやってくれ」
「かしこまりました。それではなるべく胃に優しい物を採ってきますわ」
「あるのか?」
「恐らく」
ヒューがため息をついた。イリがかなり適当な事を言っているのが分かったからだ。
「まあいい、とりあえず行ってくるといい」
「はい」
ニコリと笑ってイリはまたいつかのように大きく深呼吸をする。周りの空気がゆっくりと流れるような深い呼吸に連なるようにしてベージュ色の毛皮の犬に姿を変えた。
「ええっ!」
素っ頓狂な声を上げてセレが驚いてみせた。
「ああ、初めて見たのか」
不思議な力と深い赤の瞳しかイリのカヨートらしいところを知らなかったセレには彼女が姿を変えることができるなど衝撃でしかなかった。
「こ、これ、イリさんなんですか」
恐る恐る指差すセレの先でイリが小さくワンと吠えた。
「わっ!」
それほど大きいものでも威嚇を込めたものでもなかったが、改めて獣としての牙を明確に目の当たりにしたことでセレはたじろいだ。
「安心してくれ、噛みはしない」
そう言ってヒューはイリの頭を撫でる。そうされてイリの方はセレの目から見ても心地良さそうな顔をしていることがわかる。
「ほら、君も撫でてみるといい」
ヒューに勧められるがまだセレから恐怖心は除かれていない。だが彼女から見てもイリの美しい毛並みは気持ちのよさそうなものである。セレは恐る恐る手を差し出してイリの頭に近づけていく。だがその瞬間セレの手はイリの口に挟まっていた。
「ひいっ!」
力はこもっていない、甘噛みの類ではあるがそれでもセレを驚かせるには十分だった。そんなイリの頬をヒューが両手で優しく掴んだ。
「こら、何で噛む」
丁度幼子をしかりつける様な形だ。イリはそんなヒューに対して目を逸らした。
「い、いいんです……私が急に手を出したからビックリしたんだと思います……」
あれだけそろそろと手を出したにもかかわらず噛みついたのはイリがセレに対してまだ完全に気を許したわけではないからだろう。セレもそれを何となく感じ取っていた。
「全く……普段はもっと聞き分けがいいのにな……」
ヒューはあまり分かっていなかった。腑に落ちない様子でもイリの背中を撫で続けている。よっぽどその毛皮がお気に入りなのだろうとセレにも分かった。イリもそれを受け入れ続けていたいところだったが、早く出た方がいいと理解しているのだろう、彼の手をするりと抜けだして森の奥に向かい始める。
「気を付けてな」
ヒューがそう言うとまた一度だけワンとイリが鳴いた。背の低い彼女が森の茂みに消えていくのに時間はかからなかった。
「カヨートとは、不思議なものですね……」
ここ数日でも彼女に訪れた中で一番も衝撃となったのだろう、セレが驚嘆の意を呟いて示した。
「ああ、俺も最初は驚いた」
黙々とヒューが火を点けるための木を集めながらそれに答える。自分だけ呆けているわけにはいかずにセレもそれに倣い始めた。
「それで、その……」
セレが少し口籠もりながら何かを聞こうとしている。その様子を見るにまた聞きにくいことを質問しようとしているのだろう。前回のことも考慮するに彼女は疑問が湧いたらそれを聞かずにはいられない性質らしい。
「何だ?」
「追手とは?」
それは昨日イリがうかつにも零してしまった一言だった。彼女にとって衝撃的なことが連続していたために、頭から消えてしまいそうなことではあったが、彼女はそれをしっかりと覚えていた。
「ああ……」
ヒューの表情が暗くなる。そしてセレから目線を逸らして遠くをじっと見つめていた。
「君が知る必要はない」
二の句も告げさせないほどにぴしゃりと言い放つ。だがセレもそれで引き下がらない。彼女はその目にふさわしい気の強さを持ち合わせている。
「何故ですか?」
「知れば君にも危険が及ぶ。好奇心だけで済む問題じゃないんだ、これは……」
それを言われて彼女は何も言い返せなくなる。決して自分の身を案じただけではなく、彼が心の底から自分のことを気遣っていることが彼の表情からわかったがために、それを裏切る気持ちにはなれなかったからだ。
一転して場に沈黙が溢れた。木々の揺らぐ音と風の冷たい音は二人を妙な気分にさせた。お互いに目を合わせることもなく黙々と作業を進めるうちに、気まずくなったセレが突然話を切り出した。
「どちらが、本当のイリさんなのでしょう?」
それは彼女が本来犬であるか人であるのかということを聞きたいのだろう。
「さあな……ただ俺が初めて会った時は犬の姿だった」
「はあ……」
「本人にも聞いたことはある。だがあいつはどっちも自分だと言ってきかなかった」
「そうですか、ならきっとそうなんでしょうね」
セレは納得いったようだがヒューにとってはそうではないらしい。
「受け入れるのが早いな」
「そうですか? イリさん本人がそう言うならそうなのではないですか? カヨートについては私は知らないことの方が多いのです、不可思議なことでも受け入れるべきだと思いますが」
「そう、なのかもな……」
彼を納得させるには不十分だったようだ。
「あなたはそうじゃないと思ってるんですか?」
「そういう訳じゃない。ただな……」
「何ですか?」
一瞬のための後にヒューが口を開いた。
「犬にしか見えない」
「ああ……そういうことですか」
初対面が犬のせいであったせいであろうか、はたまた人の時のヒューに対する接し方が犬そのものであるせいだろうか、どうもヒューにとってはセレの人の姿が受け入れにくいらしい。
「それでも、別にいいんじゃないですか?」
「あいつがそういうわけにはいかないらしい」
ヒューは複雑そうな顔をしている。昨日出会ったばかりのセレでもわかる、イリは彼に対して人としての愛を求めている。そしてそれが彼には受け入れられなくてやきもきしているだろうことも、彼女にはわかった。
「すまないな、変な話をしてしまって」
「いえ、いいんです。当事者じゃない自分がこんなことを言っていいか分かりませんが……」
少しの間を置いてセレは不器用に微笑んだ。
「時間が解決してくれると思いますよ」
部外者からすればそれ程大した問題であると思えなかったようだ。だが彼にはそれが少し気に入らなかった。それについて何も答えることなく再び黙々と火を点ける作業に従事し始めた。