その両手は不思議
余程旅に疲れていたのだろう、セレは簡単な食事を済ませると自前の毛布にくるまって深く寝息を立てて眠りについた。ヒューにとってそれはとても羨ましいことだった。そんな中彼もうつらうつらと夢と現を行き来するものの、確かに熟睡することはなかったようだ。明け方近くなるともう眠りにつくことすら諦めたようで、目を開けて何かを考え込むように黄昏ていた。
「だから言ったのですよ、よそ者を受け入れるべきではないと」
苦言を呈するとともにその顔は心からヒューのことを心配していることがわかる。
イリがセレの存在を疎ましく思うのは彼女が側にいることでヒューが熟睡できないであろうことを知っていたからだ。この国において今カヨートの一族は排除すべき仇敵のようなものであり、決してその身を明かすことができない。それは此度の戦乱において彼らがニレン王国敗北の要因となったからに他ならない。
それ故彼女はみだりに犬の姿になることができず、結果としてヒューはお気に入りの毛皮を抱いて熟睡することができないということになる。勿論彼はそのことを覚悟の上だった。
「眠れない夜はもう慣れた。慣れないのは悪夢だけだ」
「また無理を仰って……さ、彼女が眠っている間におまじないを」
そう言ってイリはヒューの目の前に立った。彼も大人しく自分の身を差し出すと、彼女は彼の頬に両手を当てて何かを念じるようにして目を瞑った。そうすると彼女の両手が淡く光り出す。その光に包まれると彼は自分の中の疲労感や眠気が少しではあるが軽くなっていくように感じた。この旅において眠ることのできない彼の心と体を何度となく癒して来たカヨートが持つ不思議な力の一端だった。
「ありがとう、もう十分だ」
気だるさから解放されたヒューの顔色は確かに良くなったようで、イリは満足げに頷いた。
「御無理をなさらないように」
そう言っておまじないとは関係無しに彼の頭を自分の胸に抱き寄せる。が、彼はまた頭を押して彼女を突き放した。
「鬱陶しい」
「あら、いいじゃありませんか。少しくらいはお代を下さいな」
「お前がそんな欲深い奴だったとはな、幻滅だ」
「まあ、そんなに大層なものは望んでおりませんのに。ヒュー様の心さえ頂ければそれで満足ですのよ!」
イリがヒューの手を掻い潜ってさらに力強く抱き寄せた。
「それが欲深と言うんだ!」
目一杯抵抗するが力でカヨートに敵うはずもなく蛇に絡めとられたようにヒューは動けなくなった。
そしてその体勢のままで動く視線の先に、眠っていたはずのセレと目が合う。
「お、おはようございます……」
どうやら二人の騒ぎに目を覚ましてしまったようで、セレは気まずそうに声をかけた。
「あら、お目覚めになってしまいましたか。狸寝入りしていればよろしいのに、気が利きませんね」
「す、すいません……」
相変わらず辛辣なイリに対して思わず謝罪がセレの口からこぼれ出る。
「謝る必要はない。お前もいい加減にしろ」
ヒューが軽く頭を叩くと、しゅんとなったセレはいじけたようにそっぽを向いてしゃがみ込んだ。
「あいつはほっとけ。さ、目覚めたなら出発の準備だ。火を消して荷物を持て」
言われた通りにセレは出発の準備を始める。ヒューもそれに続くと、それを放っておくこともできずにイリも渋々荷物をまとめ始めた。
人目を避けて歩くために森や側道を歩き続けたヒューとイリは悪路に慣れていたが、元貴族のセレにとっては相当に負担となるようだ。彼らに足並みを合わすことができずに息をぜえぜえ言わせている。ヒューは彼女を気遣って何度となく立ち止まる。そんな様子をイリは憎らし気に見つめていた。
「大丈夫か?」
「……はい、申し訳ありません」
項垂れて肩で息をしている。傍目から見てもとてもこのまま進み続けることができるとは思えない。
「さあ、もう大丈夫です!行きましょう!」
そう言って勢いよく再び歩き出そうとした瞬間にセレの視界が大きく傾いた。
「わあっ!」
どうやら木の根が作り出す段差に気づかずに盛大に足を踏み外したようだ。大きく転倒した彼女は震えながら右足を押さえている。
「大丈夫か?」
