第8話-墓
僕は駅まで走った。アマネさんの死を悲しむものを見ると、波長が狂う気がしたからだ。僕にとって、まだ彼女の死は現実ではなかった。
呼吸を整える間もなく、改札を通った。今すぐにでも日記を読みたかったが、この場で読む気にはなれなかった。相応しい場所が用意されているし、僕の準備もできていない。彼女の死を受け容れる覚悟がない。
アマネさんの墓は彼女の家の最寄駅から電車で4駅ほど行って、30分ほど歩いた場所にあった。海沿いだが、崖に立っているので近くに海水浴をする人間はいないようだった。
「そもそも5月に海水浴はないか」
見当違いな推測を鼻で笑い、僕は上を向いて目に巻かれた包帯を取った。病院の実験に背くことへの罪悪感はあったが、抵抗にはならなかった。
目を射すような光さえ懐かしい。久しぶりに見た空には雲が僅かにあるだけで澄んでいた。そこを自由気ままに鳥が飛んでいる。海沿いの鳥といえば、ウミネコかカモメぐらいしか思いつかないので判別は止めた。
墓のある崖には緑が広がっていた。遠くから眺めれば草原の端に海が広がっているように見えて綺麗な場所だった。一つぽつんと置かれている墓標がなければ本当に。
近づいてみると、墓石は日本の様式ものではなかった。知識はないが、その形はハリウッド映画などで見たものなので洋風だろう。僕はしばらくそれを眺めてから墓石の横に座って、アマネさんの父親から預かった文庫本のようなものを広げた。初めのページは僕らが出会った日のことが書いてある。どうやら、出会う以前の彼女には会えなさそうだ。
それは一見すれば日記のようだったが、どちらかというと日記というより報告書のようだった。なぜなら、手書きで記された内容にはアマネさんがどう思ったのかなどという記述はなく、僕の行動だけが事細かに書かれていた。こちらが自覚していない癖まで発見されていて、こんなに見られていたのかと思うと恥ずかしい。
多くの部分に?マークがあり、彼女があらゆることを不思議がっていたのがよくわかる。
ずっとこの調子かと思われた日記に、初めてアマネさんの意見が書かれている箇所を発見した。
4月2日。桂君と会って、私はようやく結論にたどり着くことが出来たと思う。その理由もわかった。彼は誠意を以て私に接してくれた。ただの人として。それが彼だったからたどり着けたのだろう。自分自身がどういうモノなのかということがわかったのだ。
桂君はタフであらゆるものを背負って、自分の意志で翼を使って、飛べる。その証拠にどんな状況でも前に向かっていた。そんな彼と接し続けられたからこそ、私も揺れ動いてしまった。ほかにもたくさんある彼の良い在り方を見習おうって思えた。今は変わりたいと自分で思えるほどに。
初めて彼に会って、興味を持ったあの日が私の始まりだった。そんな彼が、尊い対象になっている。こうなることは運命だった、と思いたい。
いつか、これを言葉にして、ありがとうと伝えたい。それが当面の目標。
実行に移せていないのは、私がそのことに恥ずかしさを感じているからだ。恥ずかしさを。
その日は僕の観察が書かれ、最後にその文が書かれてあった。僕のことをそんな風に思っていたのか、と笑ってしまう。
僕がタフだって?
「どのことを指しているのかはわからないけど、あらゆるものを背負ってなんかないはずだ。今だから言うけど、色んな事をあきらめ、それがばれないよう辻褄を合わせて、平然としているように見せかけていただけなんだよ、アマネさん」
僕はわざと歯を見せ笑って見せた。
「でもさ、嘘だとしてもアマネさんが良いと思えたのなら嬉しいよ。僕もアマネさんのおかげで気付けたんだ。代わり映えのない日常に、君という刺激が来て、僕は思っていたより巧くできていないって自覚できた。誰に対しても誠実に接することが出来ていると思いこんでいただけだって。理想はずっと遠くにあるってわかった」
僕は気を落ち着けて、続きを読むことにした。これ以上、口を開いていたら読むのもままならない。この場所で、全てを読みたかった。
2日以降、そこからはまた僕の観察だけとなった。
よく見れば、日記のページはところどころ破れていた。書いてあったが破ったのだろう。
結局、4月6日のページまで僕の内容ばかりだった。アマネさんのことは何も書いてなかった。
「アマネさんらしいな。自分の言葉をまとめるのに時間がかかったのだから、毎日、自分の思いを日記に書けるわけないか」
日記から手を離すと風が吹いて、ページを勢いよくめくった。その時、4月6日のページ以降に書かれた跡が見えた気がする。
僕はすぐ確認した。
4月7日。桂君と初めてキスをした。よくわからないけど、初めて、楽しくて、心の底から笑みが出た。笑うってすごく気持ちいい。たった一度だけだけど、幸せってこういうことなのかな。これからも続くのだと思ったら、心が満ち足りて痛いや。そう、私はオカシイんだ。彼に思いの丈をぶつけるのが怖いし、恥ずかしいし、嬉しいし、痛いんだ。肩もジクジク疼くんだ。
不意討ちだった。最後まで僕の観察日記で終わると思っていたし、まさか死ぬ数時間前に書かれているだなんて思わなかった。
僕は必死に顔をこわばらせた。だってそうだろう?
