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それは覚悟

 激痛とともに足からおびただしい血を流し続けるイリを前にザグは冷静なものだった。いくらカヨートといえども鉄を引きちぎることなどできはしない。ましてや痛みに耐えながらなら尚更だ。そして彼女を救いに行く者はいない。動けばより明確な死が待っているからだ。


「兄貴の言った通りやっぱり赤目で間違い無いようだな。全く、姿だけ見たら人と変わりやしねえ」


 イリの濁った赤い瞳をザグが興味深そうにのぞき込んだ。彼女はそれに憎悪の眼差しで返すが、ザグに伝わったところで何ら彼の優位は変わらない。それどころか彼の嗜虐心をさらに煽ることになる。


「クク……これなら殺す前に随分楽しめそうだ。他の毛深い赤目は俺の好みじゃねえが、人の中でも上玉の部類だ……最もシャゴ―の奴はそっちの方がいいみたいだが……」


 舌なめずりをするようにイリをまじまじ見つめた。そうしてシャゴ―のことを思い出すと彼は突然首を振った。


「いけねえ、このままだとまた不愉快なものを見せられちまう……少し惜しいがここで死んでもらうぜ、お嬢さん」


 シャゴ―は彼を軽く凌駕するほどに嗜虐的性癖が強い。生け捕りにしたカヨートは皆彼の手で残虐に痛めつけられ、汚され、殺されていった。それはザグが見ても不愉快なものであり、あまり見たいものではなかった。そのため彼はチャンスがあれば積極的に生け捕りを諦めて獲物を殺すことにしている。今回はイリが人の姿と変わらぬが故により彼の心に嫌なものを残すことが予想されたのだろう。


 遠くからその会話が聞こえずともチャクとセレとヒューにもイリの危機がわかった。ヒューの心には恐怖が大きく発芽し、その足を動かすことを許されない。木々と草の間にあとどれだけの罠が仕掛けられているか、イリのようにそれらを飛び越えることなどできやしない。例えできたとしても残りの二人の狩人がそれを許すだろうか、後ろから撃ち抜かれて終わりじゃないか。そして何より彼女の元に辿り着いたとして自分にあの男を殺すことができるだろうか。イリがいなくなったら、自分は無事でいられるか、新たな悪夢が訪れるのか、はたまたここで静寂の死を迎えるのか。


「うわああああああ!」


 彼のそんな思考を打ち砕くように鳴り響いた叫び声が発せられたのは隣に佇んでいたはずのセレからだった。彼女はその声とともにイリに向かって駆けだしたのだ。


「セレ!」


 あまりの突然の出来事にその場にいる誰もが体を強張らせた。自殺行為であった。シャゴ―とガタンもいつでも矢を射かけることができたはずなのにそれをしなかったのは、そのまま罠にかかって自滅するのだという確信があったからだ。それほどまでに先ほどのイリの突進に比べてセレのそれは頼りないものだった。


 だが彼女は何物にも阻まれることなく駆け抜けていた。あれだけ危なっかしい足取りで山道を歩いていたはずの彼女が木の根にも背の高い草にも木々の枝にも狩人たちの罠にもかからずに走っていた。それは彼女がそれらを全て見抜いていたわけでもなく、打開策を思いついたわけでもなく、ただその気持ちに従って走り抜けただけなのだ。そしてその気持ちに応えるように、何か人の理の外にある力が働いたかのようで、奇跡や幸運と呼ばれる類のものであるとしか説明できなかった。


「イリに、イリに近寄るな!」


 その短い赤毛が逆立つような怒気を含んだ声が彼女の喉から鳴り響き、風によって運ばれたかのようにセレはザグとイリの間に立ちはだかった。それに気圧されて一瞬ザグはたじろいだが、すぐに冷静さを取り戻した。そう、彼女が一人駆けつけたところで状況は何も変わらない、それほど彼の心を揺り動かす要因になりはしなかった。


