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結婚記念日

作者: 立野絢

 私には、忘れられない人がいます。

 忘れることなど、どうして出来ましょう。

 人生の半分以上の年月を、共に生きた人。

 私は明日、七十回目の誕生日を迎えます。


 

 あの人と出会ったのはもう、五十年も前になります。

 私は当時十九歳で、親の命令でお見合いをしました。あの時代は、十代で結婚をすることは珍しいことではありませんでした。

 浮いた話のひとつもない私に、このままでは行き遅れることになると心配した両親が、手っ取り早くその縁談を用意したのでした。

 私は当時お付き合いしていた男性がいました。しかし私は両親の命令に素直に従ったのです。

 どうして、と思われるのでしょう。それは、私が臆病だったからに他なりません。

 お付き合いしていた男性は私より2つ年下で、まだ学生をやっていました。それが、全ての理由なのです。


 お見合い会場のレストランで、初めてあの人を目にしました。

 私はその時もちろん意気消沈していましたから、お見合い相手の容姿がどんなものかとか、どういう性格なのかという類のことに、まるで興味が持てませんでした。少々前のほうが禿げかかっているあの人を見てただ、私はこの人と結婚するのだな、としか思いませんでした。

 その後、レストランでどういう話をしたのかほとんど覚えていませんが、とにかく話はとんとん拍子に進んでいき、あの人と私は結婚することになりました。私が否定の意を示さなかったのだから当然のことです。

 お付き合いしていた男性のことを割り切れたわけではありません。ただ、両親の言いつけに従うことは、当時の私にはごく普通のことだったのです。そのようにずっと、少女時代を生きてきたのですから。


 話し合いの結果(それが話し合いと呼べるのかは甚だ疑問ですが)、私の二十歳の誕生日に籍を入れました。

 あの人は私に「安物だけど、君の肌に似合いそうな色だと思う」と言って、結婚指輪をくれました。

 その時初めて、私はあの人の顔を見た気がしました。もちろん実際には何度も見てはいるのですが、心の目で見たと言いましょうか。この人も悪い人じゃないのかしら、と思ったことを覚えています。

 その後の結婚生活は、ただ淡々と過ぎていきました。あの人は良い人と言えましたし、人並みに夫婦としての情もわきました。

 しかしやはり埋められない溝のようなものは常に感じていた気がします。結婚記念日になってもあの人は言葉の一つもかけてはくれませんでした。そういうところも、溝の要素の一つだったのかもしれません。

 

 そのまま長い年月が過ぎていき、ついに十回目の結婚記念日を迎えました。同時に私は三十歳の誕生日を迎えることになります。

 すると驚いたことにその日、あの人が私へプレゼントをくれたのです。結婚指輪をもらって以来、初めてのプレゼントでした。

「どういうつもりでしょう」と言いながらも嬉しくて、私はさっそくその包みを開けました。中に入っていたのは、真新しい赤い靴でした。ピカピカに光っていて、とても綺麗なものでした。

「安物だけど、君に似合いそうなものを選んだんだ」と言ってあの人は微笑みました。

 そのとき、結婚指輪をもらったときの気持ちが蘇って、私の心にあの人がまた一歩近づいたような、温かい気持ちになりました。

「今まで結婚記念日に何もしなくてごめん。僕にとっての結婚記念日は、十年刻みなんだ」あの人はそう言ってはにかみました。なんて不思議な人なんでしょう。

 

 あの人の言葉通り、十一回目の結婚記念日は例によって、特別なことは何もありませんでした。案の定あの人の中の次の結婚記念日は、二十回目のことでした。私は四十歳の誕生日を迎えます。

 あの人から三回目のプレゼントをもらいました。前にもらった時から十年も経っているわけですから、その嬉しさはひとしおです。

 包みの中には、花の形のモチーフをあしらった、可愛らしいネックレスが入っていました。

「安物だけど、華奢な感じが君にぴったりだと思った」とあの人が言いました。

 私はとても嬉しかった。このときにはもう、最初に感じていた夫婦間の溝は、気にならなくなっていました。


 三十回目の結婚記念日で、私の五十歳の誕生日には、白いマーメイドラインのシンプルなドレスを贈ってくれました。そのシルエットはとても綺麗で女性らしく、五十歳の自分が着るには恥ずかしい気がしました。

