ハプニングは突然
気楽な旅は長くは続かない。ライアラを出発して三日が経ったその日、いつものように馬車内でだらだらと過ごしていた彼らを襲ったのはこれまでの揺れよりも一際大きなそれだった。その気配とともに馬車は止まり、何か異様な事態が起こったのだと彼らにも理解できた。
「一体何が?」
ヒューが馬車を飛び出す。馬車の中からではわからなかったが、彼らは今森の中の道にいたようだ。背の低い若木が多く茂った森であったためにそこまで暗い道ではない。そしてそこには同じく御者席から下りたトエトの姿があった。続いて珍しく眠りこけていたイリとセレもひょっこり顔を出す。四人が顔を見合わせると、ヒュー達には良くないことが起こっていることがトエトの表情からわかった。
「不運ですな……」
彼が指さした方向を見ると馬車の車輪の軸が一つへし折れていることがわかる。古めかしい馬車ではあったがそれを感じさせないほどに手入れが行き届いていたのはトエトの持ち前の実直さによる整備のおかげであった。そんな整備の行き届いた代物がこうなってしまったのは純粋に経年劣化によるものだろう。
「どうするんです?」
「……近くに小さな村があったはずです。そこへ行って人手を借りて修理します」
トエトが冷静に答える。現状を考えるにそうするのが最善のようだ。普段から準備を怠ることなく完璧な仕事を行おうとする彼の性格からしてこの事故は彼のプライドをかなり傷つけるものであったが、そこで冷静さを失うほど小心者でもない。
「ここで馬車を見ていてもらえますか? 私は馬で村まで向かいます」
そう言われたヒューは素直に頷けない。こんな森の道のど真ん中で待ち続けるのはあまり気持ちのいいものではない。
「大丈夫です、この辺りには野党の類が出たとはあまり聞いたことがありません」
ぶっきらぼうな言い方だが安心させようとしているのがわかる。だが彼らにとって恐ろしいのは野党ではない。それよりももっと恐ろしい物が彼らの背中を追いかけまわしているのだと主張したい衝動に駆られるが、それをこの男に語ってしまうことが得策ではないこともわかっていた。
「…わかりました。そちらはお願いします」
そうしてトエトは足早に準備を行うと颯爽と馬に乗ってその場を去っていく。文句や愚痴を垂れることなく淡々と自分のするべきことを行う彼の姿にヒューは素直に感心した。道中でもほとんど無駄口を叩くことがない彼について知ることはほとんどない。それでも信用に足る男であることは三人にも伝わっていた。純粋に彼は口下手なのだ。
「ついてないですね……」
セレが折れた車軸を眺めながら呟く。ヒューにとって幸運の象徴のような彼女の付き従う道中にこんな不運が舞い降りたことは彼女の祈りもついに届かなくなったのかと思う事態だが、そのようなものに頼ろうとすることも褒められたものではないと彼は自分の考えを恥じた。
「ハプニングは付き物さ。それにどう対応するかが大事だ」
イリに視線を送ると先ほどまで寝ぼけた顔だった彼女はもう辺りの警戒を始めていた。
「イリ、体は大丈夫なのか?」
「何故です?」
「君も疲れているんじゃないのか?」
問われたイリはきょとんとした顔をしている。これまでヒューとセレの体のために連日夜通し起き続けていた彼女が先ほどまで馬車の中でぐっすり眠っていたのを見て、流石の彼女にも疲れが出始めたのかと心配でならないようだ。
「ああ、申し訳ありません。そういえばぐっすり眠ってしまっていましたね」
「それはいい。休める時に休むべきだ」
「御心配ありがとうございます。確かに少し疲れがあったようです」
珍しく弱気な彼女をヒューが心配そうに覗き込む。
「大丈夫なのか?」
「はい、ヒュー様のご協力があればすぐに回復すると思います」
そう言ってイリはにこりと笑った。そこにヒューは何か怪しげなものを感じた。
「……何だ?」
「はい、これを服用致しますので夜疼いた私の体を慰めて頂ければと……」
イリがポケットから取り出した黒い実を見てヒューは即刻叩き落した。
