彼は傷心
アディール家は代々王国軍の騎士を輩出する武門の系譜だった。そんな中で長男として生まれたヒューは、大きな期待を周囲から受けて育った。とは言えそこに明確な愛情を感じたことなど彼は一度もなかった。父であるローは戦争に赴きほとんど家に帰らず、母はそれをいいことに家で放蕩三昧だったからだ。特に政略婚によりアディール家に嫁いだ母にとってヒューは家の名を継ぎ、それを存続させるためだけの存在に過ぎず、教育には力を入れてはいたが、子として愛することはなかった。
使用人たちもそれを理解しており、母に準ずるように無機質に彼に接した。こうしてヒューは生活するには特に困らないものの、無味乾燥な日々を送ることになる。そんな彼を唯一癒したのが妹であるスティであった。
ヒューの五つ下の妹は彼にとってただ一人の愛情を持って接する存在であり、それに応えてくれる存在であった。重苦しい武門の家において女とは他家に供するための生贄でしかない。そんな哀れな境遇にシンパシーを覚えたのだろうか、母はスティを大変可愛がった。結果ヒューは孤独を覚え、19になる頃にはどこか無気力なような諦めに溢れたような若者が誕生した。
そんなヒューは家にいることが苦痛であり、度々隙を見ては屋敷を抜け出していた。母も使用人たちもそれを見つける度に叱責したが、それが義務感に溢れた、何の情もこもっていないことを知っていた彼は脱走を止めることはなかった。
その日はいつもより遠出をすることを決めたヒューは屋敷の南にある小さな森へと向かった。これまでも何度もその森に訪れて、溢れる自然に心癒されて来た彼だったが、森の奥は何とも暗く不気味に感じられたためにいつもそこまで深入りはしなかった。だが今日の彼はその森の奥よりもずっと暗い気持ちで満たされていたために全く怖くなかった。暗闇が自分を押しつぶすと言うのならそれさえも両手で迎えてあげたいような気分だった。
森の入口付近では小さな常緑樹たちがその枝の隙間から沢山の太陽を歓迎する。だが奥へ進む毎に背の高い老獪な樹木が目一杯広げた手でそれさえ遮る。道などもはや無いに等しい。土と根で張り巡らされた地面は彼を何度となく転ばせようとした。
それでも彼は森を進んだ。何かを探し求めるように、ふらふらになりながらも、綺麗な衣服が土や苔で汚れてしまうことなど厭わずに。
今日はスティの誕生日だった。母も使用人たちも前日からそのパーティーの準備に取り掛かっていた。それはヒューの時にも催されるものだった。だがそこから感じたのは本当に母がスティを愛しているという気持ちだった。母がスティに送った髪飾りは本当に可憐で美しく装飾され、彼女にピッタリの品であり、母が時間をかけて考えて選んだ品なのだとわかった。ヒューはそんなものを受け取ったことなどなかった。それを見せびらかすスティの姿が愛おしくもありつつ、憎らしくも見えた。そんな自分がさらに嫌になった。
彼は目に見えぬ愛に飢えていた。何か、誰か、自分を愛してくれる者はいないのかと亡者の如く彷徨っていた。そんなものを探しにどこに行けばいいのかさえもわからなかった。何故自分が森を歩いているのかさえもわからなくなっていた。
そんな彼が気付いたのは彼の心よりももっと哀れみに溢れたすすり泣くような声だった。森に住まう死霊かと彼は直感的に思い、背筋が凍るようだった。だがそれでも彼は引き下がることはなかった。もはや帰り道さえも分からなかったからだ。死霊が自分を呪うと言うのならば、自分と呪い合戦でも興じてやろうかと思った。自暴自棄に声のする方向へとずかずか歩いた。既にこの悪路の歩き方を心得ていた。
だが声の元である木陰には死霊とは似ても似つかない愛くるしい姿のベージュの毛並みの犬がいた。彼はあまりの想定外の出来事に驚いた。そしてその泣き声の理由はその足に噛みついた鉄製の金具のせいだとすぐにわかった。
この森は彼が知ることはなかったが地元の住民が狩りによく使う場所であり、そこかしこに動物用の罠が敷かれていた。ヒューがそれらに足を取られずにここまで歩くことができたのは奇跡に等しい。彼がその事実に気付いた時は恐怖を覚えずにはいられなかった。
自分よりも哀れな存在を見つけた彼はすぐに駆け寄り、金具を手に取った。だが素人である彼にはその解き方が分からない。結果罠の歯に手を食い込ませながら力づくでこじ開けることになる。手を真っ赤に染めながらも、それに応えるようにして犬は足を何とか引き抜くことに成功した。
「大丈夫か?」
安心とともにやってくる両手の痛みに顔を歪ませながらも彼は犬に語り掛けた。犬は力なく一度ワンと答えた。
「よかった……」
この哀れな獣こそ他ならぬカヨートのイリであり、彼女は彼に命を救ってもらったことを絶対に忘れたりはしない。そして間抜けなことに人の罠にかかってしまったことを今でも恥ずかしいと思っている。それは彼女が元々別の森で過ごしていたのだが、そこには人などいなかったためであり、罠などは目にしたこともなかったのだ。
罠の歯は思いのほか深く彼女の足に食い込んでいたために、そこからはおびただしい血が流れ出ていた。ヒューはそれを見ると自分の服を同じように血まみれの手で引きちぎる。
「動くな……」
そうして包帯代わりにイリの足に不格好に巻き付けた。話には聞いたことがあるが見たことのない人という存在にイリは困惑しながらも、彼の感情を簡単に読み取ることができた。彼は心の底から自分を慈しんでいた。それがイリにとってはとても心地よいものだった。
そしてイリは自分の気持ちを任せるままに痛む足を引きずりながら近付いて、その体をヒューにこすり付けて、その顔をなめ回した。
「おい、あまり無理はするなよ」
ヒューもそれに僅かな抵抗の仕草を見せつつも、素直に迎え入れ、彼女の体を撫でまわした。
「こんなところで何をしているんだ……?」
勿論イリはそれに対して何も答えることはない。彼女は母から厳しく言われていた。安易にその人の姿を誰かに見せることはないようにと。カヨートであることが知れれば自分の身が危うくなるということはこの国においては常識のようなものだった。
自分の命を救ってくれたヒューに対してもまだその正体を明かすことはできなかった。とは言えヒューは犬の姿のイリを大変可愛がった。それが彼女にとって非常に心地よかっただけにその必要はないかと思っていた。
そうしてヒューはその日以降毎日のように森に足を運ぶことになった。それは全て自分の愛をその身に受けて、それに明確な形で答えてくれるイリがそこにいたからで、彼女もヒューに会いに行くために森の入口でいつも待ち構えていた。
不思議な逢瀬は戦争が終わるまで続いた。ヒューが王国軍に捕らえられた時にはイリは本能的な勘でヒューの危機を感じ取とった。それはカヨートの不思議な力などとは関係の無いもっと抽象的なものだった。助けに向かうために森を出て、自分の正体を明かす決意をした。