四人は友
森に静寂が訪れるとヒュー達にも戦いにも終わりが訪れたことがわかった。セレは全身の力が抜けたようにその場に崩れ落ち、ヒューは血塗れの剣をその場に落すと、イリの元に駆け寄った。
「大丈夫か?」
妙に落ち着いたような上の空のような声色である。それは彼の全身の筋肉がもはや使い物にならないほどにそれまで緊張していて、声に感情を含ませることすらできなかったからだ。
「……はい、ヒュー様こそ大丈夫ですか?」
誰よりも激痛を抱えるはずの彼女が極めて冷静に努めていることにヒューとセレは胸を痛めた。それが虚勢であることは誰の目から見ても明らかなのだ。
「待ってろ……今解いてやる……」
ヒューがイリの足に噛みついた金具を解こうとするも、特殊な形状であるそれは彼らにその方法を教えなかった。四苦八苦してそれを探るがその部品を動かす度にイリの足にそれが刺さり、顔を僅かに歪ませた。そうして彼はあの日のように力づくで切り開こうとした。あの日と同じように鉄の刃を手に食い込ませながら、血でその手を染めながら。
「ぐっ……」
だが頑強な作りのそれは簡単に開くことを許さない。だがヒューはそれを手放すことも許されない。手を離せば再び彼女の足に食い込み、更なる苦痛を与えるだろう。もはや彼女にこれ以上の苦痛は必要ないだろうと思った。
「ヒュー様、離してください……」
自分の痛みよりもヒューのことを気遣う彼女は、彼の手が鮮血で染められていくことの方が苦痛だった。
「もうちょっとだ……」
それを見かねたセレが何も言わずに手を差し出した。そして同じように鋭利な刃に手をかけてひ弱ながらも全力で力を込めた。それを見てもヒューは止めない。今は彼女の僅かな力も欲しかったし、セレもイリを救いたいと心から思っていると知っていた。
「お二人とも無茶ですよ……」
力ない声でイリは絶望の声を上げた。二人の手が血で真っ赤になってもまだ金具は彼女の足を抜くための隙間すらできない。ヒューとセレにも苦悶の声が上がるほどに刃が食い込む。だが二人ともその痛みさえ今は愛おしい、自分たちを守るために何も恐れず立ち向かい、自分が傷つくことすら厭わない彼女の抱える痛みの一部でも抱えてやりたいと思っていた。
「手を貸そう」
そんな三人の元に狩人たちが去ったことを確認したチャクが駆け付けた。そして命の恩人たちにその手を添え、金具にあらん限りの力を込めた。
か弱い人の力二つと強靭なカヨートの力一つが合わさり、ついに狩人たちの残酷な罠は開かれ、イリはその瞬間に足を引き抜いた。その勢いそのままにイリは地面に横たわり、痛みに痺れる足を押さえた。
「待ってろ……」
イリの元にヒュー達とおなじように血で手を染め上げたチャクが跪く。そしてズタズタに裂かれた足の傷に手を添えると優しく目を瞑って、念じる。イリよりも力強い気がする光が溢れ、イリの傷を包み込んでいく。
「我々はその恩を忘れない。命には命で返す、カヨートの掟だ」
「ありがとうございます……」
体を支配していた痛みが引き、虚勢ばかり張っていたイリは安堵から少し涙を流していることをヒューは見逃さなかった。
「こちらこそ感謝する。君たちは命の恩人だ」
彼らは恐怖から解放されて弛緩しきった空気の中で何も言うことができずにただ唖然としていた。もはや自分たちがどのようにしてその危機を乗り切ったのかさえ、現実感がなさすぎて覚えていない。ただヒューだけはあの時に抱いた覚悟を忘れることはなかった。自分は愛する誰かのために誰かの命さえ奪える、その覚悟を。
「君たちはどこへ向かっているんだ?」
憎々しいトラバサミを囲んで四人が座る中、チャクが口を開いた。
「ターロットへ……」
疲れ切ったヒューの口から弱々しくその単語が出る。
「あんなところまで……何か重大な使命があるようだな」
ヒューが黙って首を縦に振ると、その意思をチャクも感じ取って同じように深々と一度頷いた。
「君たちの恩に報いるために同行したいところだが、俺がいれば必ず君たちに迷惑をかける……そこのお嬢さんと違って俺は目立つからな……」
そう言って毛むくじゃらの腕を差し出して見せた。それをわざわざ見せつけるチャクにヒューは少しおかしくなって笑いながらそれに答えた。