「一人でやってろ」
「ああ、ああ……」
イリはまた地面に転がったラフネ・ピオの実を拾い集め始めた。相変わらず性質の悪い冗談ばかり言うイリに対してヒューはため息をつきながらそっぽを向いた。すると一丁前に辺りを警戒する素振りを見せるセレと目が合う。
「どれくらいかかるのでしょうね」
「さあな、今どの辺りにいるのかもわからない」
ターロットまではおおよそ一週間ほどの道のりであると出発前にトエトから教えられた。それならば道程の半分程であろうかと思われるが、そこも彼はあまり語ろうとはしなかったために、旅が順調であるかどうかもわからない。
「ライアラからターロットまでに通る森と言えばアゼン森林地帯かと思われます。かなり規模の大きな森ですがここを抜けるとすぐに村があったはずです。今日ここに入ったばかりだと言うのなら往復で一日はかかるでしょうか」
「人集めに時間がかかればもっとだな」
最低でも一晩はここで過ごすことを覚悟した。
「君は、彼のことを何も知らないのか?」
ふとヒューはトエトのことを思って尋ねた。仕事に対して真摯ではあるものの、相変わらず何もわからない男について少しでも何か知りたいという気持ちが働くのは無理もないことだ。だが彼自身セレに尋ねたところで何かわかるわけでもないだろうとはわかっていた。
「そうですね、何故ガアッドが彼と繋がりがあるのかさえも……わかりません」
「そうか」
「ただ……ガアッドが信頼するに足る方だというのなら、きっとそうなのでしょう」
そう言う彼女の顔は少し照れくさそうに見えた。
「ガアッドは、どんな人だったんだ?」
「厳しい方でした。いっつも口うるさくって……私の教育に関してベレン様と衝突することもしょっちゅうで……」
ふてくされた子供のような口調で語るセレは普段より幼く見える。
「それでも、口うるさいのは私のことを思ってのことなのだと、わかりましたから……」
そして複雑そうな思いを抱えてそう言う彼女の表情は淑女のものであった。貴族のリーアンヌ家としての成長を願うガアッドとそんな枠を超えて貴族としての成長を願うベレンが意見を異にすることは当然のことであった。だがどちらも彼女の幸せを願ってのことなのだとセレが気付いた時、彼女は自分自身がいかに子供であったかを思い知った。
「よかったじゃないか、それに気付けて」
自分を愛する者がいるということの幸せを彼は知っている。彼女は意固地であるが故にそれに気付けなかった。
「本当に……それでも、それがわかったとしても、旅に出たことを後悔なんてしません」
そう言って真っ直ぐヒューの顔をセレは見据える。
「きっとまだまだ知らないことが、知らなきゃいけないことがこの世界には沢山あって……それを知らないままじゃ、いられません」
彼女から強い意思を感じる。何かを成し遂げようとする力を。儚い少女の外見とは対照的に見えるその強さをヒューは羨ましいとすら感じた。
「だからまたご迷惑をかけることもあるかもしれませんが、よろしくお願いしますね」
か弱げに微笑むセレはヒューと見つめ合うことを急に自覚し始め、少し赤くなる。そんな彼女が愛おしくてヒューも自分の心臓が少し高鳴るのを感じた。
「こちらこそ……」
続く言葉が無くてヒューは沈黙する。セレもそれに付き従うように言葉が出てこない。お互いが黙って見つめ合う形となり、お互いがそれを心地よく感じた。
「お二人とも、随分仲がよろしいことで……」
そう言ったものに過剰に敏感なセレが間に割って入る。まるで突如としてそこに現れた存在であるかのように二人はイリに驚いた。
「ご、ごめんなさい。何だかボーっとしてしまいまして……」
慌てて弁解するセレだったが、決してイリの目を見ようとはしなかった。その真っ直ぐな瞳に見つめられると自分に今芽生えようとしている気持ちに気付かれてしまいそうだった。彼女だけは裏切れない、セレは慌てて自分の心に蓋をする。ヒューは何故自分がこうも動揺しているのか、それに気付きもしない。