彼女は嘘つき
「結婚? どういうことだ?」
今まで旅する中でも聞いたこともない上に、彼女がまだそれにふさわしい年齢であるとも思えなかった。泣きじゃくり続けるセレに尋ねようとヒューが歩み寄る。
「貴様らには関係のないことだ! 消えろ!」
ガアッドがそんなヒューの肩を押してそれを妨げた。ヒステリックな力のこもったそれは大きくヒューの体をよろつかせ、危ういところをイリが受け止めた。そんなガアッドを見てセレがいきり立つ。
「ガアッド! その方たちは私の命の恩人です! そのような態度は許しません!」
涙を目に浮かべながらの情けない恫喝であったが、それはガアッドにとって効果の高いものであったようだ。納得しかねる表情ではあったがイリにもたれかかったままのヒューに彼は向き直った。
「……すまなかった」
先ほどからセレに対して厳しい態度を取り続けていた彼だったが根本的には彼女に対して甘いのではないかと思わせる。釈然としない空気の中、少しの沈黙が辺りを支配する。
「……少し彼女と話をさせてくれないか? 大丈夫だ、逃げはしない」
「……いいだろう」
憮然とした態度で腕を組み、ガアッドはその場に仁王立ちになる。彼が見張る中イリとヒューは少し離れたところにセレを導く。鼻をすすりながら泣き続ける彼女の背中をイリが優しく撫でて落ち着かせる。
「……すいません、お見苦しいところをお見せして」
毅然と振る舞おうとするが鼻も目も真っ赤に染まって幼子のような表情は変わらず、大人びた言葉遣いが余計に不似合で滑稽なものに映る。
「気にしないでくれ、それより……さっきの話は本当なのか?」
ヒューの問いに対してセレは俯いて押し黙った。それは彼女にとって話したくないことだったのだろう。
「はい……本当です……」
「それじゃあ、君が家を出たのは……」
セレの耳が赤くなっていくのがわかるようだ。
「はい……どうしても、嫌で……」
ヒューは少し呆れた様な表情だ。今まで彼女が家を出たのは前に語ったように庶民の暮らしを見ることで貴族としてやるべきことを見つけるためではなく、結婚させられるのが嫌で嫌で仕方なく感情的に家を飛び出したというのが真実のようだ。彼女はそれを知られたくなかったのだ、子供のようなわがままで金を持ち出して家を飛び出したことを。
「嘘をついててごめんなさい……だって、でも、私……」
それを聞いて幻滅されたのかと思いセレは再び泣き始めた。取り繕った口調も取り去られて彼女の本来の姿を垣間見ることができる。イリはそんな彼女が哀れで愛おしくてたまらなくなって、優しく抱きしめて包み込んだ。
「そんなことは気にしてない、それより……そんなに嫌なのか?」
貴族として生まれた以上は望まぬ婚姻などはざらにあることだろう。特に女性であれば常々それを覚悟しなければならないと教える家さえある。貴族としての立ち振る舞いを気にするセレであれば、その責任も強く受け止めるのではないかとヒューは思った。それがこんな駄々っ子のようになってしまうということはどんな相手を押し付けられたのだろうかと思わずにいられない。加えてヒューはまだセレが自分たちについていくことに少しの抵抗があった。もし彼女が少しの説得によって家に帰ると言うのならそれもまたいいことだと思っていた。
「絶対に……嫌です……」
その言葉を聞いたガアッドが複雑そうな表情で歩み寄る。どうやら離れていても聞き耳を立てていたようだ。
「何故です? ラグラー様は立派な方です。ベイホーン家の次男であり、数々の業績を残された……」
「嫌! あの人私が10歳の頃から目を付けてたんだよ!」
彼女が思い出すのは度々家を訪れたラグラーが嘗め回すように自分を見つめる小太りの男だ。イリがわざとらしく口に手を当てて驚いたような仕草をとる。
「そんなことはありません……ベイホーンはリーアンヌとも縁の深い一家でこの婚姻が成立すればますます貴家も安泰になります」
