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その名は願い

 幸運にもヒューたちはその日のうちに山村に辿り着くことができ、さらに村人の厚意で農具小屋の一つを貸してもらえることにもなった。無論彼らもこの国に住む者としての責務は課せられており、決して楽な生活を送っているわけではない。だがそんな中でもどんな目的であれまだまだ若いヒューたちが切迫した状況であることは伝わったらしく、何も言わずに小屋を貸し出してくれた。こんな状況であっても人の優しさに触れることができる、そんな当然のことにセレは驚き、感動した。


 ヒューは昼に起こった出来事にまだ心が囚われており半ば放心状態であったが、イリはすっかり調子を取り戻したようだ。それどころかヒューが人の状態の自分を抱きしめてくれた事実を噛みしめ、少々ご機嫌のようで、いつも以上にヒューにひっつき回っている。事情がどうあれ彼が彼女を泣かせてしまったという引け目からだろうか、それに対して強く否定することができなくなっていた。だがいい加減その効力も消え失せて来たようだ。


「暑い、離れろ」


 狭い小屋の中で荷物を置いてやっと落ち着いたところだというのにヒューの右腕にまとわりつくイリに対して、彼は冷たく言い放って突き放した。無理矢理ひっぺがされてもイリは変わらずにこにこと微笑んでいた。ヒューの確かな愛を感じることができたからだ。


 彼女とてヒューよりも少し長く生きたくらいの歳である。普段から余裕な態度を装ってはいたが、実際のところ不安を感じない彼女ではなかった。ヒューにとって自分は何なのか、それを考えると彼女の心に靄がかかることを止められない。単に命の恩人としての恩義を感じてくれているだけなのか、犬としての自分を愛してくれているのか、人とカヨートという垣根を超えることは不可能なのか、彼女はそんな不安をひた隠しにして今までヒューに対して接してきた。だがそんな不安の霧を晴らすかのように彼は彼女の元に駆けつけてくれた。優しく抱き寄せてくれた。その事実が彼女の心に喜びの虹を掛けていた。


「ヒュー様……ありがとうございました……」


 少ししめやかにイリは真っ直ぐヒューに向かって言った。照れくささを少し感じるような、いつものような余裕は見られない。年相応の女性らしい仕草にセレは少し微笑ましさを感じる。


「……気にするな、俺だって守られているだけってわけにはいかない」


 対照的にイリを一切見ようとせずに彼は言った。そして少し目を瞑ってあの時の感触を思い出していた。鋭い剣の切っ先がやわらかい肉を突き破ったあの感触を。


「いえ、今回は情けないところをお見せしましたが、これからはヒュー様のお手を煩わせることのないように尽力させて頂きます」


 そうきっぱりとイリは固辞した。自分を守ってくれたことは嬉しかった、それでもヒューが手を汚すことを彼女は良しとしなかった。彼の優しい魂が汚れてしまうと思い込んでいる、それは優しさに見えて無意識に彼を支配しようとしていることに彼女は気付いていない。


「そうもいかない。俺も強くならなくちゃいけないんだ」


 今まで戦うということに対して消極的だったヒューの心境の変化にイリは少し困惑気味だった。だが彼の目は静かな決意をたたえている。それを否定する気になどなれなかった。


「それが俺の使命だからな……」


「使命、でございますか……?」


「ああ」


 そう言ってヒューは剣を取り出した。血は既に拭ってあり、刀身にはその汚れは一切見えない。だがもはやそこには元の輝きを見ることはできない。だがそれは単に曇ってしまったのではない、使い込まれた道具にこそ宿る確かな誇りのような、鈍い魂が宿ったかのようにヒューには見える。そして柄に刻まれた文字を確認する。そこには『エル』と刻まれており、それは彼の名前の一部だった。


「ヒュー・エル・アディール、父と母より『強き者』の願いを受けて生まれた」


「貴印、ですね」


 セレがそれに返した。貴族のみが名乗ることを許されたそれを知っているのはこの場では彼女だけだった。


「何でございますか、それは?」


「俺たち貴族は名に加えて『家名』と『貴印』を持っている。家に属する者は共通の家名を持つが、貴印は家名の前に来る、子に掛ける願いによって付けられるものだ。大抵はその家によって貴印のリストがあってその中から選ばれる。俺はアディール家の後の家長として父と同じ『エル』、すなわち『強き者』の印を頂いた」


 貴印はそのほとんどがニレンとサビロアの前身である古レセナリア民族の偉人が元になっている。その物語の多くは失われてしまったが、『エル』とは未開の土地を拓いた勇猛な人物であるということだけはヒューも知っていた。


 彼は元々その名に恥じない生き方をしようなどとは思っていなかった。ただ単に押し付けられた記号であるとしか思えなかったのだ。だがイリとセレの危機を目の当たりにした時、自分の中に湧きあがる気持ちが彼の心を変えた。心の底から何かを守りたいと思った時、それを成し遂げるためには強くならなければならないのだと確信した。彼は今日初めてその身に刻まれた印を誇りに思った。父もその印に恥じない武人だったのだ。


「そうですか……」


 ヒューの言葉を受けてイリは少し寂しそうな顔を見せた。彼女は彼を守ることでその存在をその腕の中に引き留めておかなければならないという偏執的な考えに支配されていた。それは深すぎる愛を持つ母の子に対する感情に似ていたが、男というものは得てしてそれに留まる存在足り得ない。彼女には子離れが必要だった。


「そういえばセレのはどんな意味が?」


 少し不満げなイリの顔を見て、何か気まずさを感じ取ったヒューがセレに向き直った。貴印はそれぞれの家系に伝わるものであり、外の者にはその意味も由来も知ることはない。


「セレ・オロ・リーアンヌ、祖父より頂いたその意味は……」


 セレは随分歯切れが悪い。あまり語りたくないような話題だったに違いない。


「『祈る者』です……」


 重たげに開いた口からはその言葉だけが響く。


「気に入ってないようだが」


「そうですね……」


 大きく息を吐く。


「正直言って嫌いです。自分では何もできないと言っているようなものじゃありませんか。私には何も果たすべき使命がないかのようで……」


 直情的で正義感の強い彼女が欲したのはもっと具体的なものなのだろう。


「いいじゃありませんか、セレにぴったりの慎み深い、綺麗な願いだと思いますよ」


 イリが笑顔でそう言う。そこには嫌味なものを一切感じない、彼女が本当にそう思っているのだとわかる。


「そうでしょうか……」


 とは言え本人が満足するわけでもなさそうだ。名家に生まれながら存在価値をほとんど感じることができずに過ごして来た彼女はわかりやすい、はっきりとした生きる目的が欲しいのだ。


「俺もそう思う」


 彼女が持つ驚異的な運は、彼女の祈りの結果なのではないかとヒューには思えた。イリが罠に捕まって駆けだした彼女が何にも足を取られずに、矢を放たれることもなくイリの元に辿り着いたのは奇跡としか言いようがなかった。それこそ彼女の祈りによって自分たちが救われたのだと彼は思わずにはいられなかった。だがきっと強情な彼女はそれを言ってもきっと納得してくれないだろうなとも思った。

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