第7話-死
それがあの時の彼女と最後に共有した記憶だった。もう、あの時の彼女と会うことすらできない。病院との契約期間が切れたというわけでも、彼女を怒らせたというわけでもなかった。
理由は、アマネさんが殺されてしまったからである。あの時の彼女は死んだのだ。僕にキスをした数時間後に。4月7日、5時12分。それがアマネさんがこの世にいた最後の時間だった。
直接の死因は絞殺。その前に彼女の肉体には骨折等々の酷い暴力を受けた痕があり、最後は抵抗することすらできなかっただろう、とテレビで報じられていた。
そう、テレビからアマネさんの死を知ったのだ。
その直後、僕の容態が急変した。自分で食べることも満足できないほど衰弱した。
なので、アマネさんの葬儀に僕は参加できなかった。病院から長時間離れることを許されなかったのだ。でも、そのことに対して何の感情も浮かばなかった。
あまりにも突然すぎたからだ。彼女は何の予感もなく消えてしまった。
我々を置いて、世界は回り続けた。
僕は、アマネさんがいなくなったことで、初めて筋力を失ったときより、生活することが困難になった。食べるとか、寝るとか、そういったことが自然に行えなくなった。全ての波長が合わなくなった。まるで彼女と共に、そうした器官や機能が消去されてしまったみたいだった。
そんな僕のことを進矢とマリさんは心配した。僕は申し訳ないと思いながらも、どうにもできずにいた。それでも泣き叫んだり、暴れたりすることはなかった。ただ、アマネさんのことを忘れることができず、思い続けた。
空虚な日々を変えたのは一通の手紙だった。事件からひと月も経っていない時期に届いたものだ。
それはアマネさんの父から送られてきたもので、時候の挨拶とある遺品を受け渡したい旨だけの簡素なものであった。一体、何を渡したいんだろうか、と悩んだものの答えは出なかった。
僕はとにかく病院から出る手段を模索した。まだ、彼女に会う手段があるのなら、会わないわけにはいかない。
恐喝まがいなことをし、進矢の父である院長に外出許可をもらった。院長は昔から息子の友達として接点があったからか、モルモットである僕よりも、僕自身の選択を重んじてくれたので、それ自体は難しいことではなかったのだ。一番の問題は家族への説得である。
僕が万が一、モルモットの職を失ってしまう危険性に怯えているのは彼らだった。が、これも進矢の助力で上手くいった。家族、主に妹と数度会ってもらったのだ。
そういった根回しの間、僕は補助装置の扱いを熟知した。今まで使っていた腕時計型の端末とはまた別のもので、身体に装着するものだ。目が見えないのでどんな格好かはわからないが、進矢に聞いた話によると身体に骨をつけているように見える外見らしい。今まで病院内を一人で外出する時は車椅子か杖を使っていたが、病院の外では不便だから、歩行をサポートしてくれる補助装置を使う必要があった。本来は工事現場などで人間の力で持てないものを持つために使う機械だったが、僕のために調節してもらって、足りない筋力を補うことに成功した。
腕時計端末で視界を、補助装置で歩行を、補うことで長時間の外出ができるようになる。目標が明確な修練はイージーだった。
マリさんが頼んでもいないのに付き添ってくれたおかげで、怪我をすることなく装置の扱いを覚えることができた。
本当に優しい人だ。進矢と比べれば、彼女も社会人だから機嫌などによる波はあるものの、常に僕のことを考えてくれている。どんな状態でも優しいのだ。
そして、外出の日が5月10日に決まった。
その日になるまで、出来るだけ訓練を続けた。その姿を見て、過去の僕を知る進矢と院長二人には、昔に戻ったみたいだ、と笑われた。
マリさんには男の子って顔をしています、と肩を叩かれた。
全員、声の色や仕草は違ったけれど、共通して喜びながら嬉しそうに言われた。前の僕はよほど暗い奴だったらしい。
だから僕もできるだけ気持ちを込めて感謝し、病院を出る準備を続けた。
外出の日、僕は進矢が車を病院の玄関口まで運転して来る間、2度も水を口に含み、その度リップクリームを塗った。
最初の駅までは進矢が送ってくれるが、そこからは一人だ。頭の中でこれからの日程をシュミレートする。国営の鉄道を2本乗り継ぎ、市営地下鉄を一区間だけ使ってアマネさんの実家の最寄り駅にたどり着く。そこから5分ほど歩いた場所に彼女の家はあるらしい。進矢にテスト紛いのことを何度もされたので、忘れることはない。端末にも記録してある。準備は万全だ。
「お待たせ」
進矢の声が聞こえたので、僕は自分で扉を開け助手席に乗り込んだ。進矢は僕が出来ないことと出来ることを完全に把握していた。外に出るなら甘やかすようなことはしない。それが僕のためであり、僕が望んだことだ。
車内では全く会話がなかった。僕が腕時計で現在位置を調べ、あと数分で到着という距離になった時、進矢が突然言った。
「悪かったな」
「何が?」
意地の悪い質問だった。僕は進矢が何に対して謝罪しようとしているのかわかっていたからだ。けれど、それに対する僕の一言は、暴れ狂う心を必死に宥めた結果だった。昔は下らない事で朝から晩まで笑いあえていた親友を慰める言葉を今、持ち合わせていなかった。傷つける言葉しか浮かんでこなかった。
「昨日のニュース見たろ」
「見たよ。新事実って見出しで、アマネさんが」
