課題は和解
ニレン王国とサビロア帝国の国境にはランガートと呼ばれる砦があった。高い山に挟まれた要害の地であり、かつてはサビロア領であったものをニレンが奪ったものだ。二国間に存在する強固な砦として重要な拠点であったが、ここをサビロアが奪い返したことが切っ掛けとなり、ニレンはサビロアの講和条約を受け入れ戦乱は終わりとなった。
そしてそのランガート砦の戦いにて反旗を翻したのがニレン王国軍の中で獣血隊と呼ばれるカヨートで構成された一軍であった。
獣血隊はニレン軍の中でも戦場で捨て鉢のように扱われる一団だったが、持ち前のカヨートとしての強さで幾多の戦場を生き抜いた精鋭でもあった。そんな彼らの突然の裏切りにより砦は呆気なく陥落した。その動機にははっきりしたことは分かっていないが、今までのぞんざいな扱いに対する報いであるとは誰もが予想できた。
しかし砦を土産にサビロアに下った彼らはそこで処刑されたと言う。サビロアにおいてもカヨートの地位は低かった上に、戦乱時において獣血隊に幾度となくその恐ろしさを見せつけられたため、憎悪の感情は大きかった。
結果、カヨートはニレン国内では戦犯として蛇蝎の如く嫌われることとなり、奴隷として使役されていたカヨートは漏れなく虐殺され、それを逃れた僅かな者たちは皆国外へと逃げ延びた。今でもカヨート達には報奨金すら掛けられており、それを目当てにカヨートを狩る者たちはは『赤目狩り』と呼ばれていた。
セレがイリに対して素直に感謝を告げることができないのはそういった理由だ。例えそれが自分に助けの手を差し出してくれた者であっても。それ程に今のニレン国内はカヨートに対する嫌悪が跋扈していた。
「どうかこのことを内密にしておいて頂けませんか?」
イリは悲しげな瞳でセレを見つめる。自分の身を危険に晒すことを覚悟はしたが、それでも自分がカヨートであることが周りに知れることによってどのような事態になるかは想像に難くない。
「セレさん、俺からも頼む。何も全てのカヨートが悪というわけじゃない。こいつは戦争にも参加せずに平和に森で暮らしていたんだ」
自分の身勝手でイリの正体を明かすことになってしまったヒューは必死で訴える。セレの中にまだ困惑の感情が強く見えたからだ。ただ世情に流されてその実も知らずにカヨートを嫌う者たちはそのような表情を見せることなどない。彼女ならば自分たちの秘密を守ってくれるのではないかと思ったのだ。
セレにはそこまで強いカヨートへの差別意識があった訳ではない。元より彼女の側にはカヨートがいなかった。故に話に聞いていただけの未知の存在に対して強い警戒心があっただけに過ぎない。
だがそれでも確かに今自分の体の傷を癒してくれたのは他ならぬイリであり、見ず知らずの自分を信じると言ってくれた彼女に恩義を感じない彼女ではなかった。
「すいません……あまりに突然のでき事だったもので混乱してしまいまして……」
落ち着くために彼女は大きく深呼吸をするとともに、痛みがすっかり消え失せた足をしっかり使って立ち上がった。
「勿論このことは内密に致します。無礼な態度をとってしまい誠に申し訳ありませんでした、イリ様。あなたは私の命の恩人です」
大袈裟に仰々しく感謝を告げる彼女に対して、ヒューはホッと胸を撫で下ろし、イリはクスリと笑った。
「あら、貴族といえば頭が固い偏屈の差別主義者の集まりだと思っていましたが、以外にも素直でいらっしゃるのですね」
「えっと、その……」
先ほど自分を癒してくれた柔らかい表情は何処へやら、あまりの変貌っぷりにセレは戸惑うばかりだ。
「妙な事を言うんじゃない」
「甘やかしてはいけませんよ、ヒュー様。小生意気な貴族の小娘には始めにガツンと言っておかなければ……」
「何様だ、お前は」
「社会的な地位など持ち合わせておりませんが生殺与奪を握った者というのは野生の中で王者と呼ばれるのですよ、ヒュー様。そう言った関係で私とセレ様との間には明確な上下関係が構築されました、今」
「俺が命令する。殺すことは許さない。これで降格だ。頼むから大人しくしててくれ」
疲れたようにヒューが吐き捨てるがイリは渋々納得したような表情をする。
