レンタルショップ三谷
とある町の郊外に、二人の家族が住んでいた。一人は父親、だいたい四十歳くらいだ。もう一人はその娘の小学校四年生の女の子である。
「美砂、早く準備しなさい! 遅刻するぞ!」
「分かってるよ!」
娘の美砂はそう言ってデニムのショートパンツ姿で降りてくる。鍵盤ハーモニカを学校で使うので、それを探すためにリビングへ移動した彼女は、トースターを見て叫ぶ。
「お父さん、トースト焦げちゃうよ!」
「分かってるよ! 少しはお前も手伝ったらどうなんだ!」
「こっちだって学校の準備で忙しいの!」
「何で寝る前にやっとかなかったんだ!」
「うるさいなぁもう!」
これがこの二人の日常風景である。朝はたいてい忙しいのでこんな感じで口げんかになる。彼女の母親であり、この男性、幹也の妻にあたる人物は数年前に交通事故で他界している。なので、この二人は二人暮らしなのだが、二人ではなかなか手の回らないことも多い。そこでお互いが五十歩百歩の言い争いをしているうちに、このように喧嘩の絶えない仲になってしまったのである。
「ほら、送ってってやるから早く車乗りなさい!」
「いいよ走れば間に合うから!」
「女の子がむやみやたらに走ったりするんじゃない!」
「そうやってまた女の子女の子って言う! お父さんは過保護すぎるんだよ!」
「何だと! 人がせっかく親切に言ってやってるのに!」
「ああもう! 遅刻するから行く、行ってきます!」
「あ、こら待て美砂!」
美砂はそう言って玄関のドアを開けて走って行ってしまった。
「……何でこうなんだあいつは」
幹也はため息をついた。
「何でお父さんはああなんだろう」
学校が終わって帰り道、父親が同じことをぼやいていたとも知らずに、美砂はこう呟く。彼女からしたら父親がなぜ自分のことをこうも注意してばかりなのか分からない。だらしないだらしないとは言うが、それは父親だって大して変わらないのに。父曰く、「おまえは女の子なんだからもっとしっかりしなさい」だそうだが、そういうならまずは親の自分が見本を見せてみろ、というのが彼女の持論だった。昔はこんなに口うるさくはなく、むしろ優しかったはずなのに、どうして変わってしまったのだろう。お母さんが死んでしまってからのような気がする。
「公園でも行ってみようかな」
こんな風に落ち込んだ時は、彼女がお気に入りの場所に行くのが常である。もっとも、最近はほぼ毎日のように通いづめていたが。
「よっし、今日も誰もいないみたい」
少し歩くとその公園は見えた。学校からすぐ近くにあるのだが、そこにあるペンギンの滑り台の上でのんびりするのが彼女のストレス発散方法だった。だが、公園の中に入ると、普段とは少し様子が違っていた。
「あれ、何あれ……?」
いつもなら何もないはずの公園に、何やら怪しげな店が建っていた。名前は『何でも貸します レンタルショップ三谷』だった。
「おや、いらっしゃい。何かお探し物でも?」
彼女が中を覗き込むと、そこにいたのは優しそうな二十代くらいのお兄さんだった。
「ううん、何も探してないけど……。何、この店?」
「ああ、今日はこの公園の日だったからね」
「この公園の日……?」
そのお兄さんの言葉に女の子は首をかしげる。すると、お兄さんは説明を始めた。
「うん。いつもいろんな公園を回っては、こうやってお店を開いているんだよ。まあ、ボランティアみたいなものだから、実際はお店って言ってる割にはお金とかは取ったりしないんだけどね。ただし、借りられるものは1度に1つまでだけど。とは言っても例えば文房具をレンタルしたいって言うなら消しゴムと鉛筆をレンタルしてあげたり、いろいろと融通を効かせてはあげられるんだけどね」
「ふーん……」
