第13話-沈黙-5/22
どうにか、看護師や警備員に見つかることなく自室に帰ってきた。当然、中には誰もいない。二つのベットは空っぽだ。
覚醒状態も帰ってきたという安堵で弱くなった。心身ともに疲れきっている。無理に身体を動かしたからか、横になると眠気はすぐにやってきた。
目を覚ましたら、アマネさんは隣で眠っていた。ただし、僕のベットで。
彼女はこちらのベットに顔と腕だけ乗せ、足は地面にあった。
こんな時ぐらい早起きはやめてほしい。夢の世界に逃避させてくれ。アマネさんをどうすればいいか迷うだろう?
そんな冗談に逃避しようとする僕を獣が蹴り飛ばす。お前は見ただろう、と。さっさと確かめろ、と怒鳴り暴れている。
暴力に支配された思考は行き着く所まで行き着いて、極論ばかりを選択させようと、馬鹿げたことを提示する。
そんなもの無視すればいいのだ。が、それはできそうになかった。
僕にできることは先延ばしにし、会話で解決することだけだった。彼女が起きてから、事実か確かめてから、と。
ふと気付けば、アマネさんは起きていた。僕は目を覚ましてから数時間、何をしていたのだろう?
この期に及んでまだ逃げようとする僕に、彼女はおはよう、と挨拶した。
確かめなくては、と思っても言葉にならない。アマネさんを淫らな行為に結びつけることができなかった。
が、頭の中ではしっかりアマネさんと男が抱き合っている姿が映像化できた。その幻影に戸惑っていると、言葉を返さないからか、アマネさんはこちらに不審そうに視線を向けた。
どうすればいいのだ。
落ち着け。息を吸い耳を澄ませる。
感じられない。息づかいはある。でも、アマネさんの色彩はわからない。
無理に色を探そうとするのは潜水のような作業だった。息苦しくなり、海の底に沈んでいくような重圧に押しつぶされそうになる。闇は実体を持って穴という穴から入り込んで、気力をそいでいき、徹底的に押しつぶそうと深く濃くなっていく。底はまだ見えなかった。
その不安が僕に口を開かせた。そんな中にずっといることは耐えられなかった。
「昨晩、何をしていたの?」
アマネさんが黙り込んだので、僕はもう一度繰り返した。努めて落ち着いた声のつもりだったが、威嚇するように強くなっていた。
「ごめんなさい」
アマネさんはそう言って、ベットから立ちあがりこちらに近づいてきた。
「質問に答えてよ。僕は、どうしていたかが知りたいんだ。何もしていなかったのならそれで」
僕の言葉を遮るように、アマネさんは唇をこちらの唇に押しつけた。そこから滑るように僕の上唇を吸って、パジャマを脱がそうとした。流れるような動作の一つ一つが情欲を掻き立てる最適解のような心地だった。
甘い匂いも前回感じたものと同じだった。今まで得た肉体的効用の最大値は、このたった僅かな触れあいによって更新された。
だけど、僕は怖かった。目の前にいる女性が誰なのかわからなかった。僕の鎖骨を弄んでいるのは誰なんだ?
「やめてくれ」
僕が唇を離し、そう言うと、アマネさんは止まった。数秒の硬直から解放された後、名残惜しそうに僕の鎖骨を手で何度か往復させて、身体を離した。
そうすると、僕はこの世界に生きている感覚を失った。詳しく表現するなら、何もかもが感じられなくなった。座っているはずのベットの感触や周囲の音が消えてしまった。
それは僕の願望だったのかもしれない。だから、いつまでたっても音が聞こえないのだろうか。
それを確かめようと、顔を傾けたら、パチンと音が鳴った。それを合図に意識も消えた。
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僕はまた23時に眠るようになり、進矢によると今までで最も衰弱したらしい。一人で出歩くことはおろか、食事もできなくなるくらいである。
体感的にはアマネさんが亡くなった時と同等だが、彼らにはその記憶がないので比較はできない。
僕の急変を医師たちが訝しんだのか、アマネさんが告白したのか、彼女は部屋からいなくなった。
色を持たない少女が去ったことで、世界に色彩は取り戻され、元通りとなった。一人だけの空間に。
それでも完全に回復はしなかった。一度、変わったモノの痕跡はあらゆる所に残り、多くが穴となった。その穴から全てが吸い込まれていくのだ。気力や体力といったものまでもが消えていく。彼女が隣にいない喪失感に耐えられなかった。
僕が会いたかったこともあるが、それ以上に彼女の事情も心配だった。
アマネさんはお金が欲しいから、モルモットの仕事を請け負ったのだ。金銭を稼げず、家族から責められていないだろうか。
そういった不安は穴を大きくしていった。
「アマネさんに会わせてほしい」
僕の世話をする医師や看護師に会う度、譫言のように今日も伝える。声を出すのさえ辛かったが、それでも、と言葉に思いを乗せる。
最後に彼女はごめんなさい、と言ったのだ。なら、まだやり直せるかもしれない。そうでなくても、真実を知らないまま、離れ離れになりたくない。
何度も医師たちに、僕が悪かった。彼女が悪いのではない。だから会わせてくれ、と伝えた。
そして、何十日も言い続けた成果がようやく出た。
「知らされてなかったのか? 彼女、ここの病院にまだいるぜ」
見習い医師の一人が確かにそう言った。精密検査をするということで、進矢が来る前に彼が計器のチェックや、僕への指示等の準備をしている時だった。
「どういうことですか?」
「おっと、進矢君のご登場みたいだ」
発言の通り、進矢が部屋に入ってきた。
「お疲れさまです」
男も進矢と同じ台詞を返し、僕の追求を躱すように退室した。
僕は進矢に声もかけずに、言葉を反芻する。アマネさんがここにいる。身体に熱が灯った。澱みが流れ出て正常な回転を取り戻す。
「アマネさんはこの病院にいるのか?」
「まだ言ってるようだな。いないよ。俺は彼女がどこに行ったか知らない」
落ちついた口調で進矢は言った。危険な状況の僕を刺激しないようにと心を落ち着けているのだろう。彼の声に労わりの色が濃く出ている。よほど僕が心配なのか、彼の色に僅かだが薄暗い部分があった。本当に珍しい。
「せめて俺に探させてくれ」
「その身体で何を言っている?」
進矢は僕の肩をしっかりと掴んだ。
「もっと自分を大切にしてくれよ。桂が傷ついていく姿を見るのは辛い。俺以外にも悲しむ人だっているんだ」
行き場のないくぐもった息を吐き、進矢はすまなそうに謝った。謝罪の意味がわからなかった。しかし、そのことを追求しようにも僕の口は思うように動かなかった。
僕らの間初めて――なかったことになったが、前回喧嘩した時よりも――耐えられない沈黙が流れた。
それでも、と言えなかった。少し冷静になったのだ。
自分のことばかり考えていて、誰かに迷惑をかけていることを失念していた。
そして、もし会えたとして、アマネさんが何を望むかはわからない。僕に会いたくないのかもしれない。僕の行動はただの自己満足ではないか?