ヒューが急いで駆け寄った。そして彼女の様子を見てその状態の悪さを思い知る。
「捻ったか」
足をくじいた彼女の痛みはその苦悶の表情から分かる。怪我の程度は分からないが、動けるようになるまでには時間がかかるだろう。
「ヒュー様、やはり足手まといです。置いていきましょう」
イリが冷たく言い放つ。
「それはできない」
「何故ですか? ただの通りすがりではありませんか!」
「その通りです……これ以上ご迷惑をおかけするわけにはいきません……私を置いて行って下さい……」
顔を上げてぎこちない笑顔でヒューを見てセレが言った。
「大丈夫です、自分の身くらいは守ることができます……お世話に、なりました……」
どう見ても強がりにしかヒューには見えなかった。一目見てもその体は鍛え上げられたようなものではなく、自衛のための武器さえ身に着けているわけではない。どこから歩いて来たかはわからないが、そんな彼女がここまで来れたことさえ奇跡のようなものだったのではないだろうか。そしてその奇跡がこれからもずっと続くはずもなく、このままでは野党か獣に殺されるか野垂れ死にが関の山だ、彼はそう考えてしまう。
「やはり連れて行く、せめて町までは」
「何故ですか! あなたの身を危険に晒すかもしれないのですよ! いつ追手が来るかもわからないのに……」
彼女がセレを置いていけというのは単なる嫉妬の類のものではなかった。単純に追われる身である彼の歩みを遅くすることが明白であったからだ。
「それでも……置いていけない……」
「それなら……」
自分の愛する者の安全を脅かす存在であることを明確に認めたイリは恐ろしくその赤い瞳を燃え上がらせる。その視線の先にはセレがいる。そこに感じられるのは強い殺意とその覚悟だった。
セレもそれを感じて自然に身が強張った。捕食者による明白な殺意はか弱い獲物である彼女に抵抗の意思さえ見せることは許さない。
「やめてくれ!」
ヒューがイリの手を強く掴んだ。その手を振りきることはイリにはできない。
「お願いだ……スティに似ているんだ……亡くなった俺の妹に……」
彼の苦しそうな表情を見てイリの殺意は消え失せ、代わりにそこには物憂げな彼女の瞳があった。彼の救いの手をその身に受けて、その優しさを誰よりも知っている彼女だからこそ目の前のか弱い者を見捨てることができないことがわかってしまう。イリは自分を落ち着かせるように大きく息を吐いた。
「そう言われてしまっては私にはどうしようもありません。勝手なことをしようとして申し訳ありませんでした」
「すまない」
「ヒュー様が謝る必要はありません。それよりも目の前のことに対処致しましょう」
そう言ってもう一度、今度は優しい目でセレを見た。
「セレ様、先ほどは失礼致しました」
ぺこりと頭を下げるとイリも少し安心したようでその場にへたり込んだ。
「私、あなたを信じてみようと思います。その上で私にその身を預けて頂けませんか?」
彼女にはイリが何をしようとしているのか全くわからない。自分と同じくらいひ弱に見える彼女が自分を担いで行こうと言うのだろうか、それは現実的なアイディアとは思えなかった。
だがヒューにはイリの意図が伝わったようだ。
「イリ、それは……」
「いいのです。同じ危険を冒すならば私の身を晒した方が得策です」
そう言ってイリはセレに近寄った。そうして今朝ヒューにしたのと同じように彼女の両頬に手を当てた。驚きでセレの体がびくんと跳ねたがその両手から伝わる心地よさに、本能的に抵抗することなくその身を預けた。
ヒューの時よりももっと多くの光が溢れ、彼女の全身を包み込んでいった。イリは彼女を癒すためにはそれくらい必要だと判断した。そうするとセレの疲れ果てた肉体に力が戻っていくとともにくじいた足の痛みが引いていくのを強く感じることができた。
「これは……?」
「楽になられましたか?」
複雑そうににっこりとイリが笑った。
「赤い瞳……不思議な力……あなたはもしかして、カヨート?」
セレの顔に疑心と恐怖の感情が浮かび上がった。
「反逆の一族がこんなところで何を?」