割とこの公園に来ている彼女が会ったことがないのが少し不思議だったが、とくに疑う理由もなかったのでそれ以上は聞かないことにした。
「で、何か君は借りたいものでもあるのかな?」
「……うーん、いや、何も」
そう言いかけた美砂は、あわてて首を振った。
「本当に、何でも貸してくれるの?」
「うん。そういうお店だからね」
その答えを聞くと、美砂は少し考え、こう聞いた。
「じゃあさ、お母さんって、貸してもらえる?」
「……お母さん? 何でまた? 喧嘩でもしたの?」
当然、お兄さんがそんなの無理だよ、と返してくるのを予想していた彼女は、そんな風に聞かれて驚く。
「ううん、うち、お母さんが病気で死んじゃったんだけど、そしたらお父さんがあれこれ口うるさくなっちゃって、お母さんがいたらもっと変わったりするのかな、って」
「……ふーん、分かった。じゃ、ちょっと待ってて」
女の子の話をすべて聞いたお兄さんは、そう言って店の奥に引っ込もうとする。
「えっ、本当にできるの?」
「言ったでしょ、何でも貸すって」
そう言ったお兄さんは数分後、大人の女の人を連れてきた。だが、その姿はどこからどう見ても……。
「お母さん!」
美砂は叫んで抱きつく。実に数年ぶりの再会だった。
「あの、この子に会って本当にいいんですか? 私、死んでるんですよ? なのに、こんな無茶なお願いを聞いていただいて……」
抱きつかれたままの母親は首をかしげながら、お兄さんに聞く。
「本当は死んだ人間と生きた人間を引き合わせるのはルール違反なんですけどね。まあ、来週は母の日ですし、今回はサービスってことで。ただし、期間は今日から母の日、来週の日曜日の夜8時までの一週間です。それまでに、この子の心とこの子の父親の心をつないであげてください。事情はさっき説明したとおりですので」
「はぁ、分かりました……」
腑に落ちない点はあるものの、母親は頷くしかなかった。
「奈々、奈々なのか……? 何で……?」
家に着いたのは夜の7時だった。いつになっても帰ってこない娘を怒ろうと思って玄関先で待ち構えていた父親は、美砂と一緒に帰ってきた女性を見て、言葉を失う。
「うん。久しぶり、幹也」
「……奈々!」
父親は、そう聞いた瞬間、娘と同じように自分の妻を抱き寄せた。彼女の匂い、姿形、感触、すべてにおいて昔のままだった。
「お父さん、今夜はどこかに食べに行こうよ!」
「ああ、そうだな! 奈々、何か食べたい物とかないか?」
「え、うーん、じゃあ、お寿司がいいかな。ほら、サーモンの」
「よし、じゃあさっそく支度だ! 美砂も急げよ!」
「分かってるって!」
そんな現金な二人の様子を見て、奈々は苦笑いするしかなかった。
それからはあっという間に時が過ぎて行った。木曜日には3人で久しぶりに奈々の手料理を食べた。金曜日は美砂は母親から編み物を教わり、美砂が寝た後、父親は奈々と二人の時間を過ごしていた。
「最近美砂が俺の言うことを聞いてくれないんだ」
幹也はそう奈々に愚痴をこぼす。
「うん、一応上から見てたし、私を呼んでくれたお兄さんからも事情は聞いてるわ」
「やっぱり、反抗期なのかな?」
幹也はそう聞く。奈々は少し考え、こう答えた。
「うーん、それもあるかもしれないけど、あなたはあの子に女の子であることを強要しすぎてるのよ。あの子は、女の子らしさを求めているあなたを厳しすぎる、って思ってるの。昔は優しかったのに、とも思ってるみたい」
「でも、あいつももう小学校の高学年だぞ。いい加減いつまでもおてんばわんぱく娘ってわけにもいかないだろう」
やはり幹也はそう言う。彼としてはもう少し美砂に女の子らしくしてほしいのだ。
「気持ちは分かるけど、もう少しあの子の気持ちも考えてあげて。人間そんなに急には変われないでしょう?」
