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それは一瞬

「答える気になられましたか?」


 あまりの痛々しさに顔をしかめるヒューとセレを意に介することなくイリは淡々と問い詰める。男は布を噛み締めて、汗という汗と目に涙を浮かべながら痛みを耐えている。


「今折ったのは右手人差し指でございます。次は中指がよろしいでしょうか?それともバランス良く左手の人差し指の方に致しましょうか?」


 自分の行いの非道さを省みることもなく彼女は拷問を続ける。


「お尋ねしております。今から布を取ります。騒がずに簡潔に、お答え願います」


 噛みちぎらんばかりに食いしばった布には血が滲んでいた。布を引き抜かれた男は恐怖の色をふんだんに含んだ声で答える。


「わ、分かった! 答える! 答えるから!」


 イリが何の感情も持たずに指をへし折ることができると理解させられた男は、自分の抵抗が無意味であることを悟った。何らかの修練を積んだ男のようであったが、痛みに耐える訓練などありはしない。イリにとって男の口を割らせるのは容易なことであった。


「お仲間は?」


「一人、この町にいる……はずだ……」


「どちらにいらっしゃいますか?」


「町の北の廃屋に潜んでいる……」


「本当でございますか?」


 イリが再び男の指を握り込んだ。


「ほ、本当だ! 証拠なんてないが、お願いだ! 信じてくれ……」


 涙交じりの嗚咽が響き渡り、ヒューは男に対して哀れみさえ芽生えた。


「イリ、信じてやれ」


 疑う余地などあろうか、こんな身を砕くような苦痛と恐怖の前に人は正直にならざるを得ない。ヒューは目の前の男に同情さえ覚えた。


「他に何か質問はございますか?」


 あくまで淡々とし続けるイリが余計に不気味に見えた。


「……どんな指令が下っている?」


 見下ろす男は饒舌に答える。


「お、お前を捕まえるようにと……それだけだ……」


 その言葉に改めてヒューは自分の立たされた状況を認識させられる。


「俺以外はどうするつもりだったんだ?」


「お前に接触した者は消すように言われている……」


「彼女もか?」


 ヒューがセレを指差すと男は静かに首を縦に振った。穏やかに吹く風が不気味に肩を撫でたような気がして彼は寒気を覚えた。


「もういい。イリ、急いでここを発つぞ」


 ヒューはセレと出会ったことをひどく後悔した。やはり自分は誰とも連れ合うべきではないのだと認識させられる。


「この男はもう用済みということでよろしいですね?」


 男の顔が一瞬ひきつる。だがすぐにそれは諦めに変わった。


「ああ、だが……」


 どうすべきか、彼には決断を下すことが出来ない。僅かな沈黙を受けてイリはにこりと笑った。


「何も仰らずとも結構です。お任せ下さい」


 その瞬間にイリの言うところの不愉快な音が響き渡り、男の首は背中を見るほどにねじ曲がる。曇った虚ろな瞳がヒューを捉えた。


「イリ!」


 咎めるような怒声にもイリは全く怯むことなくヒューを真っ直ぐ見つめた。


「こうするしかありません。お分かり頂けると思います」


「だが……」


 ヒューにも痛い程分かっていた。自分を捕えるための追手を生かしておく道理などない。彼には覚悟などできていなかった、自分が生きるために他者の命を奪うその覚悟が。だがイリにはあった、何もかもを差し置いて自分の愛する者のために何もかもを犠牲にする覚悟が。


「ヒュー様はお優しいお方です。他の命を奪うことで心を痛められるお方だということは私が十分に承知しております。ですから私が手を下したまでです」


「だが……」


「私のことを気遣って頂いていることも重々承知しております。ですがヒュー様のためとあらば私は何でもできます」


 見えない血で染まった手でイリはヒューの手をとった。


「ご安心下さい、例え世界から憎まれようとも、この身が煉獄に落されようとも、亡者の魂に身を蝕まれようとも、あなた様が生きてさえいれば私は幸せに笑うことができます。それだけを信じて下さい」


