彼女は物知り
何事もなく山村で一夜を過ごした後に、小屋を借りた村人に礼を言うと早速ヒューらは山道へと繰り出した。貿易都市であるライアラへ続く道ということもあり道幅はより広く、なだらかになっていく。そんな中でイリが何かを見つけたようで、一人道を外れたかと思うと黒い実をつけた膝の上まである丈の草を根っこごと一本丸々引っこ抜いて持ってきた。そして満面の笑みでヒューに問いかけた。
「さてヒュー様、これは一体何でしょうか?」
特に植物に詳しいわけでもないヒューにはその答えがわからない。もしかするとと思い、セレの方を見てみるが彼女も彼と同じようで首を傾げてそれを見ている。
「さあな、知らん」
「これはラフネ・ピオと呼ばれる草でございます」
その名前を聞いてヒューとセレは驚いて後ずさった。
「まさか、それが……?」
「はい、ピオークの原料です」
二人は険しい顔つきになる。ピオークとは薬物の一種であり、強烈な幻惑作用とともに強い快感を与える、一種の麻薬でありニレン国内においても中毒者が続出したため、現在その原料であるラブネ・ピオの栽培と製造を禁じられている。二人もそれは知っていたが、その原料となる草の姿までは知らなかったのだ。
「何故そんなものがここに……」
「あら、ラフネ・ピオ自体は元々野生種ですから自生していることも珍しくありませんよ。それに抽出法も特殊で知っているものは稀です」
無害であることをアピールするかのようにイリは草を目の前に差し出して見せる。
「さて、ピオークの材料となるのは根の部分でそこばかりが有名ですが、この草は大変有用なのですよ。特にこの実でございます。これにはどんな効果があるかご存知ですか?」
「いや、わからん」
イリの意図がわからずにヒューは適当に答える。
「ヒントは私たちが今最も必要としているものでございます」
そう言ってイリは実を一つ千切ってヒューに差し出した。受け取ったヒューは訝し気にそれを見つめるが、イリが自分に危害を与えるような事をするわけがないと思い、興味を持ってそれを指で転がして見せた。
「今か……滋養があるとかか?」
「その通りでございます!」
嬉しそうにイリはぴょんぴょん跳ねた。なんだかんだ言って彼女が自分のことを気遣ってくれているのだとヒューは感心して、実を口に含んだ。
「元々は栄養食として大変重宝されていたのですが、ピオークのせいでまるで悪者のようにされてしまったのです。残念なことです」
「へえ、それじゃあ実だけでも持っていきましょう。味はどうですか?」
セレはそれを聞いて嬉しそうに実を毟り始めた。森の中においてはイリはかなりの物知りである。好奇心旺盛な彼女はその点においてイリを尊敬していた。そんな態度にイリは鼻高々である。
「悪くない、少し甘い」
それを聞いてセレも興味深そうに実を口に運んだ。イリはそんな二人を見て満足げにさらにうんちくを語る。
「栄養もある上に一種の興奮作用もあるようでして、精力剤としても用いられていたようです。一粒も食べればその晩は果てることがないと言われており、かつては子宝草とも呼ばれていたとか……」
それを聞いたセレが口に入れた実を咄嗟に吐き出す。既に胃に落としてしまったヒューは苦々しい顔でイリを見つめた。
「お前……何てものを……」
「何も悪いものではありませんわ」
「今必要なものだと?」
「はい! 私もそろそろ体が疼いて仕方がありません……今宵は期待しております!」
まんまとイリの口車に乗せられてしまったことをヒューはひどく恥じた。セレは顔を真っ赤にして手の中の実を全て地面に落としてしまう。
「あらあら、いけませんよ、セレ。大事なものなのですからきちんと持っておいて下さい。あ、セレも一粒いかがです? 単なる栄養食としても優秀ですし、もし夜に体が疼いてしまったら……ヒュー様をお貸しするわけにはいきませんので私がお相手します、ご安心下さい」
実を拾い上げてセレの手に乗せ直すとイリは妖艶な表情でイリの首筋に手を這わせる。更に顔を烈火の如く紅潮させるセレ。
「な、ななな、あの、その……」
「淫乱が」
再び調子に乗り始めたイリの頭に軽く拳骨を食らわせてヒューは歩き出した。いくら栄養があろうとももう二度とラフネ・ピオの実を口に運ぼうなどとも思わなかった。
「ああ、セレ! 実を拾うのを手伝って頂けませんか?」
セレが手から落とした実は地面に大きく散らばった。だがいくらイリの願いでも彼女はそれを手伝う気も起きない。
「し、失礼します!」
そう言って足早にヒューに続いて行った。
「もう」
めげずにイリは一粒一粒念入りに拾い上げる。そしてあらかた集め終わると、鼻と足を頼りにすぐにヒュー達に追いついた。
「拾って来たのか……?」
怪し気な物を見るようにヒューはイリを見つめた。それに対して彼女は悪びれるつもりはないらしい。
「はい、行く先で何があるかわかりませんもの」
「一体何があるってんだ……」
「だから先ほども申し上げた通りです。行く先はまだ長いのです、体調を崩されることもあるでしょうに」
イリはいたって真面目そうに答える。
「お前が料理に仕込むんじゃないかと思うと気が気でない」
「そんなこといたしません!」
それに対してヒューは相変わらず疑惑の目を向け続ける。イリは必死になって本当に皆のことを思って実を拾ってきたことを主張するものの、普段の行いから信用を勝ち取ることは難しそうだ。
「で、でも本当に森のことに関してお詳しいんですね、イリ」
不毛な言い合いで場の空気が悪くなることを見越したセレが新たな話を切り出した。
「そうでしょうか? でもラフネ・ピオに関しては少し特別でございます」
「どういう意味ですか?」
「あれは元々カヨートが栽培していたものですから。私が特別詳しいと言うわけでもありませんよ」
「そうなのか?」
元々彼らの農耕技術は人よりも優れたものがあった。森に住まいそれとともに生きる彼らは植物全般に関して詳しい。それらを調合し、薬とすることにも長じており、人が用いる多くの薬も元は彼らが生み出した物だ。だがそれを知る者は人の中でほとんどいない。それを認めようとしないのだろう。
「はい、ですからもしかしたら先ほどの物はチャク様が栽培されていたのかもしれませんね」
もしそうだとしたら何にそれを用いようとしていたのだろうかとヒューは思った。
「ラフネ・ピオの効能に関しても皆知っていることなのか?」
「はい、私も母から教わりました」
「あまり教育にいい草とも思えないが……」
「ふふ、少しお茶目な母でしたから」
そう言ってイリはにこりと笑った。その母親あってのイリなのだとセレもヒューも思わずにはいられない。
彼らが立ち寄った山村は丁度山の頂上付近に位置しており、出発してすぐに道は下りに入った。後はこのまま真っ直ぐに行けば交易路となる街道に交わり、そこを行けばライアラに迷うことなく辿り着けるだろうと小屋を貸し出してくれた村人は言った。その街道は今でも多くの人が行き交うはずである。そうなれば刺客も見つけ出すことは難しくなるだろうし、うかつには手も出せないだろうと彼らは考えた。少なくとも再び道なき道を行き続けるよりかは良い案なのかもしれない。