「……そうだな、俺は少し焦りすぎてたのかもしれないな。うん、もう少し優しく接してみるよ。何より、そのせいで奈々がここに連れてこられたんだもんな」
幹也はそう言う。だが、奈々は舌をペロッと出した。
「それもあるんだけど、実は、私が会いたいっていうのを前からその人に言ってたのよ。そしたら、今回は特別に、ってことで会わせてもらったの」
「そうだったのか……」
「だから、日曜日に、3人で遊園地に行きましょ? 私とあなたが初めてデートした、あの大きな観覧車のある遊園地で。もう、私にもあんまり時間もないし」
前半は楽しそうに、後半は真剣な表情で奈々は言う。
「……ああ」
幹也は顔を歪ませる。もともと彼女はすでに死んでいる人間なのだ。この場にいてはいけないもの。彼女との別れの時間は、刻一刻と迫っていた。
そして日曜日、
「わーい、遊園地だ! いこっ、お母さん、お父さん!」
「あっ、引っ張らないでよ美砂!」
美砂は大喜びで遊園地にいた。その一方、奈々と同じように腕を引っ張られている幹也は複雑そうな表情だ。何せ今日で彼女との日々も終わりを迎えるのだから。
「あなた。もっと明るくいきましょ? 今日で最後なんだし、ねっ?」
「……ああ、分かってるよ」
頭では分かっているのだ。この場で楽しまなければきっと後悔することも、もう彼女と会うのが最後だろうことも。だが、そう簡単に割り切って楽しめないのも、また彼の心情であった。
(ちくしょう、何でそんなに楽しそうなんだよ、奈々……)
幹也は複雑そうな表情で奈々を見つめる。
「ほら、お父さん行くよ!」
「ちょ、待てって美砂危ない!」
しかし、自分の娘が自分の腕を強く引っ張ったことで、幹也は現実に引き戻された。そのまま引きずられるようにして、幹也を含めた3人は遊園地へと入った。
そこから先はあっという間だった。ジェットコースター、お化け屋敷、コーヒーカップ……。様々なアトラクションに乗った3人は、ひとまず持ってきたお昼を食べることにした。
「ひょうははのひーね(今日は楽しいね)!」
奈々お手製のサンドイッチを頬張りながら、美砂はご機嫌そうにはしゃぐ。幹也がこんなに楽しそうな娘の顔を見るのはいつ以来だっただろうか。やはり自分が娘を縛り付けていたのか、と奈々の話を思い出しながら納得する。
「ほら、口にものを入れたまま喋らないの。ちゃんと飲み込んでから話しなさい」
「ふぁーい!」
奈々が注意するのを見て、いつも通りの光景だ、と安心しかけた幹也は、奈々の目から一筋の涙が流れていることに気付いた。
「奈々……?」
「あ、ううん、何でもないの。気にしないで」
その瞬間、幹也は気づいた。やはり奈々も幹也と同じように、無理をしていただけなのだ、と。自分だけではなかったのだ。こんな単純なことにも気付かなかった自分はバカだ、と幹也は内心思ったが、落ち込んでいる暇はない。もう、彼女との時間は半日もないのだ。
「奈々、最高の思い出を作ろう、美砂と俺と、そしてお前の3人で」
「……うん」
奈々は涙を拭いた。美砂は、その様子を不思議そうに眺めるだけだった。
それから数時間の時が過ぎた。3人は午前中以上に様々なアトラクションを楽しんだ。だが、とりわけ最後の観覧車で3人で撮った写真の、全員の今までにないような素晴らしい笑顔は、誰が見ても最高の家族を示すものだっただろう。だが、そんな時間ももう、終わりを告げようとしていた。
「おかえりなさい。どうでした、一週間の楽しい夢物語は?」
「ええ、最高でしたよ。それはもう、時間を忘れるくらいには」
あの公園に3人で向かうと、やはり一週間前と同じようにあの青年が、「何でも貸します レンタルショップ三谷」という看板を出して立っていた。
「……お母さん、行っちゃうの?」