「安物だけど、絶対に似合うと思うよ」そう言ってあの人は満面の笑みを浮かべました。

 そのとき初めて、この人と結婚して良かったのかもしれない、と思いました。この人は、私を正面から見つめてくれていたのだ、と。


 四十回目の結婚記念日がやってきました。私は六十歳という老年期を迎えます。

 もう、結婚したての肌艶は微塵もありませんし、死を意識してもおかしくない年齢です。それでもあの人は変わらず私へのプレゼントを抱えています。

 しかし今までのようにそれをすぐに差し出すことをせず、それを脇に置き、あの人は言いました。「お願いがあるんだけど、僕がこれまで贈ったもの、全て身に付けてくれないかな。これは、その後に渡したい」

 あの人が何を考えているのか、わかりませんでした。今回は何か特別なことがあるのでしょうか。還暦を迎えた記念、それぐらいしか思いつきません。

 それでも言われるがままに自分の部屋へ行き、もったいなくて身に付けることもせず大事にしまっていた品物をようやく身に付け、あの人のもとへ戻りました。

 私はもう六十歳なのです。こんなに綺麗で若々しい恰好など、まわりに不快な気持ちを与えるだけでしょう。顔から火が出るほどの恥ずかしさを覚えました。

 しかしあの人は満足げに私の全身を見つめ、「思った通りだ」と言ってプレゼントを差し出しました。

 中身を確認し、唖然としました。その中身はとても意外なものだったからです。

 私はあの人の顔を覗き込んで、次の言葉を待ちました。しかしそれより先に、綺麗な包みから取り出したばかりの携帯電話が、ピピピピ・・・と愛想のない音を鳴らしたのです。

「出なさい」あの人が言いました。その表情は微笑んでいます。

 どうしたものかと私は考え込みましたが、他にするべき行動も思い浮かばず、携帯電話の通話ボタンを押し、耳に当てました。

 聞こえてきた声が誰のものなのか最初、さっぱりわかりませんでした。しかしその内容によって、記憶の引き出しがものすごい勢いで開かれる感覚がありました。心臓を鷲掴みにされるような心持ちです。

 その声の主はこう言いました。「今まで君を忘れたことは一度たりともない。僕も君ももうあのときみたいに若くはないけど、やり直したいんだ」

 そうです。その声の主は、あの日、私が十九歳のときに両親の用意したお見合いによって、別れなくてはならなくなった彼なのでした。

 あまりの驚きに言葉を失っていると、あの人が私の肩に優しく手を置いて言ったのです。「君に一番似合うのは、君の正直な気持ちだよ」

 そしてあの人は寂しげな笑みを浮かべながら、玄関へと手のひらを差し出しました。


 

 一体あのとき、どうすることが最善だったのでしょうか。

 あれからかれこれ十年が経とうとしていますが、私は安いアパートに一人で暮らしています。

 あの日玄関を出たら、若かりしときに別れた彼が立っていました。しかし私はそのまま成り行きに身をまかせることはできませんでした。私の気持ちは、長い年月の中でいろんな形を成したのです。四十年連れ添ったあの人の私を見つめる影は、小さいものではありませんでした。

 こうなることを選び、十年が経とうとしています。

 私の心の中に残ったのは、確かにあの人なのです。それがどういうことを意味しているのか、はっきりとしません。自分の気持ちというのを一番わかっていないのは、自分みたいです。

 私は明日、七十回目の誕生日を迎えます。

 


 このまま死を一人きりで受け入れるのも今は、いいかな、と思っています。

 自分によって哀しみを与えてしまった人が少なからずいるというのは、否定できない事実です。

 五十回目の結婚記念日、そして七十歳を迎える明日、自分へ試練を課そうと思っています。

 

 孤独を受け入れるという、試練を。


(了)


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[一言] 良い話です。全然読む気なかったのに、流し読みして「これはちゃんと読もう」と思いました。というか実話ですか?(小説のサイトですし、以前わが身のように落ち込んだ文章に対して元気付けようと思ったら…
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