「いいさ、元よりそのつもりだった」
そしてヒューは手を差し出す。チャクも黙ってそれに従いお互いの手を握りしめた。
「気持ちだけ頂いておくよ」
「すまない、だがこの借りは必ず返す。何があっても、どれだけかかったとしても」
本当に心の底から自分たちのために何かをしてくれるつもりなのだとヒューは感じずにはいられない。それほどまでにチャクの眼差しには岩でさえも突き通してしまうような強く光り輝く意思が見られた。
「チャク様はこれからどうされるのです?」
その横からセレが口を挟む。彼女とて心からチャクの行く先を案じている。
「俺も耳に挟んだことなのだが、この国のどこかにカヨートの隠れ里があるらしい……それを見つけようと思う。その他に行く道もない」
はっとなってチャクはヒューとセレを見た。恐らくその情報はカヨートにのみ共有されるべきものであり、人が知ってはいけないことなのだ。現に二人ともその存在を僅かにも聞いたことがなかった。だがそれも束の間、すぐにチャクは過ぎた不安だと思った。この二人ならば、知っても大丈夫だと。
「それじゃあ俺はもうここを発つ」
高い体力を持つカヨートは疲れの回復も早いようだ。加えて長く彼らの側にいることが不安でもあったチャクは早々とここを去る決意をした。
「ああ、無事を祈る」
「お元気で」
彼らもその決意を何となくだが理解した。
「ヒューだったな」
別れを前にしてチャクはヒューに向き直った。
「ああ、まだ何かあるのか?」
そして彼の目を真っ直ぐに見据えて一歩近づく。
「君がカヨートと共に旅をしているのを見て最初は何を企んでいるのかと思ったが、そんな心配は必要なかったようだ」
優しく微笑むその目には絶対的な信頼を感じさせる。
「君ならばカヨートの真の友となれるだろう。あのお嬢さんのことを頼んだ。彼女はきっと……」
ちらりとチャクはイリの方を見た。
「チャク様、それは言う必要のないことです」
イリはそう言って口に指を一本当てた。
「……そうか、だがヒュー、お願いがある」
「……聞こう」
神妙な口ぶりのチャクに向かってヒューはそれに応えるように真剣な顔つきになる。
「我々カヨートを、そして何より彼女を、愛してやってくれ」
「ああ……」
その言葉の真意が何であるかは彼にはわからなかった。だがその口ぶりからは、それが容易なことではないのだと感じさせた。イリは俯いて何かを考え込むような様子だ。
「ではな……我が友よ、必ずまた会おう」
そうして振り返ることもなくチャクはその場を走って去る。獣のように自由で気高くありながらも、向かう道の険しさに危うさを感じずにはいられない。ヒューもセレも心から彼の無事を祈った。
「俺たちも行こうか、村は近いはずだ。イリ、立てるか?」
「はい、すっかりよくなりましたので……」
三人は重い腰を立ち上げて、血と罠でまみれたその場を去ろうとした。そしてヒューが自分の落した剣に気付き、それを拾おうとしたその時、彼の背中に何か重いものがのしかかる感覚を覚えた。
「ヒュー様……」
か細い声が聞こえて彼はその正体がイリであることに気付き、慌てた。傷が開いたか、それか完治していなかったのかと思った。だがその後に聞こえてくるすすり泣く声で、そうではないとわかった。
「い、痛かったです……痛かったんです……」
イリの中にあった不安、愛する者と別離してしまうのではないかというそれと、自分に降りかかる苦痛への恐怖、そして自分のふがいなさでヒューが罪を犯してしまったことへの罪悪感、それらが合わさり彼女を幼子のように泣かせた。ヒューもその悲しみの本質が何であるかを計り知ることはできない。それでも彼女をこれほどまでに不安にさせて泣かせてしまったことを心から恥じた。それは自分の弱さに対する恥でもあった。
「ありがとう、イリ……すまなかった……」
しがみつく彼女を一旦優しく離すと向き直って正面から彼女を抱きしめた。そして優しくその髪を撫でると、それが犬の姿の彼女の毛皮と遜色なく彼の心を癒してくれることに気付いた。初めて見せるその弱さは彼ち彼女の心を近付けたように思えた。
セレはそんな二人を見つめながら優しく微笑み、少しだけ涙を流した。