美砂は悲しそうな顔をする。すると、奈々は美砂の頭をなで、こう言った。
「お母さんはね、この世界にいちゃいけないの。でも、無理を言って一週間だけこっちに来ることができたの。でも、もう帰らなくちゃ」
「行っちゃヤダ!」
美砂は奈々の腰に抱きつく。その仕草は、駄々をこねる幼稚園児そのものだった。すると、その頭を幹也がさらに上からなでる。
「……美砂、お母さんはな、いるべき場所に帰るだけなんだ。またすぐに会える」
「……ホントに?」
「ああ」
幹也はこう言う。それが嘘だ、とは言えなかった。
「そうよ。大丈夫、お母さんは美砂のことずっと見守ってるから」
「……うん、分かった」
美砂は母親の体から離れた。
「お別れは済みましたか? では、そろそろ行きましょうか」
「はい」
奈々は歩き出した。男性に連れられてゆっくりとテントの奥へと消えていく。その様子を見て、美砂は父親に声をかける。
「お父さん、また会えるよね?」
「ああ、もちろんさ」
そんな事を話していると、テントの奥からあの青年が出てきた。
「ご利用ありがとうございました。またのご利用をお待ちしています」
「行こっか、お父さん」
「……悪い、美砂は先に帰ってろ。俺もこの人に用事があるんだ」
「……? うん、分かった」
娘は首をかしげながら、一人で先に帰ることにした。
美砂が帰った後、あの青年は幹也に同様にこう尋ねる。
「どうでした、楽しい夢物語は? 一週間遅れですが」
「ああ、おかげですっかり期限を忘れてたよ」
幹也はこう答える。実は、彼もこの三谷という青年にあるものを借りていたのだ。
「あなたが借りていたのは配偶者と娘、家族をレンタルしたいといったあなたに私がお貸ししたものです。返却期限はあなたの誕生日である5月2日から5年間でした。しかし、あなたのレンタルした配偶者は、その直後に自動車事故でこの世を去った。まったく不運なことです。あなたが娘に病気で死んだ、と説明していたことも私は知っていました。何とかしてもう1度引き合わせてあげたいとは思っていましたが、まさかそのあなたの娘が私の元に頼みに来るとは思いもしませんでしたよ」
「……ああ、あの時は本当にびっくりしたよ」
もともと彼は独身で、そろそろ身を固めておきたいと思っていた。だが、この年になっても独身でい続けた彼に、今さら結婚したいという物好きが現れるはずもない。まして彼はイケメンでもなければ、別に性格がいいというわけでもなかった。当然、親がお見合い写真を月に3冊ほど送ってくるのも仕方ないと言えば仕方のないことだった。そんな生活に飽き飽きした彼がこの公園にやってきた時、やはりこの青年は今と同じようにレンタルショップ三谷を開業していたのだ。
「来ていただけたということは、返却する、ということでよろしいですね。延長料金みたいなものは普通のレンタルショップのように取ったりはしないので安心してください」
「ああ。しかしあんた、5年も経ってるのに、何でまったく年を取ってないんだ?」
「それは企業秘密です。では、あなたの借りたものを返却いただきましょうか」
青年は指をパチンと鳴らす。その瞬間、さっきまで幹也のいた世界は空間が一瞬振動し、何かが通り抜けるような音と共に消えていった。
「……これで、終わったんだな。ありがとよ、楽しい時間だったぜ」
幹也は感慨深そうに言う。5年一緒にいた美砂も、事故で死んだ奈々ももういない。彼に残されたのは5年という空虚な時間の中に残されたわずかな夢物語だけだ。彼は、誰もいない自宅に向かって歩き出す。
「はい、ご利用ありがとうございました。またのご利用をお待ちしています」
青年は後ろを向いて歩きだした幹也の言葉に事務的な口調でそう答えると、音もなく姿を消した。