「僕も嬉しいよ。気持ちが溢れて痛いよ」
涙するのは、アマネさんの気持ちを踏みにじって、悲しい出来事にしてしまう。満たされた、と。たった一度笑えて良かった、と記した彼女の思いをねじ曲げる。
彼女が喜んでいたのを知って、涙するのは変だ。嬉しいことだろう。彼女のために何かしてやれたという証拠じゃないか。
だから僕は感謝を告げる。世界中に届いてしまうのではないのか、というぐらい声を張り上げて、もう一度。
「僕も幸せだった」
明確にアマネさんを意識すると、記憶が蘇ってくる。それは形あるものではなく、ふとした感情であったり、細かな瞬間の欠片だ。
彼女は僕を尊い、と。僕の在り方に憧れた、と赤裸々に綴っていた。どの部分がそうなのかはわからない。タフだとか、あらゆるものを背負うとか、具体的に何を指しているかはわからないのだ。そんな所が彼女らしい。
だから、俺は今まで通り呼吸をし、歩いたり食事をして、笑うのだ。彼女が憧れた僕であり続けるために。
それだけでない。もう躊躇は捨てた。逃げずに繕わずに最前を尽くそう。僕が成りたかった誠実でタフな奴になるために。結局、一貫して繕うことすらできていなかったけど、アマネさんの前で格好つけたかった自分を本物にしてみせよう。成れなかったのなら成ってやればいい。
保身に走らず誠実な人間に、人のためを思って行動できる人間に、誰かを救える人間になってみせようじゃないか。
だが、その前に。
「許してくれ」
僕は語る。淀みを吐き捨てるようにさらけ出す。
「明日からはすっかり元通りだ。約束する。でも、今だけは君がいなくなったことを悲しませてくれ。僕はアマネさんが隣にいないことに耐えられない。けど、これからも明日は来るんだ。生きなきゃいけない。でも、何のために背を伸ばせばいい?」
僕は思わず笑ってしまった。
何のためだって?
モルモットという職に就いた時、決めたじゃないか、己が基準に縋り従えって。
揺るがぬ基準を打ち立て、それを杖にして立つのがタフな奴になる近道なのだ。
自分が作った基準を順守し生きる。ただそのことだけで胸を張り、背を伸ばす、それこそが正しいのだ。
なぜなら、他者にもたれかかるのは危険だからだ。霧に抱きつくのと変わりない、とわかっていたはずだ。だけど、今僕は立ちあがることが出来ていない。
何度、膝をつけば気づく?
自分の学習能力のなさが情けない。まだまだ僕の基準は霞んでいる。いつもその場しのぎの再構築しかしなかったツケだ。
今度こそ、しっかり創り上げなければならない。
「つまり、これは僕の弱さだ。孤独に耐えられない女々しい野郎だからか。笑えるぜ。そのなりで誰かを救うって冗談だろ。訂正だ。もっと積み上げなきゃいけない。けど、時間は待ってくれないんだよな。不完全でも進むしかないってことだよな。今更、準備不足を痛感するなんて格好悪いぜ、僕。壁にぶち当たるのは未成年までにしとけよ」
一頻り言ってから、地面に背をつけ、寝転がる。
阿呆で恥ずかしい台詞を叫んでみても言葉は返ってこない。それがわかっていたから言ったのだ。
日陰に行かず寝転んだせいで、ジリジリと太陽の熱が僕の思考を鈍くしていく。その一方で、心のある部分は絶望を旨そうに貪り嗤っていた。奴は筋道がはっきりして喜んでいるのだ。そして、愚かな僕を嘲笑している。霞んでいるも何も、お前の基準は一つしかないんだ、と。
「さあ、旗を立てろ。ようやく、お前もベットで呆けて腐っているだけじゃなくなるんだな。こっちは小さく縮こまっていられると出番がなくて退屈なんだぜ。心の揺れ動かない日々じゃ、産声を上げることだってできやしねえ」
強い日差しは僕の醜い部分ばかり活性化させるので、目を閉じ、アマネさんを思い浮かべることにした。
僕は気づけば、転寝していた。しかし、その間に、何十分もアマネさんとの思い出に包まれることによって、頬を伝う熱から力を取り戻していく。何もかも思い出す。
循環は速さを増し、回路は一層熱を吐き出す。もう止まらない。記憶は再生される度に重なり強く残る。
しかし、いつか瞼に映るアマネさんは、僕の桜と同じように繊細さを欠いていくだろう。だけど、火は灯った。それは土台に根付き、強くなったわけじゃないけど、大きくなって育っていく。
アマネさんは僕に色んなことを教えてくれた。僕という人間をよく見てくれた。
だから、もう一度、歩き出せる。どれだけ先が閉ざされていても、歩ける。それだけはできる。それだけはしなくてはならない。
僕が生きてきたという確かな証なのだ。
今までだってできたんだ。病魔に思考を蝕まれても、基準がなかろうと、進むことだけは。
願わくば、それが最良に近い形であることを。そのための努力はするつもりだが、それくらいは祈らせてほしい。
さて、始めよう。アマネさんの望んだ俺であるために、普通の日常から。
「これじゃアマネさんと変わらないね。自分でもまとまらない考えを吐き出しただけだ。汚い所を見せてしまったけど、どうするのかは決まらなかったや。それでも、その答えが出るまで貴方は待ってくれますか?」
僕は、また来ます、とだけ言って、立ちあがった。目を瞑って、深呼吸をする。
「お前がここにいていいわけがないだろ」
突然、怒鳴り声が聞こえ、僕はすぐ身体を震わせる。とにかく動かなくては、と思うのだが、動けない。熱いし、冷たい。あれ、と声に出そうとするが出ず、遅れて指令通り動いた瞼が開き、自分の事情を知った。
胸からまっすぐ白い何かが生えている。それは徐々に赤く染まっていくが、視界がぼやけて捉えることができず、笑いだけがこみあげてきた。はは、翼か。そうかそうか。アマネさんも言っていたな。
俺には大きな翼が生えているんだって。