「セレ様、そう言ったわけでして短い道中でしょうがこれ以上ヒュー様の足を引っ張らないで頂けると助かります。ヒュー様に何かありましたら私、冷静でいれる自信がありませんの」
そう言ってイリはにっこりと笑うがそこに友愛の感情は一切感じられない。彼女にも薄々感じられていたイリのヒューに対する病的とも言える溺愛っぷりを今まさにはっきりと感じることができた。
「善処します……」
「わかればいいのです。さ、足を止めている場合ではありませんよ、歩みを進めましょう」
そう言ってイリはさっさと進み始める。彼女に気圧されて萎縮したセレに対してヒューが歩み寄った。
「悪く思わないでやってくれ」
「はい、そもそも私が悪いのですから……」
「そんなに自分を責めなくてもいい。さ、足元には気を付けてな」
ヒューもイリの後を追うようにして歩き始める。そんな彼をセレが呼び止めた。
「あの……」
「ん、何だ?」
もの言いたげな表情ではあるがそれは少し聞きにくいことであるようだ。だがどんどん先へ進んでいくイリを見て、意を決したようにセレが口を開いた。
「先ほど、私が妹さんに似ているって……」
「……ああ」
聞いてどうなることでもないし彼女にとってもそれがさほど重要なことではないことはわかっていた。それでも確認しておきたかったのだ、何故この男が自分をこれほど助けてくれるのかを。
「実を言うとそこまで似ているわけではない。だが年頃が同じで、気の強そうなその瞳が、似ている」
何かを思い出すように、懐かしむようにヒューが語る。その妹を大層愛していたのであろうことはわかる。
「どうして……亡くなられたのです?」
それはただの興味本位に過ぎない。ヒューにとって傷口を抉られるような残酷な行為ではあったが自分に関わりのあることである以上それに興味を持ってしまうことは仕方のないことなのだろうと彼は思った。
「処刑された」
「え?」
あっけらかんと言い放ったように見えてそこには深い悲しみを見て取れる。セレは自分の興味が思ったよりも残酷なものであったことを思い知った。
「申し訳ありません、このようなことをお聞きして……」
「いい、俺が似ているなんて言い出したのが悪いんだ。君は君だ、気にしないでくれ」
何故処刑されたのか、それこそが彼の旅の目的に繋がるのではないかと思ったが、ヒューの顔を見てセレはそれ以上踏み込むことはできなくなった。
「今ヒュー様が悲しそうな顔をお見せしませんでしたか?」
随分と先を行っていたはずのイリがいつの間にか戻って来ていた。セレは自分の過ちを深く悔いた。
「この小娘が今度はヒュー様の心を抉るような無礼を働いたのでしょうか? 全く懲りておられませんようですね……」
再び彼女の瞳が真っ赤に染めあがるような予兆が見られる。今度こそ死ぬ、セレはそう思った。
「おい、待て。全然違う、眠くなってきただけだ」
助け舟を出すようにヒューは大きく欠伸をした。セレは再び心の中で強く感謝した。
「そんな馬鹿な、私ヒュー様のことは何でもわかるんですのよ? 今確かにヒュー様の心はこの小娘によって千々に引き裂かれるところでした、私にはわかります!」
「ほう、それなら俺が今何を考えているか当ててみろ」
しばしイリは考え込んだ。そうして突然顔を赤らめた。
「私のことをお考えですのね……私のこの衣服の下にはどのような艶めかしい肉体が広がっているのか……まだ朝だと言うのにヒュー様は本当に……」
「全然違う。さっさと出発しないと、だ。不正解、残念だったな。わかったら早く歩け、淫乱」
肩をいからせて歩き出すヒューにイリは縋りつく。
「待ってください! 決して淫乱などではありませんのに! 私が体を許すのはヒュー様だけですのよ!」
引きずるようにして二人組は森の悪路を進みだした。セレは一安心して一歩一歩確かめるようにしてその足を動かしていく。次に足をくじいてしまったらどのような責め苦がもたらされるのか、考えるに恐ろしかった。
この世界を生き抜く上でカヨートを怒らせてはいけないという教訓は父も母も教えてくれなかったし、彼女が最も敬愛する師も教えてくれなかったのだ。