 イリが優しくヒューを抱きしめた。震える幼子をあやすように優しい抱擁を彼は抱きしめ返すことができずにただ呆然とする。妄信的な程に自分を信じる存在に対して芽生えた少しの恐れ、それは自分がそれに対して報いることができるのかという不安でもあった。


「さて、発つ前にもう一つすべきことがありますね」


 ヒューが目を逸らす現実をイリが突きつける。


「潜んでいるというもう一人を排除しに参りましょう」


 小用でも足しに行くかのようにイリが言い放った。


「それは……できない……」


「大丈夫です。手を下すのは私です」


「お前にも手を汚して欲しくないんだ……」


 あまりにもあっけなく人を一人殺してみせたイリがヒューの目には別人に見えた。それが恐ろしかった。


「お気遣い感謝します。ですがやらなければいけません。理由はわかりますね?」


 そう言うとイリとヒューは同時にセレを見た。ヒューもそれは痛いほどに分かっていた。三人で歩いているところを見られたのであればもう一人の刺客にも顔を覚えられている可能性が高い。そして彼と接触した者は抹殺する指令が出ている。このままではセレの身まで危ない。彼女はその現実が受け入れられずにただ呆然としかできない。


「行きましょう、匂いで容易に分かるはずです」


 そしてイリは犬に姿を変える。より正確に獲物を追跡するためだろう。愛くるしいはずのその姿がこの瞬間だけは禍々しさを覚える。ヒューも覚悟を決めるとセレに向かって着いて来るように指示する。彼女をこのまま一人にしておくわけにはいかなかった。


 もう一人が潜む場所は町の北の廃屋ということしかわかっていなかったが、イリはその場所が正確にわかるようだ。殺した男の匂いが染みついているのだろう。軽い足取りでしばらく歩くと町の少し外れた場所にぽつぽつと家屋が見え始め、そのうちの一つをイリが鼻先で指示する。


 夜の闇の中で人の住まない家は不気味に立ち尽くしている。地面に鼻先をこすり付ける様にして少しずつ近づいていくと、不意にイリは姿を人に戻した。何か伝えたいことがあるのだろう。


「どうした?」


「残念ながら逃げられてしまったようです」


 そう言ってイリは廃屋の扉を乱暴に開けた。中はがらんどうになっており、人の潜む形跡は感じられない。それどころか人がいたような雰囲気すらない。


「何故かはわかりませんが危機を感じ取ったようですね」


 残念そうにイリは項垂れた。


「少し離れているだけじゃないのか?」


「そうかもしれませんが、ここに長く居過ぎるのも危険です。応援を呼んだのかもしれません」


 三人は沈黙した。これからどうすべきか、それだけを考えていた。だが彼らの選択肢は一つ、逃げるということしかない。それを痛いほどわかっているヒューはもう一つ下さなければならない決断があった。


「セレさん、こんなことに巻き込んでしまって本当にすまない」


「いえ、一緒にいると言ったのは私ですから……」


 追手の姿を確認して彼らが本当に命を狙われているということを実感してしまい、さらに自分もそれに加えられたという事実に彼女は内心恐怖していた。しかし彼女はそれを必死に噛みしめて恐怖で表情を曇らせないようにした。


「こうなったら一人でいるのは危険だ。どこか安全な場所へ連れて行こう、一緒に来てくれるか?」


「はい、お二人さえ良ければ」


 自分を責めることをしないセレにヒューはけなげさを感じて胸が痛んだ。


「俺のせいだ、絶対に君を守ると誓う。イリもそれでいいな?」


「はい、勿論です。大切な友人ですから」


「ありがとうございます、足を引っ張らないように頑張ります」


 そうしてまた頭をぺこりと下げた。


「だがここに用があったんじゃないか?」


「それは……また後でお話します。とりあえずここから離れてしまいましょう」


 その言葉にヒューとイリも従う。こうして不安の中、三人の旅が始まった。

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