彼女はミステリー
「何でお前がそんなことまで知ってるんだ……?」
イリの昔話にヒューのプライベートや感情まで語られていたことに彼は納得が行かないようだ。
「あら、全てヒュー様が語られたことですよ?お忘れですか?」
実際に彼は家族事情や自分の気持ちを森に行くたびにイリに吐露していた。彼自身は何気なくただ思いのままに吐き出すだけの行為であったが、イリはしっかりと覚えていてくれたようだ。
「俺が……? そんなことまで……?」
ヒューは思わず気恥ずかしさで顔を伏せた。犬に向かって人生相談する男というのは中々滑稽なものと自分でも分かっていた。
「あの頃のヒュー様ったら、可愛らしいことこの上なかったんですのよ。出会うなり私に抱きついて『今日はこんなつらいことがあった~』って泣きじゃくりながら来たことも……」
「お願いだからやめてくれ……」
悪戯に微笑むイリに対してヒューが懇願しながら頭を下げる。
「それが最近では私に随分冷たいんですもの。どうしてこうも変わられてしまったのでしょう……」
悲劇を嘆くようにイリは首を振った。
「変わったのは、お前だろう……」
ヒューが静かに呟く。
「私が? 私はあの頃と何も変わらずヒュー様を愛し続けております。それどころか想いはより強くなる一方ですわ」
彼の気持ちなどイリにはわからない。いや、ヒュー自身にも分かっていないのだろう。彼にとってイリとはどんな存在であるのか、何故彼女に対して辛辣な言葉を放ってしまうのか、突き放すことのできない、それでも自分に踏み込まれることに抵抗があるのは何故なのか。イリの愛を疑うつもりは彼にはない。だがそれでも彼の中は大きな戸惑いで満たされていた。
「ふふっ」
そんな二人を見ていると思わずセレは笑いがこみ上げてしまう。セレの目からは大人びた子供が大人のお姉さんに翻弄されて照れているようにしか見えなかったからだ。そんな彼女を見てヒューはあまり気持ちのいいものではなかったようだ。
「何がおかしい……」
「あっ、いえ! ただ、ヒューの家も大変だったんだなぁと……」
年下に笑われることは彼のプライドを傷つけるであろうことをセレは心得ていた。そこで話題を変えることで矛先を変えようとする。
「まあ、生きていくには不都合はなかったがな……セレのところはどうなんだ?」
「私ですか? ヒューさんのところと似たようなものかもしれませんね」
弱々しく微笑む彼女は彼の話を聞いている間も少なからずシンパシーを覚えずにはいられなかった。
「私には兄が一人と姉が二人いまして……一番下の私には家としての利用価値が低かったのでしょうね、ほとんど相手にされませんでした」
彼女が共感を覚えたのは彼らが一人の人間でなく、家としての利用価値によって値踏みされていた点だろう。
「ですが、私には師がいました。彼のおかげで私はこれまで生きて来れたのかもしれません。少し大げさですが……」
そして救いがあったのも同じだった。ヒューにイリがいたように、セレには尊敬する師がいた。
「師か……どんな人だったんだ?」
話に聞く限り高潔でありながらも、女の身である彼女に獲物の捌き方を教えるなど、少し変わった人物であることは予想できた。
「素晴らしい方でした。元々は騎士であったのですが、引退されて我が家の剣術指南をされていて……誇り高く、気高く、それでいて慈しみに溢れた……」
その人物のことなど何もわからずともセレの目を見ればどれだけの人物であるかわかる。彼女の尊敬の念に満ち溢れた瞳がそれを示してくれる。
「その師はどうなったんだ?」
彼女の口ぶりからある程度察することはできるだろうが、ヒューは聞いておきたかった。
「故郷へ帰られました。御病気で……」
死別ではなかったようで少しヒューは安心した。彼女の心の傷を心配したのだ。それでも彼女が家を出る一つのきっかけになったであろうことは間違いなかった。
「ベレン様……女の身であるが故についに剣は教えて頂けませんでしたが……」
少し寂し気にそう語るセレにイリが寄り添う。
「いいのですよ、剣などで鍛えてしまったらセレのこの可愛らしい腕が筋肉でたくましくなってしまいますわ」
そう言ってイリはセレの腕に自分の手を這い回らせる。その手つきが妙に艶めいた触り方だったためにセレは身を強張らせる。
「イ、イリ!」
手を引っ込めてセレは声を上げる。顔は真っ赤になっていた。
「うふふ、本当に可愛らしい……」
最近はイリにとってのおもちゃのような扱いになってきているとセレは感じずにいられない。ヒューの気持ちを少しは分かって来た気がした。
「イ、イリはどうなんですか?」
それに対してきょとんとした表情でイリが返す。
「私がどうかしましたか?」
「イリにも家族がいるでしょう?」
首を傾げながら考え込むような表情をすると、イリは突然いつものように悪戯に微笑んだ。
「秘密です」
「何故です?」
そんな彼女に対してヒューも加わる。
「俺にも何も語ってくれないな、何故なんだ?」
実際イリは自分の過去についてヒューにさえ何も語ったことはない。
「女には多少なりとも秘密というものが必要なのでございます」
おどけてみせる表情だがそれだけではない、どこか強い意思を感じさせる。ヒューはそこに堅牢な門のような破り難さを感じた。
「私の心の扉を開く鍵はヒュー様の心でございます。こじ開けてみせますか?」
イリが誘うような言葉とともに見せたのは少しの憂いを帯びた表情であった。ヒューはそれにすぐ気付く。普段見せることのなかった表情だからだ。だが彼がまだ踏み入ることがないとイリ自身にもわかっていた。沈黙がその答えだった。
「いつかお話できる機会があればと思います」
そう言ってイリは二人から背を向けた。セレは見えないところでイリがどのような表情でいるのか、それを想像せずにはいられない。彼女が秘密を持とうとするのはどのような理由であろうか、それはきっと弱さを見せずに強くあろうとするが故に、そして何より弱い自分を本当は見せたいが故になのだろう。同じく秘密を持とうとするセレだからこそわかった。
「さ、もう寝る時間ですよ、ヒュー様」
振り向いた彼女はいつも通りの人懐っこい笑顔だった。
「今宵は毛皮ではなくこのまま抱いてみてはいかがでしょう? きっと抱き心地は天にも昇るようなものであると自負が……」
「結構だ」
それだけ言ってヒューはさっさと寝床に入る。
「それではセレ! たまには抱き枕というのも心地よいものですよ?」
「え、遠慮しておきます……」
セレは慌てて拒否の意思を示す。イリがヒューにぞっこんであることは彼女にもわかっていたが、先ほどの自分の手を撫でる彼女を思い出すと、気を紛らわすための腹の足しにされるのではないかと思わずにはいられなかった。
「そうですか……」
そう言ってしょげながらそっぽを向いて丸くなって寝転び出した。いつもなら放っておくヒューだが、今日ばかりは少し違った。先ほど見せたあの表情が忘れられない。彼女の心に踏み入ることを拒否してしまった彼は、彼女が拒否されたという事実だけが残る今日という日を残すわけにはいかないと思ってしまった。
「イリ、毛皮をよこせ……眠れないだろう……」
言うが早いが、待ってましたと言わんばかりにイリがその身を犬に変えてヒューに飛び込んだ。
イリは自分の全てを肯定してくれる。そんな彼女のことを肯定できるのは、今この場では自分とセレだけなのだと、ヒューは思った。