「なんだぁ? 随分可愛い嬢ちゃんが混じってたもんだな」


 下卑た笑いがザグの口から漏れ、彼はそのまま一歩距離を詰める。それに合わせてセレも下がりたくなる気持ちを必死でこらえてその場に留まった。


「珍しい頭をしてるが中々の上玉だ、こっちは生かして楽しませてもらうか……シャゴ―は赤目にしか興味がねえからな……」


 シャゴ―がその嗜虐心を滾らせるのはカヨートに対してのみであったし、それどころか人の女に対して何の興味も持たなかった。それ故によりザグは彼に不気味さを覚えてしまっていた。自分の理解の範疇の外に存在していたからだ。


 ザグはお楽しみを見つけてじりじりとセレに近寄る。そしてその手が彼女の顔を掴んだ瞬間に、それを見ることしかできなかったヒューの心が爆発した。


 守ると誓ったはずのセレが窮地に立たされ、自分を世界で唯一肯定してくれるイリが傷つき、彼の悪夢、すなわち愛する誰かを失う悲しみと恐怖が彼の心臓を強く鼓動させて、熱い血液を全身に送り出した。駆け出すその足取りはイリより強くない、それでもセレよりずっと強い。そして道はセレが示してくれた。彼女の持つ幸運を信じて、その足取りを追った。右手には握り締められた剣、イリの爪よりかはずっと頼りない、それでもセレの持っていない、彼しか持つことができない、強くあるためのものだ。


 その存在を許すことはできず、ガタンとシャゴ―は矢を射かける。だがセレが切り開いた幸運の道はヒューにもその残り香を与えた。それらはことごとく木々に阻まれて、ヒューは突風のように愛する者たちの元へと走り抜けた。


 それを見ていたチャクはそれを好機と見た。二人の注意は今完全にヒューに向かっている。そしてその場所は矢が教えてくれる。何本も射かけたそれらは彼に二人の場所を漠然とではあるが特定させた。そして気付かれぬようににじり寄り、もう一つの決定的なチャンスを待った。それは即ち、今先ほど出会ったばかりであるヒューを信じたということだ。彼がそれを作り出すのだと。


 そしてそのヒューの眼前には三人の姿があった。愛しいイリとセレ、そしてその二人を危ぶませる赤目狩りの男。駆け抜けた勢いそのままに彼はザグの目を見た。突然の彼の登場によりそこには驚きと困惑があった。そしてその次に現れる恐怖が彼にも伝わると、彼は自分に問いかける。


―ー本当に殺すのか?


 その問いに対して彼は明確な形で答えを出す。即ち、その剣の切っ先に体重を乗せてザグの喉を貫いた。今までは人の命を奪うことなどできるのかと、彼にはまだ覚悟ができていなかった。今彼はそれを持った、それを持つ資格を得た。世界から憎まれようとも、その身が煉獄に焼かれようとも、亡者の魂に身を蝕まれようとも、この二人を守ると決めたのだ。


「くっ……かはっ……うぇ……」


 ヒューがその剣を勢いよく引き抜くと、ガタンよりももっとかすれた声を漏らしながらザグが何が起こったかも理解できずに、滴り落ちる鮮血を眺めた。そして燃える炎のように熱い喉を押さえつける手が同じ色の血で染まることを認めると、明確な死の匂いを漂わせて無様に倒れ込んだ。


 はっきりと聞こえるほどに勢いよくどさりと砂袋が倒れる様な音が聞こえた。射かける矢の手が止まる。チャクにもはっきりとガタンが動揺しているとわかった。それとともにカヨートが見せる全力の疾走を見せ、あらかじめ感じ取った敵の元に飛びかかった。


「なっ……!」


 布をすり合わせたような小さな驚きの声を上げてガタンは身を翻した。だがチャクの右腕から繰り出される殴打はしっかりとガタンの左腕を捉えた。その一撃は彼の背後にあった木の元まで2メートルは吹き飛ばし、叩き付けた。それでも彼は痛みなど感じていないかのように即座に立ち上がって状況を分析した。


「……シャゴ―、撤退だ」


 シャゴ―はそれに異論を唱えない。彼は己の意思などないかのようにガタンに従うだけだ。罠の位置を正確に把握していた彼らは全力で退く。ザグを失い、ガタンは自分の左腕が使い物にならないとわかると、これ以上戦い続けるのは危険だと判断したようだ。チャクもそれを追おうとはしなかった。今は何より彼らが逃げてくれたことが彼を安心させた。

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