「家のために生贄になる覚悟はしてた! けどまさかあんな変態親父のところなんて……嫌だよぉ……」
普段の丁寧な言葉遣いはどこかへ消え失せて、イリの胸に顔を埋めてセレはわんわん泣いた。
「ちなみに相手はいくつなんだ?」
「……今年で52になります」
ヒューは首を振った。いくら彼女がその覚悟を持っていたといっても、まだ若い。少しくらいは夢見ていたに違いない。ましてやそれが偏向的な性癖を持っている男である可能性が高いとあれば余計にだろう。加えて彼女は自立心も気性も強い。
「ですが貴族と生まれたからには家の名誉のために尽くす義務があります。セレ様も分かっておられると思っております」
何せそれを説いたのは他ならぬガアッド自身なのだ。幼い頃より彼女の身の回りの世話だけでなく、文字や勉学を教えたのは彼だった。彼女が師と崇めるベレンとは違い、頭の固いガアッドをセレはあまり好きにはなれなかったが、それに恩義を感じないわけではなかった。ガアッド自身はセレが優秀な生徒であり、家の名をさらに高める人物になるであろうと思っていた。
「確かにラグラー様は少し年を召しております……食欲旺盛な方だそうで、体型も少しだらしがないと言えばそうかもしれませんし、あまり身だしなみに気を遣われる方でもありません……」
ガアッドが本当に説得しようとしているのか、ヒューは怪しく感じ始めた。
「ですが、ですが! それも全ては貴家のためでございます! 必ずやこの婚姻によってセレ様の将来も保証されましょう。私もあなた様には幸せになって頂きたいと願っております……家を出られてこのまま放浪されたとしてもそうはなれません。必ず野垂れ死にとなりましょう。それが貴い家に生まれた者のすることでしょうか?」
ガアッドが信じているのはセレの貴族としての誇りだ。彼女が人一倍それを強く持っていると知っているからこそ、そう説得すれば彼女が折れると思ったのだ。彼とてラグラーが彼女を見初めて婚姻を持ちかけた時には嫌悪の念が働いた。先ほども自分で述べたように醜い男であり、その性癖も知っていた。もっと良い縁談はなかったものかと嘆いたものだった。しかしベイホーン家の長男は既に結婚しており、その下に兄弟はいない。これを逃せば次に二家を結ぶ機会はずっと先になるだろう。家のためとセレのため、両方を天秤にかけ、ガアッドは家の発展がセレのためになると断じて断腸の思いで彼女を連れ戻しにここまで来たのだ。
「わかってる……わかってるけどぉ……」
ガアッドの説得は効果的であったようで、セレは自分の果たすべき責務を考えて迷いが生まれ始める。しかしそれでもまだ折れようとしないのは、単にラグラーという男に対する嫌悪感だけではない。このまま誰かの妻となり、一生鳥かごの中に閉じ込められてしまうことで、果たして自分が目指すべきである貴き者に近づけるのかという疑念もあったのだ。彼女がヒューたちに語った理想、貴き者としてやるべきことを見つけたいというのは、完全な嘘というわけでもなかった。
「もう一度、彼女と話をさせてくれないか?」
そんな二人のやり取りを見たヒューが横から口を挟む。このまま言いくるめられてしまいそうな彼女が見ていられなかったのだ。
「必要ない、いくら命の恩人とは言えセレ様の運命まで変えてしまう権利などない!」
「ガアッド!」
セレの剣幕にも彼は動じない。もはや心を決めたのだろう。いくら強く言われようとももう後ずさりはしないと彼は思っていた。
「お願い……少しだけでいいの……二人と話をさせて……」
だが意外にも彼女の口からは懇願の言葉が生まれ、目からは大粒の涙を流していた。それを見たガアッドの心は容易く揺れる。
「す、少しだけです……別れの言葉でも言っておくことです」
やはりセレには甘いようだ。三人は再び少し離れて一堂に会した。