言葉が喉でへバリついた。目頭が痛んで、身体がどうにかなってしまいそうなほど熱くなり、なりふり構わず拳を振るいたくなった。それが、俺が憧れた親友であったとしても、関係はなかった。もう、繕う余裕すらなかった。それでも必死に押し留め、声を絞り出した。
「性的暴行を受けていた、という話だろ。和多田病院のスタッフから。毎日毎日、東病練の320号室で。それがエスカレートし、殺された」
進矢は返事をしなかった。自分から話題を振っておいてなんだよ、と茶化せばよかったのかもしれなかったけれど、僕にはできなかった。それほど強くも優しくもなかった。だから、彼の律儀さに腹を立てていた。自分が悪くないのだと逃げてくれたらよかった。事実そうなのだから、話題にしなければよかった。
僕は進矢に向かって文句を言う、想像をした。全く非のない、管理外のことまで自分の責任だと考え、どうにかしようとする。そうやって決断できるお前が羨ましいよ、進矢。もう、俺の背を見るのはやめてくれよ。とっとと追い抜いて、踏み捨ててくれよ。それが俺の望みなんだよ。
だけど、それを言う強さはなかった。端からわかっているから、想像で済ますのだ。強くも優しくもない。逃げているだけだ。
「必ず解決する。全て明らかにして、司法の場で正当な判断を下してもらう」
「頼んだよ」
それだけ言うので精いっぱいだった。足を止める友人に安堵し、そのことを憎んだ。矛盾した思考回路に嫌気がさす。ごちゃごちゃした考えの全てで、遠くへ進める友人を羨んでいることは共通している。
自己嫌悪に陥る前に、駅についた。
進矢に礼を言って降り、僕は音声指示通りに歩き、切符を買って、2分ほど待ち電車に乗った。それまではそれほど視線が気になることはなかったが、電車の中ではじろじろと見られた。僕という存在は目立っているようだった。病という病がほとんどない時代に、補助装置で歩いている男の姿は珍しいのか、ずっと視線を向けられていた。それか目の包帯のほうかもしれない。
僕の感覚を裏付けるように、疎ましさや恐れを持った声と吐息を耳は捉えた。大方、不審者か基地外だとでも思われているのだろう。
満員電車でなくてよかった、と思った。もし、そうだとすれば、この色は奇異を見るような色に加え、邪魔だという敵意の色になっていたはずだからだ。それもたくさん。
電車を降り街を歩くと、補助装置の便利さがわかる。杖や車椅子などと違い、それほど幅を取らないため通行の邪魔にならないので、外に出るのには好都合だった。細い道や段差も気にせずに済む。
使い慣れた腕時計型の端末はきっちり機能し、外でも僕を案内してくれたので、迷うことなくアマネさんの家だった場所に着いた。チャイムを鳴らすと、アマネさんの父親が出て、すぐ現れた。中に入るように言わないので、玄関で話を済ますつもりらしい。
「来てくれたんだね、ありがとう」
とまず感謝の言葉を口にした。彼は何も言わずに、僕の事情を知っているのか、こちらの手を取って、しっかり文庫本のようなものを握らせた。
「これはね、日記なんだ」
質問する前に彼が答えた。
「君が見ようと見まいと、それは自由だし問題じゃない。私はただ」
そう言って少し考え込んだあと、いいや、と否定した。
「私たちにはこれを持つ資格がない。あるのは君だけしか私には思いつかないんだ。ひと月前なら、誰もいないはずだった。しかし、今は君がいる。そのことに感謝したい」
だから受け取ってくれ、と通話したときよりも重い口振りでそう言った。僕は頷けなかった。何故なら、アマネさんの父親は躊躇していた。手放すことを惜しみ、悲しみ、恐れていた。その中で一番濃いのは恐れだ。
思い返せば、インターホンに出た時の声もそうだった。注目すべき点は他にもある。恐れは恐れであったけれど、一言二言で説明がつくような単純なグラデーションで構成されていなかった。デリケートで厄介な問題であることは確かだった。
僕はその問題を聞きたかった。彼の助けになればいいと思ったのもあるが、それはほんの僅かな動機だ。恐れが、アマネさんと密接に結びついていることは明らかだった。だから、不躾でも、容赦なく暴きたかった。
でも、僕には時間がなかった。全てを選べるほどの余裕はどこにもない。
「ありがとうございます。僕は必ず見ますよ」
僕の宣言に、アマネさんの父親はそうか、と言って黙り込んだ。ただでさえ複雑な恐れの色がさらにごちゃごちゃにかき混ぜられていた。
長い間の沈黙を破ったのはアマネさんの父親の、すまない、という言葉だった。
「先に謝っておく。そして、言い訳をする。私はダメな大人だ。いいや、ダメな人間かな。その証拠にアマネを失って、初めて悲しいと思ったんだ」
僕には意味がわからなかった。アマネさんの父親はそんなことは重々承知していて、それでも言っているようだった。そんな所は、アマネさんにそっくりだと思った。抽象的な表現ばかり使う彼女に。
「墓にはいくのかい?」
「はい。場所は知っています」
会話はそれだけだった。時間がないとは言っても、1時間程度なら話す余裕はあった。
死者を介した関係というものには悲しみが付きまとってしまう。それが相手の父なら尚更。きっと彼も似たような気持ちだろう。僕に脅えていたのもきっと不安定だったからなのだ。こちらも目的地に辿り着く前に、膝をつくわけにはいかない。まだ、歩かなくてはならないのだ。