宵闇は不穏
セレの見込み通りに、夜が更けてもトエトが帰る様子はなかった。その間にも彼らの横を通り過ぎる人の姿一つもなく、木々の葉擦れの音だけが響き渡る森の中を彼らはただ待つことしかできなかった。樹木たちは闇の中で彼らの不安を煽る様に手をゆらゆらと振り続ける。縋るような思いで焚かれた火は彼らに僅かな光を与えるとともに闇の濃さをより一層際立てる。
「不気味な森だ」
沈黙を破ってヒューがポツリと呟く。
「そうでしょうか? 今までとそう変わりはありませんよ」
セレはイリの言うことが正しいように思えた。彼らが出会った森でもこんな静寂さが支配しており、風景も大差はないはずだ。それなのにヒューとセレの心によぎる不安はきっとここ数日屋根付きの宿で寝泊まりを続けたためだろう。元々野生に近い生活をしていたイリにとってはそちらの方が慣れないものだ。
「お前のいた森も、こんなだったのか?」
何気ない質問だった。イリにもそれはわかっていたはずだったが、何か秘密を持とうとする彼女はそれに対して身構えずにはいられないようだ。
「……そうですね、静かな、いいところでした」
自分の故郷を思い出しているはずの彼女が言い淀むその姿に少しの違和感をヒューは覚える。故郷とは安らぎや懐かしさを与えてくれるものではないのかと訝しんだ。
「確かエンディア、でしたか。大陸南に広がる大きく、深い、危険な場所だという噂は聞いたことがあります」
「そうなのか?」
彼女が特に地理に詳しいのは小さい頃から地図を眺めて冒険を夢見ていたことが大きい。それをさらに掻き立てたのが師であるベレンのどこから集めて来たのかわからないような数々の知識だった。彼の話ではエンディアに広がる森には凶悪な獣が徘徊しているのだと言う。
「そんなことありませんわ、平和な森でしたよ」
「そうですか、ただの噂だったようですね」
笑いながら答えるイリの話をセレは素直に受け入れた。だが否定はするものの、自分の故郷に関して決して多くを語ろうとしていないことをヒューは見抜いていた。
「そこに、カヨートの村でもあったのか?」
彼女の過去についてヒューですら知ることは少なかったが、それでも彼女が公用語を操り、町でも常識的な立ち振る舞いができていることから何らかのコミュニティに属してはいたのだろうということはわかっていた。
「……はい、丁度チャク様が仰っていたような隠れ里が。決して人目には触れないように、ひっそりと暮らしておりました」
チャンスだとヒューは思った。彼女の持つ秘密、決して語りたがろうとはしないが、それでも暴かれることを望んでいる何かが彼女にあることを知っている。
「何故そこから出たんだ?」
イリの顔が僅かに曇った。ヒューはその質問がイリの核心に迫るものだったのだと確かな手応えを感じた。しばしの沈黙の後に、イリはゆっくり顔を上げる。その視線はヒューを通り越してさらに向こうを見ているようだった。
「それを語っている余裕はないようです。お客様でございます」
その言葉にヒューとセレが立ち上がって振り返り、身構えた。注意深く耳を澄ますと確かに森の中から地面を踏みつける音や小枝を踏み折る音が響き渡っていた。聞こえる音の数や方向から一人や二人ではないことがわかる。
「刺客か、赤目狩りか」
小さく呟くヒューの鼓動が大きく刻み始める。剣の柄に添えられた手には震えが見られるものの、確かな意思でそれを制御しようとしている。
「どちらでもないかと思います。彼らならこうも堂々とやって来ることはありません」
イリは二人と対照的に余裕を持った表情で未だに座り込みながらそう答える。確かに、とヒューとセレは思った。彼らなら音も無くやってくるだろうという確信があった。ならば通りすがりの集団なのかと言えば、そうでもない。確かにゆっくりと音を消しながらこちらに近づこうとしている意思がある。ただその練度が低いだけなのだ。闇に乗じて忍び寄ろうとする集団というものはこちらに対して害を為す者たちであるのは明白だ。
「野党か、ならず者か」
「その類でしょう、どちらにせよこちらに向かっていることは明白です。それならばその目的は一つでしょうね」
誰かに目撃されたのか、それともトエトから情報が流れたのか、いずれにしても馬車というものはそれそのものの価値に加えて積荷によっては飢えて暮らす者たちにとって宝の山とも言える。
「私にお任せ下さい。赤目狩りのような者たちでなければ私にとって物の数ではありません」
そう言ってイリが立ち上がる。確かにイリであればそれは容易なことなのだろう、だがヒューにとって看過できるものではなかった。
「俺もやる。お前だけには任せない」
決してイリの実力を疑ってのことではない。彼女に守られているだけの自分を許せないからだ。強くなろうと決意した彼にイリに全てを任して自分は物陰に隠れているという選択肢は与えられない。
「そうですね、お怪我はされないように」
複雑そうに微笑む。彼女自身は後ろで見守っていて欲しいと思っている。だが彼の心意気を無下にすることも彼のためにならないとわかっていた。困難に対して流されるだけでなくそれに真正面から立ち向かおうとする彼の態度に成長というものを感じずにはいられない。だからイリは彼が手を下す間もなく全て片付けてやろうと思っている。
「わ、私も……」
怯えた声でセレが獲物を捌くためのナイフを握りしめている。彼女とて二人のために常々何かできることはないのかと探し求めている。その様子を見てヒューは手の震えが止まった。
「大丈夫、君は隠れているんだ」
下手に刺激するよりも大人しくしていた方が危害が加えられることもないだろう。セレのナイフは自分の身を守るには少し頼りないようにヒューには見えた。
「私にも、何か……」
彼女の手助けが必要な状況には思えなかったし、向こう見ずな彼女が何をしでかすかという恐怖もあった。それでも何かしなければ気が済まない彼女の気持ちを察することは二人にはできた。
「祈っていてくれ」
ヒューにとってはそれで充分だった。それだけで本当に道が光で照らされるような思いだった。セレもそれ以上言い返すこともない。彼女も自分の運命を受け入れようとしていた。自分の力量を見極めて、自分がやるべきことをは何か、それは今の状況においては隠れて二人の邪魔をしないことだというだけのことだ。
「気を付けて……」
「ああ」
そう言うとセレは馬車の中に隠れ、ヒューとイリはこちらに近づく集団に対して少しずつ近付く。
「何人くらいいる?」
「恐らく5、6人でしょう」
イリには敵が見えずともわかる。灯りに照らされた彼らは既に近寄る者たちの目視の中にあるが、彼らは自分たちにまだ気づいていないと思っている。故にイリならば奇襲をかければ容易に殲滅は可能だと彼女自身考えていた。ヒューも彼女がそう考えているとわかっていた。先んじて飛び出そうとする彼女を手で制する。
「まず本当に野党の類か確かめる」
「その必要もないと思いますが……刃物の音もするのですよ」
「野草採りかもしれんだろう」
ヒューの気遣いがイリには時にもどかしい。だがそれも彼の性格なのだとすんなり受け入れることもできる。そういうところも含めて彼の全てイリは愛していたのだから。