痕跡はくっきりと
「何か、匂いませんか?」
山道を歩くうちにイリは突然顔をしかめながら二人に尋ねる。
「いや、何も?」
ヒューにはその異常に気づくことができない。セレも同様に首を振った。
「そうですか……」
「何の匂いかも分からないのか?」
「はい……」
先のヤキスでも沢山の人の中から刺客のものだけを嗅ぎ分けることができたように、彼女の嗅覚は特別だ。それが上手くいかないということはその匂いの発生源が余程遠くにあるか、彼女が今まで嗅いだことのない匂いであるかのどちらかだろう。
「村の方で何か焼いているのかもな」
「かもしれません……」
よく見れば彼女の顔色は少し悪い。彼女にとっては不愉快な匂いなのだろう、時折軽くせき込むような仕草も見せ、匂いをできるだけ取り込まないようにと口元を手で覆っている。
「イリ、これを……」
セレが荷物から布きれを取り出して手渡す。これで口元を覆えということだろう。
「ありがとうございます……」
受け取ってイリは素直に口に布を当てた。いつもの軽口や冗談が飛び出す様子もない。余程悪臭にあてられて参ってしまっているのだろう。
「迷わないようにしないとな……」
ヒューが心配そうに呟いた。彼が心配しているのは村への道を外れることだ。土地勘の無い場所においてイリの鼻は彼らの行く方向を示す羅針盤のようなものであり、それに頼れない以上分かれ道などがあれば当てずっぽうで道を選ぶことになるだろう。勿論イリの身を案じていないわけではないが、それを表に出すことはない。そんな様子がイリを余計に滅入らせる。
「もうかなり近いはずです、大丈夫ですよ」
対照的にセレは楽観的だった。だがそれがヒューを安心させることはなく、街道をショートカットするために森を突っ切ろうと言う彼女の無謀さを思い出させることになる。自分がしっかりしないと、彼はそう思った。
そんな思いも知らずに、いざ分かれ道に来るとセレが迷いなく一つの道を選び、そしてそれに対して反論することを彼女は許さなかった。それは彼女の生来の頑固さによるごり押しもあったが、それに対してヒューは弱かった。思えばスティもこうやってわがままばかり言っていたとヒューは懐かしむ。
だが彼のそんな思いは杞憂だったようで、彼女の言うとおりに村までの距離は思っていたよりもずっと近かったせいか、村の場所を看板を見つけることができた。それを読み取るためには少々難儀するほどにボロボロに朽ち果ててはいたが、彼らに道を示すその存在は安心を与えてくれる。
「良かった、道を間違えてはないようですよ。あと少しです」
ヒューはほっと胸をなで下ろす。一体どういう判断基準でセレがここまでの道のりを選んで来たのかは正直わからなかった。恐らくは勘の類であろう。ヒューはそれに加えて彼女には幸運の女神が微笑んでいるのかもしれないと思わせるほどだった。
はっきりと目的地が近くなったことを告げる目印に喜ぶヒューとセレであったが、先ほどからすっかり口数が少なくなっていたイリは、ボロボロの看板をじっと眺めて首を傾げていた。
「どうした?」
その様子はただその看板の文字を読んでいるだけのものとは思えなかった。声を掛けられたイリは相変わらず血色の悪くなった顔を向けて語り出す。その様子は自分でも何か納得がいかないような、そんな風だった。
「これは何の印でしょうね」
印という言葉をあえて使うイリにヒューは疑問を感じた。彼女が字をちゃんと読めることは彼も知っている。看板の文字は現代の標準ニレン語で書かれている。それを印と呼ぶのは妙だ。しかしヒューには看板に村の名前と方角を示す言葉しか見当たらないのだ。
「あ、そうでした。お二人には見えないのでしたね」
看板を凝視して首を傾げる二人を尻目にイリは一人で納得行ったように手をパチンと叩いた。そして看板の右上の端を指差した。
「ここに私たちカヨートにしか見ることのできない『爪跡』と呼ばれる特殊な刻印があるのです」
彼女の言葉通りに二人にはいくら目を凝らしても見ることなどできない。その刻印は度々カヨートの民らの秘密の意思疎通のためにに用いられていた。それは彼らの秘密でもあったのだが、それを知られたところで人の身では見ることすらできないために、何の意味もなかった。
「それで、何が書かれているんだ?」
「それがよくわからない図形でして……私にもその意味がわからないのです」
そう言ってイリは地面に看板に描かれているであろう図形を書き出した。円に対して斜めの線を三本引いたシンプルな図形であるが、イリにもわからないそれをヒューとセレにわかるはずもない。
「さっぱりわからんな……だがそれがあるということは近くにカヨートがいるということか?」
「そのようです。よく見れば『爪跡』があちこちに」
イリが指先でそれらを指し示す。それはどうやら一つの線を形作り、道を外れて木々と草の中に続いているようだ。
「『爪跡』は自分の血におまじないを掛けて爪でなぞることによって完成します。この様子だと随分と爪先から血が滴り落ちた様に思えます」
「ということはそのカヨートは傷を負っているのではありませんか?」
セレが深刻そうな顔でイリの顔を覗き込むと彼女も同じような顔をしていることに気付いた。この国で少なくなった同じ血を持つカヨートを憂いているのだろう。
「そのようですが、今私たちにはそれを心配している余裕はございませんね」
ヒューに向かってイリが複雑に笑いかける。このようなことは忘れて自分たちの旅路を行こうと無理をして言っているのだろうということは彼には痛いほど分かった。
「いや、そのカヨートの元へ向かってみよう。見捨てることはできない」
「そんな、ヒュー様の身に何かあるかもしれないのにそんなこと……」
イリが知っているヒューならばそれを見過ごせないことは知っていた。その手をズタズタにしてまで自分を助けてくれたことが何よりの証拠なのだ。
「きっと大丈夫だ。罠にかかって怪我でもしてしまったんだろう」
再びヒューは意地悪な笑いを浮かべた。
「それに親父がよく言っていた。『カヨートは義理堅い』とな。助ければ何か良いことがあるかもしれない」
父と会話した記憶は少ないが、それだけはしつこいほどに語っていただけによく覚えていた。ローは戦場でもよく獣血隊と肩を並べて戦っていたのだと言う。そしてその言葉があったからこそ、イリがその正体を明かした時にはすんなり彼女を信じることができたとも言える。
「そうですね、カヨートでも人でも同じことです、困っている誰かを見捨てるのは貴き者のすることではありません」
セレが有無を言わさぬ強い意思を込めた瞳を光らせた。それもまた師の教えなのだろう。
「さあ、仲間の元まで道案内を頼む。俺たちには見えないんでな」
二人の優しさに触れてイリは何も言えずにただ頭を下げた。そして嬉しそうに微笑んで、ゆっくりと道を外れて森の中へと歩き出した。